忠烈王 (高麗王)
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忠烈王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 충렬왕 |
漢字: | 忠烈王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ちゅうれつおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
チュンヨォンワォン |
ラテン文字転写: | King Chungnyeol |
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忠烈王(ちゅうれつおう 1236年 - 1308年)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。
姓名は王椹、二十四代目高麗王元宗の子。諡は忠烈景孝大王、諱は王賰、別名は王椹。1260年に世大子となり、 1271年6月に元に婚姻の許諾を得てフビライの娘忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)[1]を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後再び高麗に戻り王位についた。
文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を執拗に進言し、兵力と経費を提供する[2][3][4]ととともに毎年元に莫大な貢物、奴隷[5]等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令[6](1278年)を出すほか、以降の王は 元の宮廷で育ち忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠肅王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠惠王は「普塔失里」(ブダシリ)元風の名を持っている。[7]
目次 |
[編集] 略歴と関連年表
- 1236年 二十四代目高麗王元宗と樞密副使の間の長子として生まれる
- 1256年 11月 宗室 始安公絪の娘を妃とする(貞信府主)[8]
- 1259年 高麗崔氏政権は打倒され、元に服属。元宗の子(後の忠烈王)元の首都 大都(北京)へ[9]
- 1260年 世太子となる
- 1270年 高麗 「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われる
- 1271年 6月 フビライの娘忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)と婚姻の許諾を得る(元宗15年)
- 1272年
- 1273年 三別抄の乱を元の力で鎮圧
- 1274年
- 1275年 耽羅国に耽羅國軍民都 達魯花赤(da-ru-qas) 總管が置かれる
- 1276年 通文館[13]を置く
- 1278年 辮髮・胡服令[14]を下す。
- 1280年 日本に対する遠征(元寇)を遂行する目的で征東行省(忠烈王が長官となる)を創設
- 1281年 弘安の役
- 征東行省を解散
- 1289年 哈丹[15](契丹)の寇により都を江華島に移す。[16]
- 1291年 都を開城に戻す。
-
- 契丹の侵入
[編集] 関連項目等
[編集] 参考文献
- 「元朝ケシク制度と高麗王家―高麗・元関係における禿魯花の意義に関連して」(著者 森平雅彦)『史学雑誌』110-2、2001年2月、史学会.
[編集] 脚注
- ↑ 後の荘穆王后(齊國大長公主)舊妃は始安公絪娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は舊妃に近寄らなくなったという。(高麗史)
- ↑ 「高麗史」に詳細に記述されている。
- ↑ 高麗史列伝巻十七 『若依蛮様、則工費多、将不及期..用本国船様督造』
- ↑ 「元史」 卷十二本紀第十二世祖九 七月の条 『高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本』
- ↑ 一例として「高麗史」十六 世家巻第二十八 忠列王一 忠烈王元年冬 『壬子以将 献処女于元禁国中婚嫁 ..中略 癸未遣唐僉議賛成 事俞千遇如元賀正告改官制献処女十人』
- ↑ 忠烈王の容姿については、高麗史によれば、
- 国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。
- ↑ 多くのWEB情報では、高麗が元の属国なので改名したとあるが、育ちが元の宮廷でなので改名ではなく2つの名前を持っているのが正しい。
- ↑ 婚姻の年月は不明だが、この外に金良鑑の娘を淑昌院妃として妃としている
- ↑ 禿魯花ではないが、実質の人質。 禿魯花とは元の言葉で人質のことを言う。忠烈王以降の世子は禿魯花となって元の大都に行くのが通例となった。
- ↑ 「高麗史」十五(ソウル大学)世家二十七 高麗史二十七 元宗三 元宗十三年(1272)三月の条 世子'諶(後の忠烈王)云'の箇所『惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師』 読み下し
- 惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん
- ↑ 「高麗史」十五(ソウル大学)世家二十七 高麗史二十七 元宗三 元宗十三年(1272)三月の条 『世子知之 不得已請于 帝国人見世子 辯髮胡服 皆歎息 至有泣者』
- ↑ 若依蛮様 則工費多 将不及期 用本国船様督造
- ↑ 40歲未滿の禁內學官(禁內の秘書·史館·翰林などの文官)に漢語敎育を行なう他 翻訳を司る部門。太祖2年(1393年)にはそれが司訳院と改称される
- ↑ 忠烈王四年二月 令境内皆服上國 衣冠開剃。蒙古俗剃頂至額。方其形留髮其中。謂之開剃。この令は明の太祖の洪武元年(1387年)の大民之衣冠まで継続するので109年間、蒙古風の辮髮・胡服を高麗の臣官、学生はしていたことになる。
- ↑ 합단(ハブダン)の翻訳
- ↑ 忠烈王十六年避哈丹兵于此十八年復還松京以本
[編集] 外部リンク
- 高麗史 16 (奎章閣 韓国ソウル大学韓国学研究院 高麗史)
- 高麗史、高麗列伝(国会図書館近代デジタルライブラリ)
- 元史 台湾 中山大学 歷史傳記
- 'クビライ牛年(1277-1289)聖旨(1)のパスパ文字' 吉池孝一 古代文字資料館発行『KOTONOHA』35号(2005年 10月)
- 高麗王の対元政策 服飾政策の関係硏究
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