中山素平
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中山素平(なかやま そへい、1906年(明治39年)3月5日 -2005年(平成17年)11月19日 )は、日本の実業家。日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取、同会長、経済同友会代表幹事を歴任。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ一方、部下からも「そっぺいさん」と慕われた。
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[編集] 略歴
- 1906年(明治39年)東京生まれ。小学校4年生のときに父を喪う。麻布中学校を卒業。
- 1929年(昭和4年)東京商科大学本科(現一橋大学)を卒業。卒業論文は「景気変動理論における金融中心説の一考察」。
- 1929年(昭和4年)日本興業銀行に入行する。
- 1945年(昭和20年)終戦直後、興銀は、特殊銀行としてGHQ(連合国軍総司令部)の指令により廃止の危機にあったが、中山は調査部長・復興金融部長として、GHQと興銀の存廃をかけて交渉する。その結果、ついに存続を認めさせることに成功した。この経験から、ねばり強い交渉力と強い意志に基づく経営理念を身につけた。
- 1947年(昭和22年)興銀理事に就任。
- 1950年(昭和25年)常務取締役に就任。
- 1951年(昭和26年)日本開発銀行に出向。次席理事に就任。
- 1954年(昭和29年)興銀に戻り副頭取。
- 1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)まで経済同友会代表幹事(終身幹事)。
- 1961年(昭和36年)頭取に就任。
- 1968年(昭和43年)会長に就任。相談役を経て1984年から特別顧問。
- 2005年(平成17年)11月19日午後5時45分、肺炎による心不全のため、都内の榊原記念病院で逝去。享年99。
[編集] 業績
- 1950年(昭和25年)、川崎製鉄(現:JFEスチール)が千葉に銑鋼一貫工場を建設する計画書を通産省に提出した。1950年度に250万トン程度の粗鋼生産しかない業界に、一挙に50万トンの生産力をもつ一貫工場を、資本金5億円の川崎製鉄が163億円かけて建設するという計画であった。日本銀行の一万田尚登総裁は金融引き締め政策に逆行する巨額投資に憤り、「製鉄所にペンペン草をはやしてやる」とまで言い放ち、反対した。中山は、原料の船からの荷下ろしから製銑・製鋼・圧延、製品の船積みまでの全工程が合理的にレイアウトされていること、全工程に最新の設備の導入が予定されていることなど、優れた計画であることを認め、この反対を押し切り、融資を決め、製鉄所実現に尽力した。
- 1962年(昭和37年)には東邦海運と日鉄汽船の合併による新和海運設立の舞台回し役を務め、1964年(昭和39年)の海運再編成の契機を作った。
- 1964年(昭和39年)、低迷する証券市場の安定を目的に株式の買い上げ機関「日本共同証券」が設立されたが、その発起人総代になった。
- 1965年(昭和40年)5月28日 山一證券が経営危機に陥り、日本銀行氷川寮で事態収拾のための会議が行われた際、日銀特融を主張し、田中角栄蔵相の決断を引き出すきっかけを作った。
- 1966年(昭和41年)8月の日産自動車とプリンス自動車の合併に尽力した。
- 1970年(昭和45年)、富士製鉄と八幡製鉄の大型合併新日本製鐵に難色を示した山田精一公正取引委員会委員長と推進派の大平正芳通産相の会談をセットして合併承認への道を開いた。
- 1973年(昭和48年)11月21日、経済団体連合会、日本商工会議所、経済同友会、関西経済連合会の財界4団体が母体となり設立されたエネルギー総合推進委員会の委員長として、インフレ抑制のため、値上げ自粛などを盛り込んだ「中山構想」を提唱した。
- 中東協力センター理事長として中東との交流に努め、「資源派財界人」とも呼ばれた。
- 多くの企業の救済・起業に東奔西走し、その中にはハウステンボスの起業や1992年経営危機に陥ったアスキーの救済などが知られている。
- 中曽根康弘元首相の私的諮問機関「平和問題研究会」に加わったほか、臨時教育審議会の会長代理に就いた。中曽根元首相が推進した国鉄の分割民営化に反対していた田中角栄を中山が説得した。
- 1983年(昭和58年)、上越新幹線の開通と同時に、土光敏夫ら財界あげての支援の下に、日本初の全て英語で授業を行う大学院大学である国際大学を新潟県南魚沼市に開学した。中山は、自ら初代理事長となり、初代学長には大来佐武郎が就任した。
[編集] エピソード
[編集] 関連書籍
- 高杉良『小説日本興業銀行(第一部~第五部)』(講談社文庫、1990-1991年) - 中山素平を主人公とした本書には、彼の識見、行動力、人の心をつかむ魅力がいかんなく描かれている。
- 城山三郎『運を天に任すなんて』(光文社、1997年・新潮文庫、2003年)
- 城山三郎『静かなるタフネス10の人生』(文芸春秋、1986年・文春文庫、1990年) - 中山素平の章のタイトルは「二階級下げられても」。日本開発銀行を設立するときに、初代総裁に内定していた小林中は、興銀から当時常務であった中山を副総裁でスカウトしようとした。しかし、日本銀行総裁の一万田尚登が日銀理事の太田利三郎を副総裁に推した。そこで、小林は中山を筆頭理事で招くことになった。そんなとき、大蔵省事務次官の船山正吉が大蔵省出身の中村建城をぜひ筆頭理事にとねじ込んできた。結局、中山は次席理事で開発銀行に行くことになった。このことに関して、中山は、日本の事業金融を軌道に乗せようと思っていたので、ポストが一つ上だろうが、下だろうがあまり意に介さなかったと述べている。