歴史的シリア
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歴史的シリア(れきしてき-)は、大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでメソポタミアと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。イスラーム勃興時代からアラビア語でシャーム地方(bilād al-Shām)と呼ばれた地域はほぼこの範囲に該当する。
考古学によれば歴史的シリアは人類文明が最も早く芽生えた土地のひとつである。1975年に発掘された古代都市エブラの発掘調査によれば、紀元前2500年から紀元前2400年にかけて、南の紅海から北はトルコ、東はメソポタミアに及ぶセム人の大帝国が広がっていた。当時のエブラの人口は、26万人に達した。研究者はエブラで話された言語は最古のセム語であると考えている。
時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、セレウコス朝シリア、ローマ帝国、ナバタイ人、東ローマ帝国、アラブ人、十字軍、モンゴル人、オスマン帝国によって支配された。歴史的シリアはまたキリスト教にとって重要な役割を果たした。使徒パウロが改宗したのはダマスコスにおいてであり、またキリスト教徒(クリスチャン)の呼称はシリアのアンティオキアで生まれた(使徒行伝)。古代末期に築かれた港町アンティオキアはシルクロードの西端として、地中海貿易の拠点であるだけでなく、ユーラシア大陸における東西の交易路の最も重要な拠点として繁栄した。一方、16世紀よりこの地域を支配するようになったオスマン帝国は、この地域にあまり関心を持たず、以後19世紀までほとんどこの地域は国際情勢に関係することがなかった。
第一次世界大戦の後、オスマン帝国は解体し、1922年に国際連盟はシリアをイギリスとフランスの二国が分割することを決めた。イギリスはトランスヨルダン地方とパレスチナ地方を受け取り、フランスは現在のシリア・アラブ共和国およびレバノンを受け取った。
フランスが植民地とした地域はシリアの名前を継承して1941年に独立を宣言したが、すぐには承認されず、1944年1月1日国際的に承認された。
[編集] 関連項目
- シリア語