拷問
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拷問(ごうもん)とは、対象を肉体的・精神的に痛めつけることにより、自白を強要する行為。拷問によって得られた自白は犯罪の有力な証拠とされたため、洋の東西を問わず古来から広く行われた。ただし、現在の日本においては、公務員による拷問は絶対にこれを禁じ、かつ、拷問によって得られた自白は証拠として使えないと条文に明記されている(日本国憲法38条2項、刑事訴訟法第319条第1項)。
国際法上は、拷問等禁止条約(拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約)により次のように定義される。
- この条約の適用上、「拷問」とは、身体的なものであるか精神的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える行為であって、本人若しくは第三者から情報若しくは自白を得ること、本人若しくは第三者が行ったか若しくはその疑いがある行為について本人を罰すること、本人若しくは第三者を脅迫し若しくは強要することその他これらに類することを目的として又は何らかの差別に基づく理由によって、かつ、公務員その他の公的資格で行動する者により又はその扇動により若しくはその同意若しくは黙認の下に行われるものをいう。「拷問」には、合法的な制裁の限りで苦痛が生ずること又は合法的な制裁に固有の若しくは付随する苦痛を与えることを含まない。(第1条)
だが、多くの発展途上国、中国や北朝鮮およびアメリカ統治下の国(アフガニスタンやイラク)では未だに拷問による自白が平然と行われているのが実情であり、特にアメリカ軍や韓国軍がベトナム戦争時に行ったベトナム人への拷問や虐待が暴露され、国内外から批判が起こり、アメリカ軍がベトナムから撤退する要因のひとつともなった。またアメリカ軍におけるイラク人への拷問も暴露されイラク国内外から批判され、イラク国内ではテロリストを増やす要因ともなった。また先進国においても数こそ少ないながら報告されている。
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[編集] 拷問方法の一覧
[編集] 日本
罪人に苦痛を与えて強制的に白状させる拷問は、日本でも古代から存在していたと推測されるが、公式に制度化されたのは奈良時代、大宝律令が制定されてからである。
律令で定められた拷問は、罪の容疑が濃厚で自白しない罪人を、刑部省の役人の立ち会いのもと、杖(拷問に用いる場合は訊杖(じんじょう)といった。律令の規格では、長さ3尺5寸=約1mで、先端が4分=約1.2㎝、末端が3分=約0.9㎜と定められていた)で背中15回・尻部15回を打つもので、自白できない場合は次の拷問まで20日以上の間隔をおき、合計200回以下とする条件で行っていた。皇族や役人などの特権者、16歳未満70歳以上の人、妊娠間近の女性に対しては原則的には拷問は行われなかった。ただし、謀反などの国事に関する犯罪に加担していた場合は地位などに関係なく、合計回数の制限もなかったと思われる。このため拷問中に絶命する(杖下に死す)罪人も少なくなかった。奈良時代の著名な政変の一つである橘奈良麻呂の乱で、謀反を企てた道祖王、黄文王、大伴古麻呂らが杖で長時間打たれた末、耐えかねて絶命したのは良く知られているが、他にも長岡京造成途上での藤原種継暗殺事件や、承和の変、応天門の変などでも容疑者を杖で打ち続ける拷問が行われたとされている。やがて遣唐使中止や延喜の治の頃になると、杖で打つ拷問は廃れていったと考えられる。
戦国時代、江戸時代においては駿河問い(するがどい)・水責め・木馬責め・塩責めなどのさまざまな拷問が行われたが、1742年に公事方御定書(くじかたおさだめがき)が制定されてからは笞打(むちうち)・石抱き・海老責(えびぜめ)・釣責の四つが拷問として行われた。その中でも笞打・石抱は「牢問」、海老責・釣責は「(狭義の)拷問」というように区別して呼ばれ、その危険性の高さゆえ、「(狭義の)拷問」は「牢問」よりも厳しい要件が定められていた。
拷問が行われるのは、殺人、放火など死罪となる重犯罪の被疑者に限られ、その上共犯者の自白や証拠品の確保などによって犯罪が立証されていることが必須であり、なおかつ、拷問の実施には老中の許可が必要だった。町役人が独断で拷問を行うことは、法制度上では禁止されていた。また、江戸幕府最後の南町奉行で与力だった佐久間長敬の書き残した文章によれば、拷問を使わずに犯人から自白を引き出す吟味役を有能とする風潮が存在していた。これは拷問しにくい環境が整っていたことを示している。但し、現代のような科学捜査の無い当時の犯罪捜査は自白中心だったことから拷問を廃止するのは不可能だった。無論、拷問する側も拷問の実施要件を厳格に定めていたことから自白中心主義の問題には気づいていたと思われる。また、公事方御定書の適用範囲自体が幕府直轄地に限定されており、その他の領地では各藩の自由裁量に任されていたため、公事方御定書制定以降も上記四種以外の刑罰が存在した可能性がある。
同じく江戸時代島原の乱の原因となった松倉勝家が領する島原藩におけるキリシタンに対して行われたとされる拷問は、蓑で巻いた信者に火を付けもがき苦しませた蓑踊りをはじめ、硫黄を混ぜた熱湯を信者に少量注ぐ、信者を水牢に入れて数日間放置、干満のある干潟の中に立てた十字架に被害者を逆磔(さかさはりつけ)にするなどさまざまだった。これはキリスト教の棄教を迫るもので、キリシタンが拷問中に転向する旨を表明した場合、そこで拷問から解放された。拷問の結果棄教したキリシタンが数多く存在しているが、逆に棄教しない場合は死ぬまで拷問が続けられた。
江戸時代から明治に変わっても拷問は続き、第二次世界大戦後までの間に警察では拷問は平然と行われ、その時代の有名な拷問の犠牲者として作家の小林多喜二がいる。また終戦前の1942年に起こった横浜事件では雑誌編集者らに対し拷問を与え3名が獄死した。ちなみにこちらの事件で拷問を行った警察官は有罪となり、更に被告が全員死亡した2005年になってようやく横浜事件に対する雑誌編集者らについての再審裁判が行われるようになった。日本敗戦後のGHQ統治下でも警察が拷問による自白を多数強要していた。だが1952年にサンフランシスコ講和条約後に今まで行われた逮捕者をもう一度調べ、拷問による自白の者については再審判が行われるようになり、今日の日本においては逮捕後の拷問による自白は証拠とはされず、拷問を行った者は逮捕(特別公務員暴行陵虐罪)されるようになっているが、アムネスティ・インターナショナルなど人権擁護団体からその疑いを指摘されることがある。
[編集] 関連書籍
- アリス・モ-ス・ア-ル、エドワ-ド・ペ-ソン・エヴァンズ『拷問と刑罰の中世史』 神鳥奈穂子、佐伯雄一訳、青弓社 1995年、ISBN 4787220098
- 秋山裕美『図説 拷問全書』 原書房、1997年、ISBN 4562029218
- (文庫版:筑摩書房(ちくま文庫)、2003年、ISBN 4480037993)
- ブライアン・インズ『世界拷問史』 本園正興訳、青土社、1999年、ISBN 4791757270
- アムネスティ・インタ-ナショナル日本『拷問廃止(アムネスティ人権報告)』 明石書店、2000年、ISBN 4750313440
- 高平鳴海と拷問史研究班『拷問の歴史』 新紀元社、2001年、ISBN 4883173577
- 重松一義『図説刑罰具の歴史―世界の刑具・拷問具・拘束具』 明石書店、2001年、ISBN 4750313645
- ジェフリ-・アボット『処刑と拷問の事典』 熊井ひろ美訳、原書房、2002年、ISBN 4562035498
- 大場正史『西洋拷問刑罰史』 雄山閣、2004年、ISBN 4639018711
- カレン・ファリントン『拷問と刑罰の歴史』 飯泉恵美子訳、河出書房新社、2004年、ISBN 430922413X
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク