長州藩
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長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領地とした外様大名毛利氏を藩主とする藩である。
藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたために萩藩(はぎはん)とも呼ばれていたが、幕末には周防山口の山口政事堂に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と称されることとなった。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。
幕末には薩摩藩と共に討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から多くの政治家を輩出し、長く日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。
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歴史
藩主毛利氏は、戦国時代末期には広島に本拠地を構え、中国地方全土を領地とする大大名であった。しかし、1600年の関ヶ原の合戦で、毛利輝元は西軍石田三成方の総大将となって敗れ、東軍に内通していた一族の吉川広家の取り成しで粛清や改易こそ免れたが、周防・長門の2国36万石に減封された。又、築城に当たっても、三方を山に囲まれ一方は日本海に面している、交通の便が比較的悪い萩に築城する事を徳川幕府に命じられた。これらの経緯から、徳川氏への恨みは深く、毎年正月には幕府への恨みを確認する儀式を行うのが慣わしであった。
1829年(文政12年)には、産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。
江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。1831年(天保3年)には、大規模な長州藩天保一揆が勃発。その後の1836年(天保8年)旧暦4月27日には、後に「そうせい侯」と称されて有名な毛利敬親が藩主に就任し、村田清風を登用した天保の改革を行う。相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で、海防強化も行う。村田の失脚後は、坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が、安政の改革を主導する。
幕末(江戸時代末期)には、公武合体論や尊皇攘夷を主張して、京都の政局へ積極的に関わり、藩士吉田松陰の私塾である松下村塾出身の藩士の多くは、尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導し、明治維新の原動力となった。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。この年、会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で追放された。
翌1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州藩に対し、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田右衛門介らの主戦派は失脚して粛清され、藩庁を再び萩へ移し、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)や山縣狂介(有朋)らと共に、農民や町民を中心とした奇兵隊を率いてクーデターを決行した。初めは功山寺で僅80人にて挙兵した奇兵隊は、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
更に、1866年(慶応2年)には、土佐藩の坂本龍馬を仲介として、薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に移った事で(周防)山口藩が成立する。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は滅んだ。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが、1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山県有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。
支藩
孫藩
永代家老・一門家老
江戸期の長州藩に置かれた毛利元就の末裔や、戦国期に功績のあった者を祖とする家。藩内各地域を知行する。
尚、宍戸家は、宍戸姓ではあるが一門筆頭として遇された。
- 一門家老
- 永代家老
歴代藩主一覧
代 | 氏名 | よみ | 官位・官職 | 就封 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
1 | 毛利輝元 | もうり てるもと |
従三位・右衛門督 権中納言、参議 |
- 元和9 | 毛利隆元 長男 | |
2 | 毛利秀就 | もうり ひでなり |
従四位下・長門守 右近衛権少将 |
家督相続 | 元和9 - 慶安4 | 毛利輝元 側室の子 |
3 | 毛利綱広 | もうり つなひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 慶安4 - 天和2 | 毛利秀就 正室の子 |
4 | 毛利吉就 | もうり よしなり |
従四位下・長門守、侍従 | 家督相続 | 天和2 - 元禄7 | 毛利綱広 正室の子 |
5 | 毛利吉広 | もうり よしひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 元禄7 - 宝永4 | 養子、毛利綱広 側室の子・吉就弟 |
6 | 毛利吉元 | もうり よしもと |
従四位下・長門守、侍従 | 遺領相続 | 宝永4 - 享保16 | 養子、長府藩主 毛利綱元 長男 |
7 | 毛利宗広 | もうり むねひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 享保16 - 宝暦元 | 毛利吉元 正室の子 |
8 | 毛利重就 | もうり しげたか |
従四位下・式部大輔、侍従 | 遺領相続 | 宝暦元 - 天明2 | 養子、長府藩主・毛利匡広の十男 |
9 | 毛利治親 | もうり はるちか |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 家督相続 | 天明2 - 寛政3 | 毛利重就 正室の子 |
10 | 毛利斉房 | もうり なりふさ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 寛政3 - 文化6 | 毛利治親 正室の子 |
11 | 毛利斉熙 | もうり なりひろ |
従四位下・大膳大夫、侍従 | 遺領相続 | 文化6 - 文政7 | 毛利治親 正室の子・斉房弟 |
12 | 毛利斉元 | もうり なりもと |
従四位上・大膳大夫 左近衛権少将 |
家督相続 | 文政7 - 天保7 | 養子、毛利斉元は毛利親著の長男で、 毛利斉熙の婿養子。 毛利親著は毛利重就の正室の子。 |
13 | 毛利斉広 | もうり なりとう |
従四位下・大膳大夫 | 天保7年12月 - 12月29日 |
養子、毛利斉熙 正室の子・次男 | |
14 | 毛利敬親 | もうり たかちか |
従四位下・大膳大夫 | 遺領相続 | 天保8年4月 - 明治2年1月 |
養子、毛利斉元 側室の子(長男) 毛利斉広の娘婿 明治2年1月 版籍奉還 |
15 | 毛利元徳 | もうり もとのり |
従三位・参議 | 明治2年1月 - 明治4 |
養子、徳山藩主・毛利広鎮の十男 |