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山一證券 - Wikipedia

山一證券

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山一證券株式会社やまいちしょうけん)は、かつて証券業を営んでいた会社である。

目次

[編集] 概要

山一證券は、1897年に創業され、1997年の自主廃業発表をもって、100年間の歴史の幕を事実上閉じた。ただし、法人としての山一證券は、2005年まで存続した。証券コードは8602だった。

芙蓉グループ富士銀行安田生命丸紅など)と親密で、破綻するまでは日本の四大証券会社の一つであった。特に「法人の山一」と言われたほど法人関連業務には強く、数多くの日本を代表する名門企業の幹事証券会社であった。

戦前には、日本最大の証券会社だった時期もあったが、1950年代から野村など他社に抜かれ、1965年日銀特融以降は、四大証券の四番手に甘んじることとなった。四大証券とは、以下のような証券会社である。

[編集] 破綻への道

主に、破綻へ至った経緯、その原因等について触れる。

法人営業への注力
法人営業に注力し、大口の物件を取る方針をとっていた。不況時には、企業の投資枠縮小に遭って業績不振に繋がった。また、相手が法人であることから、運用利回り保証や損失補償を迫られ、運用上の足枷が大きかった。
あるいは、一任勘定で発生した損失を引き取らせる事が困難で、それを山一側で引き受けざるを得ない状況に陥った。これが簿外債務となり、破綻の直接の原因となった。
日銀特融の経験
1964~1965年の証券恐慌に際して、銀行出身者の日高を社長に迎え、リストラを行っていた。これが報道機関や顧客には山一の危機と映り、取り付け騒ぎを起こした。不安を解消するために日銀特融を受けて会社組織の再編を行ったが、その直後にいざなぎ景気が到来し、特融を早期に返済することが出来た。
この経験が、あと少し頑張れば自力で再生できたという記憶を残した。バブル崩壊に際しても、しばらく持ちこたえれば日本景気が上向いて業績も回復し、簿外債務、含み損も消せるという期待に繋がり、損失を適正に処理することを躊躇わせた。
銀行出身者の排除
また、銀行出身者の経営陣がリストラを行った事が取り付け騒ぎ、そして特融を受けざるを得ない状況へ追い込まれた原因と見る向きから、社内には銀行出身者を快く思わない風潮が蔓延し、いずれ排除する動きに繋がった。これは、山一が破綻に瀕した際に、銀行の積極的な支援を得られない要因ともなった。
法令違反
運用利回りの保証、損失補填、一任勘定については、1980年代末より批判が高まり、1991年に法律で禁じられた。しかし、表向きはこれらの行為が無くなっても、裏では一任勘定が継続され、含み損を抱え込んだ。後にこれらは簿外債務として山一の子会社に移された。これらの債務は決算の度に飛ばしで隠蔽され、粉飾決算としての誹りを受けた。
また、不正な利益供与についての捜査も行われ、証券業界がダーティーな印象を持たれた上に、粉飾決算と併せて違法行為を行っていたとして、処理の方策として、特融を受けての再生は認められず、自主廃業を選択せざるを得なかった。

[編集] 歴史

以下、歴代社長の業績を中心に記述する。

[編集] 小池国三 ~ 創業

山一證券は、1897年山梨県出身の創業者小池国三が東京株式取引所仲買人の免許を受け、兜町に小池国三商店を開店したことをもって創業としていた。その後、折からの日清・日露両戦争の戦勝景気もあって順調に業績を伸ばし、創業から10年後の1907年には小池合資会社に改組した。小池合資は、1909年国債下引受、1910年の江之島電気鉄道債元引受など、債券引受業務に証券会社として初めて進出した。この引受業務の伝統、ならびに国三自身が持っていた、「甲州財閥」と呼ばれる東武鉄道根津嘉一郎、若尾銀行・東京電灯の若尾逸平など山梨出身の財界人との地縁関係が、後に「法人の山一」と呼ばれる名門企業とのパイプを作っていった。

1917年、国三は小池合資の解散を発表し、以前から買収していた銀行を小池銀行と改称してその頭取に就任した。

[編集] 杉野喜精 ~ 「山一」の誕生

小池合資の解散を受けて、その跡を引き継ぐ形で1910年杉野喜精を社長に山一合資会社が設立された。杉野は日本銀行出身であり、小池の方針であった堅実経営と債券業務重視を引き継いだ。彼が山一合資のスタートにあたって示した三原則の中の第一条に「相場の流れに逆らわない。自ら相場を操縦するようなことはしない」とあり、この方針が徹底されていれば以後繰り返された山一の危機は存在しなかったであろう。このような堅実な方針の中でも確かな判断力で業容を着実に拡大させ、1920年には山一を売買高業界トップに押し上げた。

1920年3月には第一次大戦を背景とする好景気による株価バブルがはじけ、大暴落となったが、杉野は暴落の20日前に「株式の需給関係が破綻を来すことは疑いの余地がない。それがいつ起きるかは、時間の問題に過ぎない」と社内の旬報で発表し、実際に手持ちの有価証券をすべて売り切った。この決断により、山一は対応が遅れた他社との間に決定的な体力の差をつけた。

また、杉野は全国に支店・出張所を開設して証券発行元との関係強化・引受証券販売の営業力強化を図るとともに、1926年には山一證券株式会社への改組を行った。

[編集] 太田収 ~ 才能と過信、そして失敗

太田収は岡山出身で東京帝国大学法学部出身であった。旧制第六高等学校を総代で卒業し、帝大に入学した際に保証人となったのは、同郷の犬養毅と、三井銀行出身で元三越社長の野崎広太であったという。太田は1916年に小池合資に入社した。太田が、当時「株屋」と呼ばれて銀行などから一段低く見られていた証券業界に飛び込む決心をしたのは、日露戦争の戦費調達のために発行した国債の売りさばきに国が大変な苦労をしたという野崎の話がきっかけであった。大企業のトップクラスも、最初は「帝大卒の株屋」としておもしろがって会っていたが、後には太田自身の知性と見通しの確かさ、さらには約束を必ず守るという仕事の進め方に共感して太田に進んで仕事を回すようになっていった。特に、三菱銀行の瀬下清常務との関係は、「法人の山一」の強化に大いに役立った。

太田は山一證券株式会社の発足と同時に37歳の若さで常務に就任した。債券担当として持ち前の営業力で徹底的に強気の営業を続けた太田であったが、1928年金解禁断行論を背景に金利の先高不安が広がり、債券相場が暴落した。そうなると、引き受けた大量の社債が日に日に損をもたらす形となり、山一自体の資金ショートも目前という状態となってしまった。その中で、太田は自ら三菱銀行の瀬下、第一生命石坂泰三と直談判し、当時の額で1億円を超える融資を引き出して、自ら事態を収拾した。しかし、この事件で、太田自身も含めた山一社内に「太田に任せておけば、多少ムリをしてもなんとかなる」という一種の信仰を植え付けることになった。

1935年12月、杉野は東京株式取引所理事長に就任するため山一證券社長を辞任し、後任社長には太田収が選ばれた。太田は社長に就任すると、杉野社長時代には禁じられていた株式の短期取引をはじめとする投機的な取引にのめり込み、兜町の飛将軍と呼ばれるようになっていった。1937年1月からは鐘紡新株の買いに動いた。三菱銀行や第一生命の豊富な資金力を背景に買いまくり、1月に200円前後だった株価を3月には300円を超えるまでに買い上げた。太田の買いの根拠は鐘紡が3倍増資を予定しているということであったが、7月には盧溝橋事件が起こり、政府の産業政策が軍需産業一辺倒に転換していく中で、基本的には紡績業である鐘紡の増資はついに実現せず、太田の資金は尽きて鐘紡株は暴落、惨敗に終わった。しかし、常務以下の役員陣が1937年後半には太田の意向を無視して鐘紡株を売りに出していたため、山一全体としての損は100万円以内だったという。

1938年5月4日、太田は山一證券社長を辞任し、5月28日夜に青酸カリを飲んで自殺した。

太田の後任として副社長だった平岡伝章が暫定的に社長に就任、さらに12月には専務だった木下茂が社長を引き継いだが、戦時統制経済に向かう中で株・債券といった直接金融の比率は低下していき、証券会社の存在意義も薄くなっていった。

[編集] 小池厚之助 ~ 戦後と証券民主化

1943年9月、戦時下の政府によって推し進められた企業合併の波の中で、山一證券と、小池国三の小池銀行が改組した公社債引受業務を専門とする小池証券とが合併して新しい山一證券株式会社が発足した。社長には小池国三の次男で、小池証券の社長であった小池厚之助が就任した。東京帝大法学部を卒業し、オックスフォード大学にも学んで英語が堪能だった厚之助は、終戦後証券業界の代表としてGHQとの折衝を行うようになる。GHQによって、指定持株会社(いわゆる財閥本社)が処分を命じられた株は200億円にも達したが、これは当時の日本における株式会社の資本金総額が400億円であったことからも非常に大きな額であったことがわかる。この放出=GHQによる証券民主化運動の中でも、山一ならびに小池は大きな役割を果たした。

また、1946年には個人向けの投資信託が売り出され、1948年までの3年間は毎年倍に市場規模をのばしていった。この中で、いち早く投資信託を売り出した後の四大証券が、業界でも着実に力をつけていった。

[編集] 大神一 ~ 太田収の衣鉢を継ぐ者

大神一は東京帝国大学経済学部の出身で、1921年に山一合資に入社した。太田収に次ぐ山一の東京帝大出身者第2号であった。太田は大神を自分が担当する債券部の主任に据え、死の直前までかわいがった。太田の死の当日、太田、大神、東京帝大卒第3号の小野清造の3人は、太田の自宅で食事をしながら酒を酌み交わしている(小野は直後に山一を退社)。

大神は1947年には副社長に就任しており、業界のまとめ役としての働きが多かった小池社長に代わって事実上社内の人事・営業を一手に握っていた。大神の名前を一躍有名にしたのは旭硝子株の投機戦だった。1950年2月に三菱化成の旭硝子、新光レイヨン日本化成3社への分割が発表されると、三菱化成を含めた4社の株に対して関西の中小証券を中心に一斉に売り浴びせが始まった。当時、折からのドッジ・ラインによる不況もあり、投機戦は売り方の勝利に終わることが多かったことも手伝って売り方の勢いは強く、4社の株は値下がりを続けた。この中で山一は買い方に回り、分割3社の株(ヘタ株と呼ばれた)を買いまくった結果株価は暴騰した。売り方も粘ったものの、4月には売りの総株数が旭硝子の総発行株数を上回ることになり、5月末の決済には現物を手配しなくてはならない売り方の不利がはっきりした。その後、証券取引等監視委員会の仲裁によって小池社長が妥協案(解け合い)を飲んで事態は収拾を迎えた。当初230円前後から始めて500円を超えるまで買い上げた山一は膨大な利益を上げたが、小池社長が了承した妥協案は当日の終値より低い価格であり、なおかつ売り方が総崩れという状態であったので、大神を中心とする株式部には「もっと上げられた」との思いが残る結果となった。この事件は太田の弔い合戦であったと共に、大神の名前を業界に知れ渡らせることとなった。また、この成功体験が、以後の大神の強気一辺倒の経営に影響を与えたと考えられる。さらに、この時に実働部隊として動いたのは、後に社長になった植谷久三であったという。当時一介の投資信託課長であった植谷が、会社としての指揮命令系統を無視して同じ東大卒の副社長・大神と2人だけで秘密裏に大事を進めるという、後の秘密主義の萌芽がここにあった。

1950年代前半には野村證券が取扱高トップの座を占めるようになり、山一は業界2位となって、その差は年々開いていった。野村の強さの源泉となったのは投資信託をはじめとする個人投資家に対する営業力であった。全国のデパートに投資相談窓口を開くなど、地道などぶ板戦略で個人の小口投信を集めた野村は、1953年の株価暴落(スターリンの死を契機とした暴落であったので、スターリン暴落と呼ばれた)の影響が最も軽微で、その後も株価下落局面を迎える度に同業他社との差を広げていくことになる。それに対して「法人の山一」は1社営業に回るだけで数百万円の扱いを取れるスマートさはあったが、景気後退局面になって企業の資金繰りが苦しくなると真っ先に運用枠が縮小されるため、構造的に不況に弱いという弱点を抱えていた。1955年には当期利益でも野村が山一を抜いた。

1954年、大神が社長に就任し、小池厚之助は会長となった。社長就任後、大神は業界トップ奪回を目指して、株式部にひたすら買いを進めさせた。

1961年東京証券取引所市場第二部が開設された。1961年夏以降東証一部の株価は下落を始めていたが、二部は開設されたばかりで目新しかったこと、さらには値動きが激しく、少しの買いで大きく株価が上昇する妙味があったことから一時的に二部銘柄に人気が集まり、新規上場も相次いだ。この中で大神はなりふり構わず株式公開主幹事を取りに行かせた。当時の株式公開においては、主幹事証券会社は公開前から相当の割合の株式を保有する必要があったため、リスクの大きい二部銘柄や、未公開で流動性のない株式を大量に抱えることとなった。しかし、ディスクロージャーやコンプライアンス概念の薄かった当時の二部には上場前からかなり経営状態が怪しい企業が入っており、高野建設などが破綻すると二部人気も急速にしぼんでいった。

1962年9月には二部の株価も天井を打ち、株式市場全体が下げ局面となって、山一が抱える株は含み損を抱えていった。さらに、野村と張り合う体面上、例えば投資信託の募集額についても野村と同額を設定し、足りない分を自社あるいは子会社で購入するようなことも行っていたため、山一の資金繰りは急速に悪化した。また、決算に合わせて一時的に損失が出ている株・債券を関係会社に引き取らせ、決算期が過ぎると買い戻す、疎開(後の「飛ばし」)も頻繁に行われるようになった。そのような経理操作をしてもなお、山一の経常損失1963年9月期で30億円、1964年9月期で54億円に上った。実際には、損失額は数百億円にも上るというのが業界では通り相場となっていた。

このような状況の中で大神は肝臓と腎臓を壊し、たびたび入院するようになっていた。出社しても、状況を正確に把握して判断する気力を失っているようにも見えたという。1964年11月に大神は会長となり、興銀出身の日高輝が社長に就任した。以後、大神は経営には一切タッチせず、日銀特融の責任をとって1965年6月には会長も退任した。他人に迷惑をかけないようにと日曜日を選び、秘書に見送られる中で風呂敷包み1つを持って退社、以後二度と会社に姿を見せなかった。また、小池厚之助ともども自宅を含む私財を売り払い、特融の担保として会社に提供した。旧経営陣8名が提供した私財は当時の金額で1億8千万円に上った。大神は1971年に亡くなった。

太田収が残した、東大出身者によるエリート支配、買い/攻め一辺倒で引くことを知らない経営、法人営業への偏重という3つの要素の直接の継承者が大神であった。そして、この遺伝子は大神が退場した後も水面下で山一社内に引き継がれていき、最終的に山一を廃業に追い込むこととなる。

[編集] 日高輝 ~ 第一次山一危機と日銀特融、新生山一へ

日高輝は東京都出身(府立第四中学校卒業)ながら旧制高校は弘前高等学校に学び、そこから東京帝大法学部に進んで、後に興銀常務を務めたエリートであった。

1964年8月に大蔵省が実施した検査の結果、山一の危機が表面化した。ただし、この時点では大蔵省や金融界などごく一部に対して明らかになったということであり、一般社会には知られていなかった。こうした状況の中、メインバンクの1つであった日本興業銀行頭取の中山素平は、興銀同期入社で日産化学工業の社長をしていた日高輝に白羽の矢を立てた。当時、ようやく日産化学の再建にメドをつけたばかりであった日高は当初渋ったが、中山、さらには当時の財界の重鎮であった日本開発銀行小林中に口説かれ、11月に山一の社長として就任した。日産化学は肥料メーカーであり、原料としておわい(糞尿)を扱っていたため、日高は説得を受け入れた後「おわい屋の次は株屋か」とつぶやいたという。

1964年から1965年は証券恐慌とも呼ばれ、山一だけでなく日興・大和も赤字に転落し、四大証券以外の中小証券に至ってはほとんどが赤字という状況に陥っていた。そのため、大蔵省・銀行界主導で日本共同証券、日銀・証券業界主導で日本証券保有組合という組織が作られ、ダブついた株を買い上げることになった。

日高は、社長就任後リストラを着々と進めた。その動きにより、山一の経営状態はマスコミの知るところとなったが、大蔵省が在京大手新聞社に報道自粛を要請したため、報道されなかった。ところが、自粛協定外であった西日本新聞が山一の宮崎支店閉鎖を知って裏付け取材をしたところ経営状態悪化を察知、1965年5月21日朝刊で「山一證券 経営難乗り切りへ/近く再建策発表か」という1面トップ記事を載せた。他の新聞社も同日付夕刊トップで一斉に追随した。当日、日高は興銀、三菱、富士3行トップと共同で記者会見し、「金融については日本銀行の全面的な了解を取り付けた」などとする「山一證券再建案」を発表した。山一ならびに3行としては「山一は危なかったが、支援体制も整ったので大丈夫です」と発表したつもりであったが、世間は「山一は危ない」の部分のメッセージのみを受け取った。翌22日は土曜日で半日営業であったが、山一各支店には朝から投信、株式、債券の払い戻しを求める客が殺到した。翌週にも騒ぎは続き、28日(金曜日)は割引金融債の償還日でもあったため、一層多数の個人客が払い戻しを求めて山一の支店に行列を作った。いわゆる取り付け騒ぎである。

こうした状況の中、5月28日夜、大蔵省、日銀、主力3行のトップが赤坂にある日銀氷川寮に集まった。会合では日銀特融しかないという点では早々に一致したが、貸出金利や方法など、細かい点で意見が合わなかった。遅れて参加した当時の大蔵大臣田中角栄は、最初は黙って参加者の話を聞いていたが、田実三菱銀行頭取が「こんなにごちゃごちゃするようなら、とりあえず証券取引所を閉めたらどうですか」と発言したのをきっかけに、「君はなんてことを言うのか。金融機関のトップとして恥ずかしくないのか」と一喝、金融恐慌の再来を防ぐためとにかく「大衆の不安心理を取り除く」ことを最優先に進めることで話をまとめた。

28日午後11時30分、田中蔵相と宇佐美日銀総裁が記者会見し、「1.証券業界が必要とする資金は日本銀行が無制限・無担保で融資する。2.山一證券については興銀、富士、三菱の3行を通じて融資を実施する。3.今後、証券金融について抜本的見直しを行う。」ことを発表した。実際には貸出枠240億円、旧経営陣の私財を担保に入れる条件があったが、田中蔵相の判断で「無制限・無担保」を強調することになった。この発表によって、ようやく取り付けは沈静化した。

日高はようやく落ち着いて山一再建に取り組むことができることになった。具体的には、新しい山一證券株式会社を作り、翌1966年9月をもって今後の営業に必要な人材や資産をそちらに移管、日銀特融の債務や不良債権などは旧会社(株式会社山一と改称)に残して、新会社の利益によって順次返済を図るというものであった。新会社には旧会社、主力銀行、そして取引先が出資したが、取引先からの出資希望が予想をはるかに上回ったため断るのに苦労するほどだったという。この時点では、山一は放漫経営で経営危機に陥ったものの、少なくとも法令違反はしていなかったため、世間は山一に好意的だった。

新会社のスタートも順調だった。銀行の協力で金利支払いをタナ上げし、各地の支店を閉鎖、株式自己売買もストップした。さらに、1965年11月から始まったいざなぎ景気の後押しもあって、計算上18年以上かかる予定だった日銀特融の返済も4年3ヶ月で完了した。しかし、この早期の再建完了は、また一つ山一社内に思い違いを生んだ。つまり、「日銀特融や銀行の支援など必要なかった」さらには「銀行から日高社長を呼び込んだのは間違いで、山一はもう少しがんばれば独自で道が開けたのだ」という「想い」が、社内に充満することになった。「山一ピープル」(日高が好んで使った言葉)は、心底では銀行から来た経営陣を「進駐軍」としていつかは排除すべきものと考えていたのである。

こうした空気の中、1972年、日高は社長を辞任して会長となり、後任として植谷久三が就任した。久しぶりの生え抜き社長の誕生に、社内は欣喜雀躍した。

なお、日高は会長に就任後は業界関連業務に専心して山一の経営には口を出さず、後に国際電電会長に転じた。勲一等瑞宝章を受章後、1987年に亡くなっている。

[編集] 崩壊への道

[編集] 植谷久三 ~ 終わりの始まり

植谷久三は三重県出身で、旧制第八高等学校から1935年東京帝大経済学部を卒業し、山一に入社した。戦前から戦後にかけて投資信託課長を務めた彼の下には、その後社長となる横田良男、行平次雄、三木淳夫が次々と配属された。

植谷は社長に就任するために積極的に活動したわけではなかった。3つの偶然=植谷にとっての幸運が重なったと言える。第一には、興銀(当時の正宗猪早夫頭取)ならびに日高が、再建が完了したら山一ピープル=生え抜きに社長の座を返すべきと考えたこと、第二に、1964年前後の経営危機の際にたまたま本社主流から離れた常務大阪支店長であったため、日高体制のスタートと共に上層部が総退陣した後、筆頭常務として本社に返り咲いたこと(これは、最後の社長となった野澤正平が選ばれた経緯に似ている)、第三には、当時の興銀の上層部はほとんどが東大あるいは東京商大といった官立大学の出身者であり、私学出身者などは人間と見ていない風があったが、日高が後継者を選ぶ際には植谷くらいしか東京帝大出身者が候補者にいなかったことがある。

植谷の幸運は社長就任後も続いた。1973年1979年の2回にわたるオイルショックはあったものの、1975年からの国債の大量発行による公債市場の活性化や、財テクブームに乗った株式市場の活況もあって、植谷の在任中に山一の預かり資産は10倍に増えている。しかし、営業の第一線の経験がなかったこともあって、「4社中2位の奪回を目指す」「そのため全員、実力倍増、成果倍増を目指す」といった抽象的な方針を示すのみで、本来それに必要な個人営業強化や商品力強化といった長期的な手を打つことはなかった。そのため、他社も活発な市場で山一以上に業績を上げる中で、営業収入シェアは社長就任時の21%から辞任(会長就任)時には18.8%にまで落ち込んでいた。

植谷が山一終焉の種をまいたと言える理由は2つある。1つは、直接破綻につながる判断を行った横田良男ならびに行平次雄を社長に指名したこと、もう1つは社内に「排除の論理」を持ち込んだことである。前者については後に詳述する。後者に関して、植谷が社長就任後にまず行ったことは銀行出身役員の整理であった。このことは、社内的には「銀行と対等に渡り合える実力社長」という印象を与えたが、他方で銀行からの恨みを買う結果となり、興銀や富士をはじめとする各行は山一と距離を置くようになった。これが後に、自主廃業に至る最終局面で銀行からの全面的な協力がついに得られなかった遠因となったと考えられる。さらに、銀行出身者を一掃した後は、社内で銀行出身者に協力した(とされる)者が権力の座から排除されていった。この「銀行協力者」の認定には論理は必要なかった。植谷が「敵」と認識すれば「敵」なのである。こうして、有為な人材が「銀行協力者」の烙印を押されて次々と社外へ放り出されることとなった。それだけではなく、社内には恐怖政治が横行し、異論や批判を口にすることはタブーとなっていった。植谷自身は明るい性格で、社長就任当初は部下の話を聞くと共に信頼すればすべてを任せる度量を持っていたと言われるが、長年側近の追従を受ける中で変質していった。

また、植谷時代には企画室が重用されることになった。企画室は野村・大和などの他社では文字通り経営計画を作る部署であったが、山一ではそれに加えて会長・社長の秘書役を出し、なおかつ社内各部署にとって生命線とも言える予算管理も牛耳っていた。さらに、大蔵省とのパイプ役(いわゆるMOF担)でもあった。1965年の経営危機の際に銀行に助けてもらった恩は忘れた山一だったが、大蔵省に助けてもらったという意識だけは残り、逆に「大蔵省とうまくやっていれば大丈夫」という信仰に近いものが社内に生まれていた。そのため、その役を担う企画室は、すべての他部署に優先する絶対的な存在となり、山一社内のすべての権力と秘密を握った。横田-行平-三木の3人は、いずれも企画室長を経験している。

植谷は1980年12月に横田良男に社長を譲り、自らは会長におさまった。しかし、人事権をはじめとする実権は手中に収めたままで、会長になっても今まで使っていた社長室に居座り続けた。勲一等瑞宝章を受章したが、その受章に最も奔走したといわれる成田芳穂専務も最終的に植谷自身に「排除」されていった。植谷は自主廃業発表後の2004年11月に亡くなっている。

[編集] 横田良男 ~ 理想と挫折、そして「永田ファンド」

横田良男は旧『満州国』生まれで、新京第一中学校から旧制福岡高校を経て東京帝大法学部に入った。戦時中に陸軍経理学校に転じたが、新京で在学中に敗戦を迎えてシベリアに連行されそうになった。途中の吉林駅で列車から脱走し、中国人に化けて新京の自宅に帰宅、何とか日本に戻って東大法学部に復学して1947年に卒業し、山一に入社した。当時の山一はすでに押しも押されもせぬ証券業界のトップ企業であり、同期にも東京帝大卒業生は何人もいた。植谷は横田を後継に選んだ理由を「これからは国際化とコンピュータの時代だ。海外や電算機の部門での経験の深い横田が最適だ」と説明したが、その代わりに横田には植谷と同様に営業の最前線:国内支店の経験がなかった。実際には横田の目上に対する従順さが植谷に気に入られた原因となっていた。

それでも、横田は従順だっただけの社長ではない。社長就任当初、企画室のエリート支配の流れを変えるべくいくつか手を打っている。日高社長時代に組合の幹部だった何人かを要職に抜擢したのもその一つであった。例えば営業企画部長となった吉田允昭は、中国ファンドのCM(余談だが、安田成美が歌った、最後に社名の「山一證券」を上がり調子で歌うCMソングのメロディーは、いくつかの候補作の中から幼稚園児に選んでもらったというもので、この頃TVを見ていた世代の人間であればまず間違いなく口ずさむことができるというほど印象的なものであった)を作って大々的に宣伝したり、投資信託の新商品「ジャンボ」を開発して1982年だけで800億円を集めるなど業績を上げた。また、当時常務国際本部長だった河原久(参考文献参照。ただし、同書では以下の発言の日時が1984年だったという記述と1981年だったという記述が2カ所存在しており、どちらが正しいのか不明)との会食の席でも、「山一のリテール営業力強化が自分に与えられた最大の任務である」と話している。

しかし、バブル景気を迎えようとしていた時代は横田の理想論を許さなかった。1984年頃から社内には、後に営業特金と呼ばれるものが存在していた。法人の資金を一任勘定という自由に売買して良いという了承の下に預かり、運用するもので、考案者であった永田元雄常務の名前を取って社内では「永田ファンド」と呼ばれていた。自由に売買できるのだから手数料は稼ぎ放題で、なおかつ損失が出た場合にはほぼ確実に利益が出る公募株や転換社債などを使って穴埋めすれば良いというのが元々のアイデアだった。しかし、法人側も一任勘定で預けるからには利回り保証を求めた。当時でも利回り保証は違法であったので、正式な契約書は交わさずに口頭や名刺の裏の走り書きを交わした後握手で確認しあうことが多かったため、利回り保証行為はニギリと呼ばれるようになった。これらのファンドは営業で運用まで行っていたが、シロウト運用である上に、利回り保証運用益を出す目的ではなく、数多く売買を重ねて手数料を稼ぐことが第一義的な目的であったので、株価上昇局面においても多額の損失を出すファンドも多かった。

横田の最大の失策は、この状況下で、1985年9月に営業の軸足を法人へ移し、一任勘定・営業特金(「永田ファンド」)の獲得を最優先する決定を下したことにある。「法人の資金は無尽蔵だ。あらゆる手段を講じて集めよ」と大号令を発したのである。時あたかもプラザ合意が成立し、日本がバブル景気に入ろうとする時代であった。数多くの永田ファンドは、表面上手数料収入をもたらして会社の業績に大いに貢献したが、同時に多額の含み損を抱えていった。

横田の次の社長の候補は2人いた。行平次雄と成田芳穂である。ここで、1986年三菱重工転換社債事件が発生した。三菱重工の依頼により、値上がり確実な転換社債を総会屋にバラまいたというもので、数々の証券不祥事の先駆となった事件である。このバラまき先のリストを投資情報誌『暮らしと利殖』のオーナー生田盛が手に入れ、それを元に山一に揺さぶりを掛けた。困った山一=植谷・横田は総会屋の大御所上森子鉄に仲裁を依頼する。上森が示した調停案は、行平を辞めさせるか、成田を社長にしろというものであった。植谷は悩んだ末、行平を取締役から外し、ロンドンにある現地法人・山一インターナショナルの会長とすることで手打ちとした。誰もが行平社長の目はなくなったと思ったが、逆に植谷は「リストを漏らしたのは成田だ」と信じ込み、成田に一切の情報を流すな」と社内に厳命した。そのため、成田は筆頭副社長でありながら社内失業状態となった。この背景には、成田が旧制弘前高校の出身であり、日高の後輩であったという面が影響したと言われる。

さらに、事件が明るみに出た。信じられないことに、植谷自身が酒に酔って経済誌『財界』のインタビューに応えてすべての経緯を話してしまい、それが1986年12月号の記事となったものが検察の目にとまったのである。検察で事件を担当したのは、後に闇世界の弁護人として高名になる田中森一である。田中が調べたところ、有名な総会屋はほぼ全員転換社債の割り当てを受けており、しかもその資金も三菱銀行から無担保で融資されたということが判明した。さらに、防衛官僚や政治家にも同様に三菱重工(日本の防衛産業の中核であり、その前年にはパトリオットミサイルの受注に成功していた)の転換社債が渡っていたという贈収賄疑惑があることもわかった。田中は成田を呼び出し、政官界を含めた転換社債とカネの流れについて取り調べをしようとしたが、成田はその数時間前に首を吊って自殺してしまった。結局、事件そのものもうやむやのうちに終わった。当時の「ミスター検察」伊藤栄樹検事総長をはじめとする検察上層部が、三菱=防衛関連汚職というこれ以上ない巨悪の立件を政治的配慮から拒んだために立件できなかったと言われる。田中は嫌気がさして検察を辞め、その後あてつけるかのように闇人脈とのつながりを強めた。

なお、『財界』の記事は検察以外の場でも話題となり、直後の1987年正月、毎年恒例だった経済同友会の若手経営者を招いた「植谷会長を囲む会」には欠席者・早退者が相次いだ。植谷は、成田をさらに激しく叱責すると共に、自らの失策で表面化したことを棚に上げて社内の情報統制を強めさせた。しかし、さすがの植谷もこの事件で世間の批判を浴びたため、4月には会長を退いて相談役となった。

こうして、最大のライバルがいなくなった後、行平次雄はほとぼりが冷めてから帰国し、1988年9月に社長の座についた。行平の社長就任と同時に横田が会長に就任した。横田は1991年には健康問題から会長も退任し、2005年3月に亡くなっている。

[編集] 終焉に向かって

[編集] 行平次雄 ~ 決断しない「最後のドン」

行平次雄は横田良男と同様に旧『満州国』の生まれで、旧制中学在学中に終戦、帰国した後、一橋大学法学部を卒業して1955年山一に入社した。

行平が社長に就任した当時、植谷はようやく影響力を失いはじめ、横田も会長ではあったものの健康問題等から発言力が低下していた。そのため行平は社長就任当初から山一の実権を握っており、会長になってからの期間を含めて9年間事実上の政権を保持した「山一最後のドン」であった。しかし、その間幾度となく訪れた「チャンス」を一つとして活かすことなく、最終的に山一を破綻に導いている。その意味で、行平こそが直接的に山一崩壊の責任を負うべき者と言える。

バブルの波に乗った山一は、横田から行平に社長が替わる前後、1987年から1990年にかけて毎年1,000億円以上の経常利益を上げていた。しかし、他社もそれ以上の業績を上げていたため、四社シェアは低下の一途をたどっていた。

ここでバブルがはじけた。1989年5月からの数回にわたる公定歩合引き上げにより、高騰していた株価は1989年12月の最高値を最後に暴落を重ねるようになった。また、1989年11月には大和證券の損失補填問題が発覚した。当時は事後の損失補填は違法ではなかったものの、新聞・雑誌をはじめとするマスコミにより「大口顧客だけを優遇する、許し難い行為」として報道されるようになった。

バブル崩壊により、「永田ファンド」=営業特金は多額の損失を抱えることとなった。その処理方法として、大きく分けて以下の3通りが考えられた。

  1. 顧客先企業(名義企業)に損を含めて引き取らせる。
  2. 顧客先企業にファンド自体は引き取ってもらい、そのために損失の全部または一部を何らかの形で補填する。補填は、当初はおおっぴらに、損失補填の禁止後は相手先企業に訴訟を起こしてもらって裁判所主導の和解の形で行われた。
  3. 上記2つのどちらも行わず、ひたすら引き延ばして株価の上昇により含み損が解消されるのを待つ。もし引き延ばしの最中に表面化しそうになった場合も簿外で処理して表面化させない。

証券会社各社とも、客先との力関係や担当者の「ニギリ」状況に応じて上記のすべてを行ったが、全般的には野村は1.を中心に、大和・日興は2.を中心に特金を解消していった。山一だけが3.の道を選択した。

以下が、バブル崩壊前、ならびに会長となった後も含めて、行平が逃したと言われる6回の「チャンス」である。

  • 行平社長時代
    • 1988年11月:大蔵省によってインサイダー取引規制強化が行われ、法人営業担当と運用担当の分離が指導された。山一でもこの2つを別部署に分けたが、実態としては引き続き営業担当が運用も行うことを認め、「永田ファンド」が生き延びることとなった。
    • 1989年12月:大蔵省から営業特金=「永田ファンド」解消を命じる通達が出た。これを受けて他社は損を引き取らせるか引き取るかして特金を解消していったが、山一はズルズルと先送りを繰り返した。
    • 1991年10月:証券取引法が改正され、一任勘定と損失補填が禁止されることになった。この時が最大のチャンスであった。1990年初頭からの株価の暴落で含み損を抱えた多くの「永田ファンド」に関して、「損失を表面化するわけにはいかない」という顧客企業の求めに応じて飛ばしが行われるようになっていた。飛ばしとは、決算期を迎える企業が抱える損を含んだ有価証券を決算期が違う企業に一時的に「疎開」させることで、その際には当然ながら飛ばし先の企業の決算期には売却価格+αで買い戻す条件をつけていた。つまり、損失補填を事前に保証していたわけで、1991年10月の証券取引法改正はこういった飛ばしを明確に禁止するものであった。これを口実に顧客に損を引き取らせることも可能で、実際に野村を中心とする他社ではそうしたが、山一ではそれができなかった。飛ばしを続けることによってどこが起点であったかわからなくなったもの(山一社内では「宇宙遊泳」と呼んだ)が数多くあったことも理由の一つである。
最終的に、東急百貨店(決算期が7月だったため、山一以外にも多くの証券会社から飛ばし先として利用されていた)など7社の名義で合計1千億円以上の巨額の損失を抱えた「永田ファンド」が残った。これを、副社長であった延命隆が中心となって、山一の子会社として設立した5社のペーパーカンパニーに引き取ることとした。ペーパーカンパニーがファンドを買い取る資金は山一から提供されたが、延命を中心とする班が信託契約など複雑なスキームを使って簿外で処理した。こうして、それまでは曲がりなりにも社外に存在していた損失を、簿外債務=簿外損失として社内に抱え込むこととなった。
  • 行平会長・三木社長時代
    • 1993年6月:三木社長は大蔵省の小川是証券局長から、「四大証券とか、総合証券の枠にとらわれず、再建の計画を策定して9月末までに報告してください」という叱責に近い指導を受けた。この時点で小川は簿外損失の存在を知らなかったが、それでも山一は経営危機であると認識せざるを得ない状況となっていたのである。これを受けて山一では経営再建計画を作成したが、その中で「簿外損失を表面化し、処理しないと意味がない」という議論が一部の簿外損失を知っていた役員から出た。しかし、三木・行平は最終的に簿外損失を隠したままの再建計画を作り、12月に大蔵省に提出した。
    • 1995年7月:1995年3月期決算で、簿外損失を抜きにして経常赤字506億円という過去最悪の数字を記録したことを受けて、常務以上の役員全員に簿外損失を含めた経営状況すべてを開示し、今後の経営再建計画を話し合う役員合宿が計画された。しかし、「公開するとつまらぬ噂になるだけだ」という三木の反対で流れた。
    • 1996年10月:証券会社各社が大蔵省の指導により系列ノンバンクの救済に乗り出していた。山一もバブル崩壊で不良債権を抱えていた「山一ファイナンス」に対して1,500億円の支援を検討していたが、一部役員から「この1,500億円は山一ファイナンス救済より、本体の簿外損失の処理に使うべきだ」という異論が出た。しかし、四社の横並びを重視する三木・行平の判断により、山一ファイナンスの救済は行われ、簿外損失はそのままとなった。

行平自身がこれらの「不作為の判断」をした理由には、下記のようなものがあったと考えられる。

  • 1965年の危機の際にも、あと半年我慢すればいざなぎ景気が始まり、後から見れば日銀特融などなくても再建は可能だったように見えた。今回発生したファンドの含み損も、引き延ばしていればそのうち株価が上がって何とかなるだろうという強い思いこみを持っていた。
  • 正面から特金問題の処理に取り組むのは、せっかく上り詰めた社長・会長のイスを失うことにつながるという判断。大和証券の場合、損失補填を発表すると同時に経営陣の更迭を発表した。その後のマスコミ報道の動向を見ても、経営陣更迭なくして特金の正面からの処理はあり得ない状況となっていた。
  • 「法人の山一」の金看板も昔の話となり、野村證券のように強硬に客先に損を引き取らせるだけの力関係や交渉力がなくなっていた。

1992年6月、行平は健康問題(食道ガンの手術を受ける予定となっていた)を理由に三木に社長を譲った。

[編集] 三木淳夫 ~ 仲良しクラブ

三木淳夫は1960年に東京大学法学部を卒業して山一證券に入社した。入社後は、投資信託本部、金融法人部、企画室と、5年先輩の行平と全く同じ経歴をたどって出世した。

三木が社長に就任した後も、事実上の決裁権限はすべて会長の行平が握っていた。普通の会社なら新社長が就任するとその同期や先輩は関係会社に転出するなどして本社から出されるが、山一では1997年の破綻直前まで三木の同期・先輩が5人(副社長4人、専務1人)も経営陣に残っていた。当然ながら三木がこの経営陣に対して指導力を発揮することはなく、社内外からは「仲良しクラブ」と揶揄された。こうした状況の中、三木が社長に就任してからも3回あった簿外損失を処理するチャンス(上述)にも、決断することなく時は流れた。三木の不作為には、行平と同じ3つの理由にプラスして、最も大きい理由として「行平が処理しない判断をしているのに反対できない」ということがあったと思われる。もちろん、行平が三木のそのような従順さを見込んで登用したということではあるが、三木自身にもあまりにも社長としての責任に対する自覚がなかった。後に衆議院予算委員会の参考人として招致された際に、三木は副社長時代の様子として「(損失隠しは)行平さんと担当の延命副社長のところで決まっていた。そこで決まるとあえて異を唱えるには勇気がいります」と述べているが、このようなメンタリティーを持った「社長」をこの重要な時期に戴いてしまったところにも山一の不幸はあった。

そして、運命の1997年を迎えた。この年、山一證券は、本社ビル移転、全社員へのパソコン配備、事務職女性社員の新制服支給、『山一證券百年史』の刊行という4つの記念事業を行い、創業百周年を祝うはずであった。このうち、八重洲から中央区新川への本社ビル移転に関しては費用対効果の点で一部役員から疑義が上がったにもかかわらず、多額の費用を掛けて実行された。また『山一證券百年史』に関しては、本史・資料編・普及版の三点が予定されたが、1991年の損失補填問題に触れたことが行平の逆鱗に触れ、宙に浮いたまま自主廃業により中止となった。なお後に清算業務中の1998年、『山一證券の百年』として普及版のみ刊行された。

1997年3月25日、野村證券に対して東京地検と証券取引等監視委員会の家宅捜索が入った。容疑は総会屋小池隆一への利益供与であった。既に1991年の損失補填問題で世間の証券業界に対する目は厳しくなっていたが、この問題でより一層「証券業界=悪」という風潮が広まっていた。

4月28日に発表された山一の1997年3月期決算は、1,647億6,300万円という記録的な当期損失となった。また、このころから週刊誌などのマスコミで山一の簿外損失が話題となるようになった。

この年は金融不安が市場を襲っていた。4月8日には日本債券信用銀行救済のための「奉加帳」増資が行われ、4月25日には日産生命保険が業務停止命令を受けている。証券業界ではこの頃から三洋証券の経営不安が公になり、最終的には11月3日会社更生法適用を申請することになった。さらに、11月17日には北海道拓殖銀行が破綻している。

行平は7月1日日本証券業協会会長に就任した。就任の席でも総会屋問題関連の質問が飛んだが、行平は「山一には違法取引はないと認識している」と回答した。しかし、その直後に山一も利益供与を行っていたことが判明し、8月6日には行平は在任1ヶ月あまりで協会長を辞任した。

このような激動の状況の中、総会屋利益供与問題の責任を取って8月11日に行平・三木をはじめとする取締役11人が退任した。後任として社長に野澤正平、会長に五月女正治の両専務が昇格することが発表された。

[編集] 野澤正平 ~ 涙の自主廃業発表

野澤正平は1964年に法政大学経済学部を卒業して山一證券に入社した。主として営業畑を歩き、山一の主流である東大・企画室・MOF担とは無縁の会社人生であった。それが社長に抜擢された理由は、ひとえに金融不祥事の際に専務大阪支店長として中枢から外れていたためであり、1965年の危機の際に植谷が浮上したのと似た経緯であった。会長に就任した五月女も、東京大学法学部の出身ではあるものの、そのキャリアは地味な引受部門が中心で、やはり中枢を外れていたことが会長に抜擢された理由だった。2人とも強力なリーダーシップを発揮するタイプではなく、従順で温厚な性格だったことも、行平や三木にとってコントロールしやすいという意味で重要な選定理由の一つとなっていた。

野澤も五月女も、2,600億円に達していた簿外損失については就任するまで知らされていなかった。8月16日土曜日の朝、2人は常務財務本部長・渡辺正俊、常務企画室長・藤橋忍、取締役債券本部長・木村亨から簿外損失の存在を聞かされた。報告をした3人も行平や三木の指示があったわけではなく、新社長と新会長がこの重要事項を知らないのはまずいということで自主的に説明にきた状態であった。野澤・五月女はあまりのショックの大きさにしばらく立つこともできない状態だった。ようやく立ち上がった二人は、報告した3人を連れて近くの中華料理店に出かけ、昼間から紹興酒の杯を重ねたという。

野澤と五月女は、翌週月曜日の8月18日には企画室と経理部のメンバーで簿外損失処理のためのプロジェクトチームを立ち上げた。これは、「新生山一」の頭文字を取って「Sプロジェクト」と呼ばれた。その翌日8月19日に2人は行平を訪ねている。「いったいどうするつもりだったんですか」という2人の質問に、行平は「とにかく業績を上げて消していくことだ。ソフトランディングすることだよ」と無責任な発言を繰り返した。

9月24日には、前社長の三木が利益供与問題で逮捕された。

10月6日、渡辺常務と、前副社長(利益供与事件で辞任)で顧問の沓澤龍彦が富士銀行を訪れて、簿外債務の存在を明らかにすると共に再建計画を説明し、支援=劣後ローンによる800億円の提供を求めた。富士銀行はプロジェクトチームを作成して検討したが、山一側は簿外損失の存在すら知らない担当者が実務の対応窓口となり、その的を外れた回答によって富士銀行側の不信感は募る一方だった。また、山一側は富士銀を「メインバンク」と思っていたが、植谷による銀行出身者排除以来、富士銀側では「コアバンク」~いくつかある中心的な銀行の1つ~としてしか認識していなかった。さらに当時、富士銀行自体の株価が、1997年6月の1,860円から翌1998年10月には252円まで落ちるという暴落局面の最中で、下手に山一救済に乗り出せば富士銀行自体の存続が危ない状況となっていた。

それでも野澤は富士銀行からの回答を当てにしていた。10月16日、野澤・五月女は以前から山一と関係の深かったクレディ・スイスのグート会長、ミューレマン社長、ソーンバーグCFOと会食した。会食をセッティングした取締役の三竹恵一は簿外損失を知らなかったが、この席で提携を持ちかけ、交渉を始める以外に国際化の時代を山一が生き抜くことはできないと考え、クレディ側にも根回しをして野澤・五月女にそう進言した。クレディ側もそれに応えてCFOが来日、同席したが、野澤は決断できず、当たりさわりのない話に終始した。また、その雑談の内容も国際的な金融大企業のトップとしてはお粗末なもので、クレディ側は非常に失望したという。

10月23日は山一の中間決算発表日だった。野澤たちは決算と併せて「Sプロジェクト」による再建計画を発表する予定であったが、この日までに富士銀行の支援の回答が得られなかったために発表できなかった。代わりに当日、東京地検特捜部が昭和リースに対する損失補填容疑で家宅捜索に入った。記者会見は、27億円の経常赤字の発表と利益供与事件拡大の謝罪だけで終わった。

11月10日には、野澤は富士銀行から回答がないのに業をにやして三竹にクレディとの交渉を開始するよう命じた。しかし、クレディはその直前に英国の投資銀行BZWを買収しており、欧州重視に戦略を転換していたため、翌日には断りの回答が来た。三竹は11月14日にはメリルリンチとの交渉を始めることで野澤の了承を得て11月17日から交渉に入った。さらに、ドイツコメルツ銀行オランダINGグループとも交渉を行ったが、いずれも不調というより、あまりにも時間がない状態であった。

11月11日、ようやく富士銀行から最終回答があった。1.劣後ローンは富士からは250億円程度が限度で、あとは他行から借り入れてほしい、2.過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れてほしい、という、「実質的なゼロ回答」であった。

11月14日金曜日は野澤にとって多忙な日だった。以前から面会を申し込んでは断られていた山本富士銀頭取とやっとのことで面談し、800億円の支援ならびに短期の資金調達を懇願したが、淡々と断られた。いったん社に戻って三竹のメリルとの交渉にゴーサインを出すと、夕方には大蔵省に向かった。証券局長の長野厖士に対して簿外損失の存在を初めて説明した。

11月15日土曜日、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一の藤橋企画室長から説明を受けた。藤橋の「海外の簿外債務(損失)については、まだよくわからないところがあるんです」「クレディを優先してきたのでコメルツとは話が進んでいません」という説明を聞いて、小手川は絶望感を持った。小手川は11月17日月曜日には長野に状況を報告し、「今週中にも決断が必要です」と進言している。

大蔵省としても、はじめから自主廃業ありきというわけではなかった。三洋証券と同様に会社更生法が適用できないかという検討も行っている。しかし、山一證券は個人口座だけで220万口座あり、これがすべて債権者ということになるため、裁判所の処理能力を超えてしまう。三洋証券ではこの問題を寄託証券補償基金が個人顧客の債権を代位弁済し、一括債権者として処理することで何とか解決したが、基金の資金は300億円しかなかったため、山一の規模ではこの方法を取ることもできなかった。月末までに結論を出さなければ山一の資金繰りがショートしてしまうという時間的な制限もあり、会社更生法の適用は不可能と大蔵省幹部は判断した。また、根本的な問題として、飛ばしや粉飾決算など数々の法令違反があった会社を救済することはできないという判断も働いていた。

山一はいくつかのルートで政治家にも働きかけを行っている。しかし、当時の大蔵省の小村武事務次官新進党小沢党首と近く、自民党橋本首相とは親密でなかったという政官界の状況、さらに証券業界に対する世論の批判が厳しい状況の中で、あえて火中の栗を拾って山一救済に一肌脱ぐような政治家はついに現れなかった。

11月19日、野澤は再度大蔵省に長野証券局長を訪ねた。長野は「感情を交えずに淡々と言います。自主廃業を選択してもらいたい」と通告した。この時点で、100年の歴史を持つ巨大証券会社の消滅がほぼ確定した。

11月21日、山一の取締役会が開催された。しかし、この期に及んでも経営問題が山一の役員会の議題に上ることはなかった。何事もなかったかのように五月女が閉会を宣言しようとした時、若手の取締役を中心に異議が上がった。「不良債権があるのなら、発表しないと大変なことになる」という突き上げに、渡辺常務が簿外損失を含めた経営状態の現状を説明した。午前中に始まった役員会は数度の中断の後、夜まで熱い議論が続いたが、その議論が既に空しいものであることを野澤と五月女は知っていた。しかし結局、自主廃業を求められていることを役員たちに知らせることはできなかった。

ようやく役員会が終わり、社内の仮眠室で眠りにつきかけた野澤・五月女・藤橋の3人は、翌11月22日土曜日午前3時頃にたたき起こされた。電子ニュース速報に、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」と流していたのである。再び役員たちが集められ、午前8時から取締役会が開催された。日経新聞朝刊には、「山一証券 自主廃業へ/顧客資産保護へ日銀特融/負債3兆円、戦後最大」の見出しが躍っていた。野澤は集まった役員を前に、この数ヶ月の状況を説明した。同日、大蔵省の長野証券局長が記者会見した。自主廃業を求めていることについてはノーコメントを通したが、否定はしなかった。

11月24日は月曜日だったが、振替休日で休業日だった。午前6時からの臨時取締役会で自主廃業に向けた営業停止が正式に決議された。午前11時30分から野澤と五月女が記者会見を始めた。野澤はずっと下を向いたまま原稿を読むだけに終始し、質疑応答に入っても記者からの「簿外債務と含み損は同じ意味か」という質問に「ちょっと私にはわかりません」としか答えられないなど、たびたびつまる場面が続いた。しかし、会見の最後に唐突に立ち上がった野澤は、涙を流しながらこう言った。「社員は悪くありませんから、悪いのはわれわれなんですから。お願いします。再就職できるようお願いします」TVなどのマスコミで繰り返し流されたこの言葉だけは、野澤の心からのものだっただけに見るものの胸を打つ迫力があった。

[編集] その後

自主廃業発表後、顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で1兆2千億円にのぼった。そのうち1千億円は、海外分の簿外債務(損失)を融資していた中国銀行に即座に流れたという。山一の破綻(デフォルト)によって海外の金融機関が連鎖倒産することは避けなくてはならないという判断から山一に対する日銀特融が急がれ、法令違反をした会社を存続させるための特融はできないという観点から自主廃業が決定されたと見ることもできる。

山一各支店には顧客との取引を終了させる業務のみが許された。支店の前では競合各社の営業マンが解約して出てくる顧客を争って連れて行った。野村證券の12月の新規個人口座開設数は、例月の3倍、7万8千件に上ったという。

12月13日、常務業務監理本部長の嘉本隆正が委員長となって、社内調査委員会が発足した。嘉本は支店営業からのたたき上げで、もともと簿外損失を生み出した法人部門に疑問を持っていたこともあり、調査は徹底的に行われた。営業停止期限の翌1998年3月31日までに完成しなくてはならないという時間的制約の中、3月26日にレポートは完成し、4月16日に一般に公表された。この報告書(『社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-』外部リンク参照)は、山一破綻に関する最も基本的な文献となっている。

翌1998年3月4日、行平、三木、副社長で財務本部長だった白井の3人が、最大2,720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに、粉飾決算の容疑がついていた。2000年3月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、「行平のところですべて決まっていて、社長の自分には実権がなかった」という主張を行った。それが通って控訴審では執行猶予となっている。

発表以降、自主廃業の方向で事務処理を進めたが、1998年6月の株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念せざるを得なくなった。そのため破産申立てをすることに方針を転換し、1999年6月2日に東京地方裁判所より破産宣告を受けた。その時点で、本社ビル売却の関係などもあって山一證券株式会社の登記上の本店は日本橋茅場町の山一土地建物ビルに移転していた。山一破綻の原因となった、簿外損失を抱え込むために作ったペーパーカンパニー5社の登記上の住所だったビルである。

破産宣告後の手続は、債権者の多さや、海外資産の整理に手間取ったために長引いたが、最終的に2005年1月26日の債権者集会をもって終了した。同年2月に破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年あまりが経過しての終焉であった。最終的に、日銀特融のうち1,111億円が返済不能となった。

[編集] 社員・子会社のその後

山一本社所属の従業員や店舗の大多数はアメリカの大手金融業メリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。なお、最後の社長野澤正平はIT業界に身を投じた後、再び証券業界へ復帰し現在はセンチュリー証券(2006年6月より日産センチュリー証券)の代表取締役社長となっている。

子会社のその後については以下の通りである。

  • 山一信託銀行 - オリックスに譲渡され「オリックス信託銀行」に改称。
  • 山一證券投資信託委託 - 三和銀行に譲渡され「パートナーズ投信」(現・三菱UFJ投信)に改称。
  • 山一投資顧問 - フランスの大手金融業・ソシエテ・ジェネラル傘下に入り「SG山一アセットマネジメント」に改称。2004年、りそなアセットマネジメント(旧東京投信→あさひ東京投信。元は東京証券傘下)を合併し「ソシエテジェネラルアセットマネジメント」に再改称。元子会社の中では「山一」の名前を一番最後まで残した。
  • 山一情報システム - 社員は「日本フィッツ(現CSKシステムズ)」に移籍。
  • 香港山一証券(香港法人) - 台湾のコアパシフィック財閥(威京総部集団)傘下に入り「コアパシフィック山一インターナショナル(京華山一国際)」に改称。同社の日本法人は2003年にエース交易の子会社となり「アルバース証券」に改称。
  • 山一證券経済研究所 - 収集・管理していた資料の一部は、大阪学院大学図書館へ移された。
  • 企業同窓会である「山友会」は現在も、日本橋茅場町に事務所を置いて存続している。

[編集] その他

  • 『山一證券史』1958(昭和33)年刊。創業60周年記念刊行。前編「わが国における証券市場の発達」・後編「山一證券史」からなる。約1,400頁。
  • 『山一證券年表』1985(昭和60)年刊。1958(昭和33)年から1984(昭和59)年まで。
  • 『山一證券の百年』1998(平成10)年刊。編集・山一證券株式会社社史編纂委員会、発行・山一證券株式会社。約466頁。「社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-」添付資料一部割愛して全文所収。

[編集] 旧URL

  • 山一證券グループ(日本語) www.yamaichi.com/welcom_j.html
  • 山一證券グループ (英語) www.yamaichi.com/welcome.html
  • 山一情報システム www.yis.co.jp/
  • コアパシフィック山一證券 www.corepacific-yamaichi.co.jp/

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

  • ブロッコリー…当時山一證券に勤めていた木谷高明が設立した企業。

[編集] 外部リンク

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