趙高
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趙 高(ちょう こう ? - 紀元前207年)は、戦国時代末期から秦にかけての宦官、政治家。
彼は趙の王族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯し、これに連座して、趙高は宮刑に処せられたというが、これに疑問を持つ史家も多く疑わしい点が多い。実際に彼には閻楽という女婿がいることから、秦に官吏として仕える途中で罪を犯したかもしくは連座により宮刑に処せられたと思われる。またある説では彼は貧家に生まれ、多くの兄を養うために自ら宦官を志願して、秦に仕えたという説もある。 実際に彼が始皇帝にいつから仕えたのかは史記に一切記されておらず、不明であるが、趙高が勤勉なことと法律に詳しいことから始皇帝の末の皇子・胡亥のお守役を拝命する。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることとなり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。
始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に50歳で病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰めて、末子の胡亥を即位させる。そして、自ら郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らが代わって政務を取り仕切って実権を握った。そして自分にとって邪魔な存在となっている胡亥以外の始皇帝の公子である公子高やその叔父の公子将閭も含めて、始皇帝の愛妾やその子供、趙高に反対する者、反乱などを訴え出る者などをあらぬ罪や捏(で)っち上げの罪などで捕らえ皆殺しにした。時あたかも、陳勝・呉広の乱の挙兵に始まる反乱が相次ぎ、事態を憂慮した李斯と趙高は対立を深め、ついに趙高は、胡亥に讒言して、李斯を処刑させ、自分が後任の丞相となった。だが、趙高には事態を打開するだけの能力はなく、咸陽の近くにまで劉邦の軍勢が迫ると、ようやく事の次第を知った胡亥にその責任を問われる。身の破滅を恐れた趙高は、一族を率いてクーデターを起こし、胡亥を自殺に追い込む。この時、劉邦軍と密かに内通をしていたが、実際は劉邦から全く相手にされていなかった。
胡亥の後継として、人望の厚い子嬰を擁立することで自身への非難をかわそうとするが、父を死に追い詰めた趙高を憎悪する子嬰によって一族皆殺しにされた。
胡亥在命中にある時に趙高が宮中に鹿を連れて来て「これは馬だ」と趙高が答え、官吏が「鹿」だと答えた場合、即座に官吏を捕らえて処刑したという逸話が残っている。これで馬鹿の語源のひとつとなった。また、阿呆の語源のひとつと言われる阿房宮の増設を行い、馬鹿と阿呆の語源に両方関わることになった。
後の前漢時代になってから、趙高の取った行動は、趙の旧王族として故国の復讐を行なったものと受け取られていた俗説があったらしく、後世ではそれが普及した。そのためにそれを題材にした小説が存在したようである。