アナキズム
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アナキズムまたはアナーキズム(Anarchism)は、国家を廃絶し、自由な個人から構成される、相互扶助を基調とする小さな地域共同社会または中間的集団の確立を主張する思想。社会主義の流れを汲むものもあれば、個人主義の流れを汲むものもある。日本語では、無政府主義と訳される。自由至上社会主義(Libertarian Socialism)も同意味。
アナキズム(アナーキズム)のシンボルカラーは黒。アナキズム思想の持ち主をアナキスト(アナーキスト)という。なお、日本ではAnarchist自身は比較的厳密に「アナキスト」と、それ以外の第三者(研究者、反対者、他)は、適宜「アナキスト」「アナーキスト」と形容した。
また、リバタリアニズムを徹底的に押し進め、政府のない自律的な自由競争市場を理想とする資本主義的な無政府主義思想はアナルコ・キャピタリズムという。アメリカ合衆国では米ソ冷戦後一部で台頭し、社会主義的なアナキストと、アナルコ・キャピタリズムの支持者との間で激しい論争が起こった。
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[編集] 語源
「アナーキー」という言葉は、ギリシア語で否定を意味する接頭辞「a(n)」と、支配者、責任者などを意味する「archos」から来ており、anarchosまたはanarchiaは「政府を持たないこと、政府が無い状態」を意味する。
[編集] 歴史
[編集] 形成
アナキズムの理念的ルーツは古く、個々の、あるいは特定の思想家の信念や思想として生まれたものではなく、自由を求める歴史の中から、いわば精神の自然史というような形で生成してきたものだが、それを自覚した近代のアナキズムは、19世紀、フランスのプルードンの思想に始まる。続いて第1インターナショナルではプロレタリアート独裁を唱える"権威派"のカール・マルクスと、権力の集中を批判しアナキズムを主張する"反権威派"のミハイル・バクーニンが論争を行った。またインターナショナルの運営においてもマルクスは総務委員会の権限強化を主張し、それに対してバクーニンは諸支部の連合を主張し対立した。インターの多数はバクーニンを支持したため、総務委員会のポストにあったマルクスは謀略的にバクーニンとバクーニンを支持するインターの各支部を除名し、第一インターナショナルを解体する。多数派を形成したバクーニンは、ただちにマルクス以下の残党を除名し、第一インターを継続させた。
[編集] 革命運動史
第一インターの強力な支部を形成したイタリアは、バクーニンの影響を強く受けたマラテスタ、カフィエーロ、コスタなどの指導によりアナキズムが強力に根付いた。ロシアにおいては、ロシア革命(十月革命)後の共産主義政権の独裁に反旗を翻して蜂起したクロンシュタット軍港の水兵たちの運動や、ウクライナにおいて白軍を撃退したネストル・マフノ率いるマフノ運動の存在が大きい。モスクワやペテルスブルクなどの都市部においてもアナキストは、共産党の独裁に対する反対勢力として社会革命党左派(エスエル左派)とも連携し、非合法をも含む様々な活動を展開している。スペインもまたバクーニン以来、アナキズムの根強い地域であり、20世紀前半のスペイン内戦においてアナルコ・サンディカリズムを主張する労組(CNT/FAI)はフランコと対峙する人民戦線側では最大の勢力を誇り、各地で革命を起こしバルセロナ市では労働者による自治が行われた。また人民戦線政府の閣僚となったCNT/FAIに対して革命的アナキズムの路線を貫いたドゥルティや、「革命」とフランコとの「戦争」の二者択一のアポリアに対して「革命戦争」の方向を提示した「ドゥルティの友」の活動も看過してはなるまい。
19世紀末から20世紀前半にヨーロッパを中心にして、アナキストによる力尽くの体制排除を目的とした、暗殺事件が世界中で多発した。当時の世界情勢は概ね帝国主義化しており、中には反帝国主義から事件を起こしたアナキストもいたと思われるが、しかし実際には効果が上がらず、第一次世界大戦以降は、体制並びにソ連などの共産主義によって弾圧されるなどして、アナキストの活動は収縮して行った。
[編集] 近代日本
日本では、幸徳秋水がクロポトキンの影響を受けたが、大逆事件で弾圧された。大正時代に入り、ロシア革命が起こると、大杉栄の主張する、労働組合を基盤としたアナルコ・サンディカリスムが一定数の支持を得て、マルクス主義者(ボリシェビキ)との間にアナ・ボル論争と呼ばれる論争が行われたが、大杉は関東大震災後の混乱の中、甘粕正彦憲兵大尉により虐殺された。
大杉の死後、大杉というスター的人物を失ったアナキズム運動は個人的の活動から組織的、社会的な運動となっていく。まず、八太舟三に代表される純正アナキズム(アナルコ・サンジカリズムは、サンジカリズムの影響を受けており不純なアナキズムであると批判する)が盛んになり、その後は、アナキズムとしては異例の強固な「党的志向」をもった無政府共産党や、全国的な農民運動として、歴史的には「農青イズム」と呼ばれた革命的地理区画を全国に樹立した具体的で実践的な農村青年社の運動が登場する。
[編集] 戦後日本
太平洋戦争敗戦後のアナキストは寧ろプルードンの立場に近く、実力での資本主義制度を打倒よりも地域コミュニティ再建の実現を目指していた。戦後のアナキズムはアナルコ・サンディカリズム系の日本アナキスト連盟と、純正アナキズム系の日本アナキスト・クラブが啓蒙的活動を続けていたが、ほとんど影響力はなく、アナキズムは死んだに等しいと見なされていた。
そのようなアナキズムが蘇ったのは1968年から1970年にかけての全国的な学園闘争においてである。学園闘争の中心となった全共闘(全学共闘会議)はノンセクトであり、その組織形態もアナキズムに多い自由な評議会的なものであったことからアナキズムへの関心が芽生えることになった。東京のアナキストは連盟の後継の要素を引き摺り、学習会的・サロン的色彩を払拭出来ず(麦社)、それ以外もテロリスト的な小結社主義(背反社)の域を出なかったが、関西・大阪のアナキストは、小組織・小グループの傾向を離脱してアナキスト革命連合(ARF、アナ革連)という「アナキスト・ブント」とあだ名された統一組織を形成し、各大学や地域において強力な運動を展開した。関西の主要大学にはアナキスト連合の組織や支部が形成され、キャンパスにはアナキストの黒旗が翻り、一部では完全にマルクス主義者を凌駕していた。
戦後のアナキストとしては、詩人の秋山清や評論家の大澤正道らがおり啓蒙的著述を続けていたが、その後、向井孝は非暴力直接行動論を粘り強く持論とし、千坂恭二はバクーニンの思想をベースにブント的アナキズムを精力的に展開した。アナキスト以外では作家の埴谷雄高や映画評論家の松田政男などがアナキズムに強い関心を示していた。
[編集] 思想の多様性
政治思想としては、左翼に属する。しかし、その内容は多様であり、一個の思想というより、複数の思想の共通形態と言えよう。たとえば歴史上のアナキズムの古典とされるプルードン、バクーニン、クロポトキンの三人においてさえ、思想はまったく異質である。資本主義のシステムを批判したプルードンのアナキズム(プルードン主義、"無政府連合主義")はフランス流の合理的思考の影響を引き摺り、革命の運動論と組織論を展開したバクーニンのアナキズム(バクーニン主義、"無政府集産主義")はヘーゲル左派的なヘーゲル主義の色彩を色濃く残し、相互扶助による社会を構想したクロポトキンのアナキズム(クロポトキン主義、"無政府共産主義")は徹底して反ヘーゲル的である。彼らに共通するのは思想内容ではなく、自由を強固に求めるというアナキズム的傾向であろう。
マルクスはプルードンを根強く、酷く批判し、またバクーニンとは第1インターナショナルにおいて激しく論争した。そのためバクーニン以後のアナキストは自らを「反権威主義者」と位置づけ、マルクスを「権威主義者」として批判し、マルクス主義者は第二インターナショナルにおいてアナキズムを敵視した。このため伝統的なアナキズム思想史やマルクス主義思想史ではマルクスはアナキズムと敵対的と見なされているが、しかしマルクスもまた国家についての究極的立場は「国家の死滅」であり、その意味ではマルクスの思想もまたアナキズムだともいえる。さらにマルクス以前の、やはり権威主義的傾向とされるブランキもまた到達すべき社会は「規則ある無政府」であるという。これは無秩序としての無政府ではなく、固有の秩序を持つ無政府のことであり、それを求めるブランキもまたアナキストであるといえなくもない。アナキズムを一個の党派的思想ではないとするならば、旧来の思想史的理解に対して、マルクスやブランキ、さらにはバブーフをも含むアナキズムの思想史的理解が必要ではないだろうか。
アナキズムは思想体系というよりも思想傾向ということから、アナキズム以外の思想にも様々な影響を及ぼしているが、もっとも有名なのは、アナルコ・サンディカリスムのような、労働運動と結びついたアナキズムの影響を受けたフランスの思想家であり、ファシズムにも影響力を持った『暴力論』の著者であるジョルジュ・ソレルだろう。
また、これらの社会主義的傾向のアナキズムに対して、個人主義的傾向のアナキズムがあり、その代表としてヘーゲル左派の出身で、ヘーゲルの「絶対精神」を自我の所有するものと捉え、独我論的なまでに「自己」の絶対自由性にこだわったマックス・シュティルナーがいる。
通常、アナキズムは、一個の政治思想としてはマルクスの共産主義よりも「左」に位置する極左的思想と見られている。しかし、そうした政治思想としてではなく思想や精神の形態として見れば、さまざまなタイプがある。プルードン、バクーニンからマラテスタやヨハン・モスト、エーリヒ・ミューザムまで左翼や極左としてのアナキストは有名だが、右翼と称される人々にもアナキスト的傾向が存在する。例えば、「保守革命のアナキスト」(H-P・シュヴァルツ)といわれる後期のエルンスト・ユンガーや、フライコールに参加しコンスル(執政官組織)の一員でもあった「プロイセン的アナキスト」といわれたエルンスト・フォン・ザロモンがおり、対独協力派のリュシアン・ルバテなども「極右のアナキスト」と比喩されている。
アメリカ合衆国ではリバタリアニズムが保守本流であるが、厳密にはアナキズムではない。アメリカ人にとってアナキズムは共産主義と並ぶ反体制派の思想と見られており、保守派の間でもアナキーはフリーダムと区別されており、かつ批判的ないし軽蔑的に使用されている。ドイツでは近年、政府だけではなくあらゆる労働をも否定する「ポゴ無政府主義」が提唱され、1981年にはドイツ無政府主義ポゴ党が結党されている。
[編集] 「無政府」と「反国家」
一般にanarchismは「無政府主義」と訳されるが、無秩序を意味して使用される「無政府状態」のネガティブな無政府とは同義でなく、「権力・権威がない」、可能な限りの自由な秩序をも意味している。このようなヒエラルキーへの反対という観点からみれば、アナキストがアナキズムの別名として使った、「自由社会主義」「自由共産主義」「リバータリアン社会主義」「リバータリアン共産主義」の意味がわかるだろう。
またアナキズムがいう「反国家」という場合の「国家」も注意が必要である。アナキズムは、人間の共同体や社会を否定する反秩序派ではない。アナキズムのいう「無政府」が、政府無き無秩序を意味するのではなく、権力の無い自由な秩序を意味しているように、アナキズムが反国家という場合の国家とは、権力機構、権力装置としての国家を指している。国家には近代の国民国家時代には「最高度の共同体」という意味がある場合もあり、その場合の国家は、自由を実現する共同体の基礎単位とされる(分りやすい例が、若き頃のヘーゲルやシェリング、ヘルダーリンが求めたような)。誤解を恐れずに言えば、近代アナキズムが言う無政府(権力なき自由な秩序)とは、この意味での国家(自由を実現する共同体)の水準のものであるということである。ポスト国民国家の時代においては、権力なき自由な秩序の基礎単位は国家ではなくなり、それに応じてアナキズムのいう無政府概念の水準も変わってこよう。近代アナキズムに対する現代のアナキズムのテーマもそこにあるといってもさしつかえないだろう。
[編集] 近代アナキズムについての参考文献
- ジョージ・ウドコック(白井厚訳)『アナキズム』1(思想篇)、紀伊國屋書店、1968年6月(復刻版、2002年6月刊。ISBN 4-314-00917-9)
- 原著: George Woodcock, ANARCHISM: A History of Libertarian Ideas and Movements, Amsterdam Books, Jun 1994, ISBN 1561310565 / Quarry Press, Apr 1995, ISBN 1550820184
- ジョージ・ウドコック(白井厚訳)『アナキズム』2(運動篇)、紀伊國屋書店、1968年7月(復刻版、2002年6月刊。ISBN 4-314-00918-7)
- 原著は思想篇と同じ
- マックス・ネットラウ (上杉聡訳)『アナキズム小史』三一書房、1970年10月
- 原著: Max Nettlau,La anarquia a traves de los tiempos,Guilda de Amigos del Libro,1935. Breve storia dell' Anarchismo,Edizoni L'Antistato Cesena,1964
- ジョン・クランプ著、碧川多衣子訳『八太舟三と日本のアナキズム』青木書店、1996年7月、ISBN 4250960277
- 主な文献: p258 - 263、原著: John Crump, Hatta Shuzo and pure anarchism in interwar Japan, Palgrave Macmillan, Dec 1993, ISBN 0312106319
- ジェームズ・ジョル(萩原延壽・野水瑞穂訳)『アナキスト』、岩波書店、1975年2月。
- 日本アナキズム運動人名事典編集委員会編『日本アナキズム運動人名事典』ぱる出版、2004年5月、ISBN 482720098X
- I.L.ホロヴィツ編、今村五月ほか訳『アナキスト群像』社会評論社、1971年 / 批評社、1981年8月 / 批評社、1998年7月、ISBN 4826500254
- アナキズム参考文献: p341 - 349
- 松下竜一著『久さん伝 あるアナキストの生涯』講談社、1983年7月、ISBN 4062006537 / 『松下竜一その仕事』18、河出書房新社、2000年4月、ISBN 430962068X
- ハーバード・リード著、大澤正道訳『アナキズムの哲学』法政大学出版局、1968年 / 1998年8月、ISBN 4588000071
- 著者: Herbert Edward Reed
- アンドレ・レスレール著、小倉正史訳『アナキズムの美学 破壊と構築:絶えざる美の奔流』現代企画室、1994年10月、ISBN 4773894105
- 主要参考文献あり、原著: André Reszler, L'esthetique anarchiste, Presses universitaires de France, 1971
- 農村青年社運動史刊行会『1930年代に於ける日本アナキズム革命運動・農村青年社運動史』ウニタ書舗、1972年
[編集] 関連項目
- パリ・コミューン
- ロシア革命
- クロンシュタットの反乱
- マフノ運動
- スペイン革命
- スペイン内戦
- ドゥルティの友
- サッコ・バンゼッティ事件
- アナルコ・サンディカリスム
- サンディカリスト
- 純正アナキズム
- 黒色青年連盟
- 農村青年社
- 無政府共産党
- 日本アナキスト連盟
- アナキスト革命連合
- 無政府共産主義者同盟
- ウィリアム・ゴドウィン
- ピエール・ジョゼフ・プルードン
- マックス・シュティルナー
- ミハイル・バクーニン
- ジャム・ギョーム
- ジュゼッペ・ファネリ
- ピョートル・クロポトキン
- ウラジミール・チェルケゾフ
- ネストル・マフノ
- ピエール・ラムス(ルドルフ・グロースマン)
- エンリコ・マラテスタ
- カルロ・カフィエーロ
- アンドレア・コスタ
- ヨハン・モスト
- ブエナヴェントゥラ・ドゥルティ
- マックス・ネットラウ
- グスタフ・ランダウアー
- エーリヒ・ミューザム
- エマ・ゴールドマン
- ジョルジュ・ソレル