天山 (艦上攻撃機)
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天山(てんざん)は日本海軍が九七式艦上攻撃機の後継機として中島飛行機に開発された艦上攻撃機。主に雷撃機として使用された。制式採用は1943年(昭和18年)8月。設計主務者は松村健一。
機体略番は「B6N」。連合軍によるコードネームは「Jill」である。
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[編集] 開発
[編集] 試行錯誤
本機設計にあたり海軍から出された要求性能は、当時の航空技術から見て極めて達成困難なものだった。この過酷な要求を実現する為、中島飛行機は大出力を誇る自社エンジン『護』を搭載する事とした。大出力エンジンに合わせ、機体のサイズも大型のものとなったので、航空母艦に搭載する際の利便性を考慮し、垂直尾翼の軸を前傾させ(着陸姿勢での)全長を短くするよう工夫した。また、翼面荷重増加に対応すべくファウラーフラップを採用したり、航続距離を伸ばす為にセミインテグラルタンクを採用するなど、海軍側の要求をクリアする為に様々な工夫がなされた。
こうして、ようやく完成した試作機を飛行させたところ、大馬力エンジンによる回転トルクが大きく飛行姿勢が安定しなかったので、垂直尾翼の取り付け角度を機軸に対し左に傾ける改善がされた。
[編集] エンジンの換装
制式採用されてから前線の部隊に配備されると、『護』エンジンの信頼性が低いという問題点が報告された。そこで海軍は、『護』から信頼性の高い三菱製の『火星25型』エンジンに換装するよう決定した。しかし、これには諸説があり、当初から海軍は火星エンジンを搭載する予定であったが、機体の試作時にはまだ火星エンジンは量産体制に無く、新型機を早期に制式採用したかった海軍が、多少信頼性に問題がある事を知りつつも火星エンジンの量産体制が整うまでの「つなぎ」として『護』搭載タイプを制式採用したという説もある。
『護』エンジン搭載タイプは『天山11型』とされ、少数の生産にとどまった。主力生産されたのは、『火星25型』エンジンが搭載された『天山12型』である。『天山12型』のバリエーションとしては、後上方旋回機銃を13mm機銃に換装した『天山12型甲』がある。この『天山12型甲』には、3機に1機の割合で、機上電探が搭載された。
天山11型は、長時間飛行すると、眠くなるという本があった。(しかし、本当でない可能性が高い)
[編集] 下方銃座
天山には、日本機としては珍しい下方銃座が備えられていた。偶然だが、天山が実戦に投入された時のアメリカ海軍主力雷撃機TBF/TBM アベンジャーも同様に下方銃座を備えていた。しかし、下方銃座の実戦での有効性は疑問視されていた。
[編集] 実戦における活躍
艦上攻撃機としては世界でもトップクラスの性能を持つ本機であったが、開発に時間を要した為に登場時期が遅れ、熟練搭乗員が不足した事や、高性能レーダーを駆使し、幾重にも迎撃機を配置したアメリカ海軍機動部隊の防空システムや近接信管等の開発により、実戦では多大な損害を被った。アメリカ海軍のアベンジャーに比べ、耐久性を除けば性能的に劣るところは無かったが、両機を取り巻く環境には雲泥の差があり、終戦まで天山にとって苦戦を強いられる日々が続く事となる。
「天山」の実戦初参加は1943年のブーゲンビル島沖航空戦で、この時は、ラバウル基地から出撃している。以後、翌1944年2月17日~18日の米軍高速空母機動部隊のトラック諸島空襲に対する反撃や同年6月~7月のマリアナ諸島攻防戦にも参加した。 一方、空母機動部隊(第三艦隊→第一機動艦隊)の各空母に搭載された「天山」は、1944年6月19日~20日にかけてのマリアナ沖海戦が本格的な初陣であった。
しかし、いずれも、アメリカ海軍艦隊の強力な対空防御網により壊滅的な打撃を受け、いくつかの例外を除けば、これといった戦果を挙げることはできなかった。
機動部隊の各空母に搭載された「天山」は、1944年10月のレイテ沖海戦でも、小沢治三郎中将指揮する囮艦隊の瑞鶴以下計4隻の空母から出撃しているが、その任務は、主に索敵偵察や爆装した零戦(いわゆる戦闘爆撃機)による攻撃隊の誘導機としての役割が中心であった。
一方、陸上基地航空隊の「天山」は、マリアナ諸島攻防戦後、台湾沖航空戦やレイテ沖海戦以降のフィリピン攻防戦などにも参加している。しかし、この頃から「天山」を使用した作戦方法は、次第に夜間雷撃(または、薄暮雷撃や黎明雷撃)が中心となっていく。
大戦末期の1945年の九州沖航空戦や沖縄戦(菊水作戦)においては、「天山」は、3機に1機の割合で機上電探を搭載していたことから、主として、九州の陸上基地からの米軍の高速空母機動部隊や輸送船団などに対する夜間雷撃に使用されたが、上述のように米軍側のレーダーや近接信管を使用した対空防御砲火、ならびに、レーダー搭載の夜間戦闘機などを駆使した迎撃による機体と搭乗員の損失が多く、あまり目ぼしい戦果は見られなかった。それでも、終戦の3日前の1945年8月12日の夜半には、九州・鹿児島県の串良基地から出撃した第五航空艦隊指揮下の第931海軍航空隊・攻撃第251飛行隊所属の「天山」4機のうちの1機が、沖縄の中城湾に停泊していたアメリカ海軍の戦艦ペンシルバニアを夜間雷撃で大破させる、などのような戦果も記録されている。
また、フィリピン攻防戦や硫黄島の戦い(硫黄島攻防戦)、沖縄戦(菊水作戦)では、零戦や艦上爆撃機「彗星」などと比較すると遥かに少ない数ながらも、特攻機として投入された機体もある。特に、硫黄島の戦いにおいて、1945年2月21日に硫黄島沖の米軍艦隊に対する特攻攻撃を行なった神風特別攻撃隊第二御盾隊には、第三航空艦隊指揮下の第601海軍航空隊所属の「天山」8機が投入されている。このうち、半数の4機は800㎏爆弾を搭載して特攻攻撃を敢行したが、残る半数の4機は航空魚雷を搭載しており、米軍艦艇に雷撃を敢行したのちに体当たり攻撃を敢行している(いわゆる雷撃特攻)。 この時、爆装「天山」4機のうちの1機は、800㎏爆弾1発を空母サラトガに投下、飛行甲板に命中させて大穴を開け大破させた(爆弾を命中させた「天山」は、その後、サラトガに体当たりしようとする直前に撃墜された)。
[編集] 主要諸元
※データは天山12型(B6N2)
- 乗員:3
- 形態:低翼単発
- 全幅:14.89m
- 全長:10.89m
- 全高: 3.80m
- 主翼面積:37.2㎡
- 発動機:三菱『火星25型』1,850馬力
- プロペラ:V.D.M定速3翅
- 全備重量:5,200㎏
- 最高速度:482km/時
- 航続距離:1750km
- 実用上昇限度:9040m
- 上昇率:3000/5'34"
- 武装:7.92mm機銃×1(後上方旋回機銃)・7.7mm機銃×1(後下方旋回機銃)・爆弾800㎏まで又は魚雷×1
- 天山12型甲は、後上方旋回機銃を13mm機銃に、後下方旋回機銃を7.92mm機銃に換装して火力を増強。3機に1機の割合で、機上電探を胴体後部、ならびに主翼前縁部に搭載
- 生産機数:1266機(1・2型合計)
- 製作会社:中島飛行機
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 大日本帝国海軍航空機 | 爆撃機