三別抄
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三別抄(さんべつしょう)(朝:삼별초)は、高麗王朝の軍事組織。崔氏政権の私兵軍団から、高麗の正規軍に発展する。
「別抄」とは精鋭部隊を意味し、初めは地方の反乱鎮圧のための臨時編成される組織であった。崔氏政権のもとで常設、拡大されて左別抄、右別抄のニ部隊となり、のちにモンゴルの捕虜から脱出した「神義軍」を加えて「三別抄」となった。
[編集] 三別抄の乱
朝鮮半島で936年に成立した高麗は中華諸王朝の冊封を受けていたが、北方のモンゴル系遊牧民や契丹などの強大化した諸民族が高麗へ侵攻するなど、辺境防備に悩まされていた。高麗は侵攻を撃退するものの、契丹や女真族の金王朝に対しては入朝を行う。高麗では科挙制度の導入など国家体制を確立させての対抗を図るが、文臣と武臣の政治的抗争から、1196年には武官の崔忠献が李義旼 (旼は、日へんに文)を暗殺し、高麗の実権を握った。
崔忠献は自らの権力基盤を安定化させるために王権を弱体化させ、宿衛機関である都房を組織して崔氏独裁体制を成立させる。次代の崔瑀(瑀は王へんに禹)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒の為の夜別抄を組織した。これらの組織が統合され三別抄になる。三別抄は崔氏政権を維持する為の私兵組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度に変わって事実上の国軍になった。
モンゴルの諸民族を統一して成立したモンゴル帝国(71年に国号を元とする)は周辺諸国の征服事業を開始し、1219年には高麗と共同して契丹を滅ぼす。モンゴルは高麗に貢納を要求するなど両国の関係が悪化し、31年には第一次高麗侵攻が開始される。高麗は各地で敗北して降伏するが、私兵を温存していた崔氏政権は徹底抗戦を行い、32年には開城から漢江河口の江華島への遷都を行う。モンゴルは断続的な侵攻を行い、高麗の朝廷では文臣を中心に講和が希求され、58年には林衍ら反対派の武臣とともに崔氏政権を打倒し、モンゴルへ降伏する。
林衍らは降伏を不服とし、69年には国王元宗を廃して再び政権を掌握する。モンゴルは林衍討伐を名目に進軍し、林衍は三別抄らを動員して抵抗するが、その最中に死去。70年5月には子の林惟茂も倒され、武臣政権は崩壊。元宗は江華島から開城へ戻る。武臣政権の私兵集団である三別抄に対しては元宗は解散を命じるが、1270年5月、三別抄将軍の裴仲孫、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化江温を推戴し、江華島を本拠に独立。三別抄の挙兵理由に関しては、もともと反モンゴル的性格であったことと、将兵の討伐を恐れたためと考えられている。また、独自に官史の任命も行っており、高麗王朝を否定した新王朝樹立を目指すものであったとも言われる。
6月、三別抄政権は西南の珍島に移る。1271年には日本の鎌倉幕府へ救援を求めたが、黙殺されている。三別抄の反乱は、珍島の三別抄は高麗の金方慶、洪茶丘らモンゴルの連合軍に撃破され、金通精に率いられて耽羅(済州島)に落ちるが、1273年に三別抄の乱は鎮圧された。
モンゴルは耽羅総管府を設置して高麗の征服事業は完了。高麗は元へ服属し、日本招諭のための使節派遣や、1274年からの日本侵攻(元寇)へも従事させられる。