エーリヒ・ルーデンドルフ
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エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff, 1865年4月9日 - 1937年12月20日 トゥッツィング Tutzing)は、ドイツの軍人。第一次世界大戦におけるドイツ陸軍の有名な将軍。
ルーデンドルフはプロイセン王国が1815年から1919年まで統治したポーゼン州のシュヴェルゼンツ近くの村 (Kruszewnia) に生まれた。現在この地はポーランド領である。彼自身はユンカーではなかったが、母親クラーラ・フォン・テンペルホーフは有名なユンカー一家の出身であった。
18才で入隊し、1894年に参謀本部入り。1908年にフランス攻撃計画シェリーフェン・プランのための企画部門(Militärische Plannungsabteilung)を率いる。
第一次世界大戦開戦時、西部戦線のドイツ第2軍参謀次長だったが、戦功が認められパウル・フォン・ヒンデンブルクに抜擢され、東部戦線の指揮を任される。ルーデンドルフとマックス・ホフマンの指揮によってタンネンベルクの戦いなど一連の戦功を挙げることに成功する。1916年8月に参謀次長に就任し、ヒンデンブルクと共にドイツ軍の全権を握るが、無制限潜水艦作戦によってアメリカ合衆国の参戦を招き、東部戦線で勝利を収めたものの結果として第一次世界大戦での敗戦を招いてしまった。
退役後は専ら右翼の活動に熱中し、1923年にナチスが起こしたミュンヘン一揆に参加、検挙されるも1924年にナチスから国会議員に立候補し当選した。しかし1925年の大統領選挙では惨敗、その後ナチスから離反し、半ば隠居するが世界中で起こっている様々な問題をキリスト教徒・ユダヤ人とフリーメーソンに因るものとする陰謀論を主張した。1935年にヒトラーによって陸軍元帥に列するとの申し出があったが、拒絶。1937年に没したが、葬儀は国葬が執り行われた。
[編集] 外部リンク
- エーリヒ・ルーデンドルフ Firstworldwar.com Who's Who
- Ludendorff by H. L. Mencken published in the June 1917 edition of the Atlantic Monthly
- エーリヒ・ルーデンドルフ伝記 Spartacus Educational