臥薪嘗胆
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臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語である。紀元前6-5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来する。この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王句践世家、「臥薪嘗胆」と揃った形で存在する説話は14世紀前半に成立した『十八史略』である。
この成語は明治時代の日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。
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[編集] 故事の由来と成立
[編集] 故事の由来
『史記』によると、紀元前6世紀末、呉王闔閭は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた。夫差はその言葉どおり国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した(臥薪、この記述は『史記』には存在せず、『十八史略』で付け加わっている)。
まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は部下の進言に従って降伏した。勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆とともに富国強兵に励み、その一方で苦い胆(きも)を嘗めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。その間、強大化したことに奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして国力を疲弊させた上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑するなどした。ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために、自殺した。
[編集] 「臥薪嘗胆」の成語の成立
前項に述べたとおり、「嘗胆」は「屈辱を忘れないようにする」という意味で紀元前1世紀の書物『史記』に登場し、その後もよく多くの書物で使用されたが、しばらくは「臥薪」と組み合わせた形ではなかった。「臥薪」は『晋書』『梁書』などで意味は現在のものと同じでありつつも単独で使われ、特に呉越戦争からの成語であるといった修飾文も存在しない。一方で、「臥薪抱火」(わざわざ危地に入ることのたとえ)といった意味が全く異なる別の成語として使用される例も古書(『三国志』や『梁書』)には残っている。
「臥薪嘗胆」と連なった形では、現在残る書物では12・13世紀(宋代)の『朱子語類』や『資治通鑑』の胡三省による注などから見かけるようになる。特に『通鑑』胡注では、臥薪嘗胆の語の前に「越王句践の」が修飾されており、呉越戦争に関係していることを明示している。その後14世紀(元代)の書物となると、『十八史略』『遼史』『宋史』『金史』などに多く使われている。
なお、説話の中で呉・越のそれぞれのエピソードとして「臥薪」と「嘗胆」の両語を組み合わせた初出は現在残る書物では『十八史略』であり、同時にもっとも広まっているものである。
[編集] 三国干渉時のスローガンとして
日本は、19世紀の半ばから、欧米列強の力により開国することを余儀なくされ、欧米に倣った近代国家設立を目指してきた。1890年代に入ると、帝国議会が設立されるなど内政の基盤も安定してきた。さらに、日本は1894年から翌1895年にかけて行われた日清戦争においては清国に勝利した。しかしながら、この時期においては、日本は西洋の列強に伍することは未だ不可能であった。列強との間には不平等条約が残り、西洋列強はまだ日本を文明国とは認めていなかった。
日清戦争の終結に伴い、下関条約が結ばれた。この条約では、日本は清から遼東半島を割譲されることとなっていたが、満州を狙うロシア帝国が、ドイツ・フランスと手を結んで、日本に遼東半島を返還するように要求した。これを三国干渉という。列強三国の要求に対して、未だ弱小であった日本が断れるわけもなかった。日本は要求どおり、遼東半島を清に返還した。1898年にはロシア帝国が遼東半島南端の旅順・大連を清から租借した。
こういった状況に対し、日本の世論はロシア憎しという声が高まった。この世論を盛り上げるスローガンとなったのが、「臥薪嘗胆」である。