堀田正睦
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時代 | 江戸時代後期から江戸時代末期(幕末) | |||
生誕 | 1810年8月30日(文化7年8月1日) | |||
死没 | 1864年4月26日(元治元年3月21日) | |||
改名 | 左源次(通称)、正篤(別名) | |||
諡号 | 見山 | |||
戒名 | 文明院見山静心誓恵大居士 | |||
墓所 | 千葉県佐倉市新町の甚大寺 | |||
官位 | 従四位下、相模守、侍従、備中守、 贈従三位(大正4年(1915年)) |
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幕府 | 江戸幕府寺社奉行、大坂城代、老中 | |||
主君 | 徳川家斉→徳川家慶→徳川家定 | |||
藩 | 下総佐倉藩主 | |||
氏族 | 堀田氏 | |||
父母 | 父:堀田正時 母:源田芳尾(源田右内光寿の娘) 養父:堀田正愛 |
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妻 | 正室:節子(高田藩主・榊原政令の娘) 側室:平田氏 |
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子 | 堀田正倫、万(松平輝聴室)、 万理子(岩城隆邦室)、寿子(松平武聡室)、 道子(松平直哉室)、千勢(米津政敏室)、 養子:水野忠義 |
堀田 正睦(ほった まさよし)は、江戸時代末期の大名・老中。下総佐倉藩の第5代藩主。
目次 |
[編集] 生涯
父・堀田正時(第3代藩主)が死去したとき、正睦はまだ1歳であったため、藩主は叔父の堀田正愛(第4代藩主)が継ぎ、その後に叔父の養子となって家督を譲られて文政8年(1825年)に藩主となり、藩政改革を指揮する。幕府では寺社奉行や大坂城代などを務め、天保8年(1837年)に老中となるが、天保14年(1843年)に辞職した(辞職の理由として、正睦自身が第11代将軍・徳川家斉の側近であったこと、蘭学好きという理由から水野忠邦と対立したこと、忠邦の推進した天保の改革がやりすぎると土井利位ら他の老中と語らっていたことなどとされる)。老中辞任後、江戸城溜間詰となる。
正睦は、藩主時代には蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して順天堂を開かせるなど、蘭学好きであったことから、「蘭癖」と呼ばれた。幕末においては、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。その後、安政2年(1855年)に阿部正弘の推挙を受けて再び老中になる。そして正弘から老中首座を譲られ、外国掛老中を兼ねた。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の許可を得ようとするが、天皇が攘夷派であり、失敗する。
一方、同年、第13代将軍・徳川家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦はもともと水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の徳川慶喜にも好感が持てず、心情的には徳川慶福が14代将軍に相応しいと考えていたふしがある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対にあって勅許を得られなかった状況を打開するには、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋ひいきの朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では、南紀派から一橋派に路線を変えた。
しかし正睦が上洛中に、松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、井伊は堀田をはじめとする一橋派の排斥を始め、老中職を罷免された。そのため、安政6年(1859年)、家督を四男の堀田正倫に譲って隠居した。
文久2年(1862年)に謹慎処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされた。元治元年(1864年)、55歳で死去。
[編集] 人物
- 前述したとおり、「蘭癖」と呼ばれるほどの蘭学好きであった。
- 阿部正弘から老中首座を譲られ、幕末の政局を一時は担ったことから、幕末期の老中としては有能な人物だと言われている。
- 晩年はほとんど報われなかったが、嗣子の正倫も父の遺志を受け継ぎ、幕府存続に尽くしている。