生沢徹
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生沢 徹(いくざわ てつ、1942年8月21日 - )は日本の元レーシングライダー、元レーシングドライバー、元レーシングチームオーナーである。
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[編集] プロフィール
[編集] オートバイ
画家生沢朗の長男で日本大学芸術学部工業デザイン科を卒業した。まだ15歳だった1958年、浅間高原自動車テストコースで開催されたオートバイレース、第1回全日本クラブマンレース(アマチュア主体の大会。オートバイメーカーとワークスライダーによる浅間火山レースとは違う)に出場し、最年少ライダーとして話題を呼ぶ。トーハツやホンダに乗り二輪レースで活躍の後、大学在学中の1963年にプリンス自動車と契約し四輪レーシング・ドライバーに転向した。日本の初期のレース界において数々の伝説となったレースに出場し、幾多の好成績をあげた。ドライバーとしての実力だけではなく、有名画家の息子であるという血筋の良さや甘いマスクの魅力も加わり、現代の若きヒーローとして人気を博した。
[編集] 伝説のレーサー
[編集] 1964年
生沢は1964年の第2回日本グランプリにプリンス自動車のワークスドライバーとして出場し、スカイライン2000GTに乗車。式場壮吉のドライブするポルシェカレラ904と対決し、一般市販車スカイラインとは圧倒的な性能差のあるポルシェをリードして、半周ほどトップに立つという歴史的な快挙を成し遂げている。まだ品質性能に定評のなかった国産車が、海外メーカーの本格的レーシングカーを抜いたのは大事件だった。これが現在まで続くスカイライン伝説の端緒。
ただしこれがマシンとドライバーの実力だったかどうかは論議の分かれるところだ。友人同士だった生沢と式場の間で「もしスカイラインがポルシェに付いて行けたら、少しだけトップを走らせてほしい」という話が交わされていたという説もある。式場のポルシェは練習中にクラッシュしており、決勝レースまでに修理は間に合ったものの本調子ではなく、かなり安全マージンを取っていたらしい。生沢スカイラインがトップに立てたのは、式場ポルシェが周回遅れに遭遇し抜くのをためらっていたためで、そうでなければ同ペースで走ること自体が不可能なほど両車の性能には差があった。事実、生沢スカイラインの後を走っていた式場ポルシェは、直線で一気にトップを奪い返すと、その後はスカイライン勢を寄せ付けずに優勝している。生沢はその後、プリンスの同僚である砂子義一(元ヤマハ世界GPライダー。息子の砂子塾長こと砂子智彦も有名レーサーに成長)にも抜かれ、3位でゴールしている。生沢は「チーム内では無理に競り合わず順位を保てというオーダーが事前にあったのに、砂子がわざとぶつけながら抜いていった」と語っている。一方の砂子は「生沢はわざとゆっくり走っていたので抜いた」と述べている。
砂子の談話からは「生沢はライバルチームの式場と談合し、抜いた抜かれたの茶番を演じた後に、懸命に式場を追うこともせず不真面目だった」というニュアンスも読み取れる。生沢や式場といった面々が、メーカーチームの枠を超えて仲間として付き合っていたのは、メーカー関係者や同僚ドライバーから深い反感を買っていたのも事実のようだ。生沢らの仲間はそれぞれ違うメーカーにドライバーとして所属しながら、マシンの性能などの内情について情報交換していたらしく、メーカー関係者にしてみれば問題視せざるを得ないだろう。式場のポルシェ904が決勝レースにぎりぎりで間に合った際も、生沢ら他チームの仲間が準備を手伝っており、メーカー関係者が「敵を手伝うとは!」と反発するのも無理はないかも知れない。生沢らの仲間は揃いの赤いセーターを着て「メーカーの一員である前に、自分たちはプライベートで仲間である」ということを誇示するような態度も取っていた。生沢らの仲間は、端的に言えば金持ちのボンボンの集団であり、何かと反発を買いやすかったのも事実だろう。
生沢に関して言えば、プリンスの他のドライバーや関係者が同僚と相部屋で寝泊まりしているのに一人だけ個室を与えられていたり、チーム全員が同じ食事をとっているのに一人だけ別メニューを用意していたりと、日本人の感覚からすればやや目に余る個人主義を貫いていた(特別扱いされていた)という証言もある。砂子にしてみれば、自分より10歳ほど年下で二輪時代には全くのぺーぺーだった生沢が、四輪ではスター扱いなのが不愉快だったとしても不思議ではないだろう。生沢自身「自分の後から、伊藤史朗、砂子義一、大石秀夫(3人ともヤマハで世界GPに出場していた名ライダー)がプリンスに加入し、二輪では後輩だった自分がタイムが速いのが気に食わないらしく、何かと目の敵にされた」と述べている。これも一例だが、生沢という人物を語る際、周囲の人間との感情の行き違いに関する話題が多いのも否定できないところだ。
GTカー部門ではポルシェだけでなく同僚の砂子にも抜かれて憤懣やるかたない生沢だったが、続くツーリングカー部門ではスカイライン1500で優勝を遂げている。このクラス、生沢は予選から決勝までマシン不調に見舞われ中段に埋もれていたが、決勝途中でエンジンのパワーが回復。先行するプリンスの同僚を次々に抜いて優勝したのだった。生沢によると「砂子がやったのだから、自分も同じことをやったまで。ところがGTカーレースで砂子が自分を抜いたのは問題視されず、ツーリングカーレースで自分が同僚を抜いて優勝したのはなぜか大騒ぎに発展した」と述べている。立場によって意見が食い違うだろうが、生沢が何かと目立つ存在だったのは事実だ。
[編集] 1965年
1965年7月18日、生沢は雨の船橋サーキットにおいて、自分と同い年の友人である 浮谷東次郎と対決。最初はホンダ・S600に乗る生沢がリードしたが、後半戦でトヨタ・スポーツ800の浮谷に大逆転されたレースも広く知られている。『ダイナミック東次郎』と呼ばれた浮谷に花を持たせた格好になったが、直後の鈴鹿レースの練習走行で浮谷が事故に遭い他界したため、生沢が雪辱する機会は永遠に失われた。
この時期の生沢はプリンスの契約ドライバーだったが、ホンダ・S600を自費購入しプライベートでレースに参戦していた。プリンスがワークス参戦するレースは限られており(1965年の日本グランプリは開催されず)、海外レース進出を目標にしていた生沢にしてみれば、なるべく多くのレースで経験を積みたかったのだ。お抱え選手として生沢を見ていたプリンス関係者にしてみれば、あまり面白い話ではないだろう。しかし生沢の能力とスター性が評価されていたためか、前述のように何かとお目こぼしされていたようだ。
ただし生沢が乗っていたS600には、ホンダワークス以外には門外不出のはずの特製パーツが多数装着されており、他のマシンとは段違いに性能が良かったという証言もある。これは生沢が、ホンダ社長の息子である本田博俊と少年時代から友人であったことや、ホンダの開発エンジニアで後に副社長まで上り詰める入交昭一郎らと親しかったためだと言われる(S600のチューンには、入交の誘いで、後にホンダ社長となる川本信彦らも関わっていた)。ワークスドライバーでもない生沢に、会社の財産であり社外秘の固まりでもあるワークスパーツを供給していたことが大問題となり、入交・川本らは懲戒解雇の寸前まで追い詰められたというエピソードがある。
[編集] 1966年
1966年の日本グランプリでは、プリンスが開発したプロトタイプレーシングカー・R380をドライブ。プリンス勢の最大のライバルはドイツの名門ポルシェのレーシングマシン、906カレラ6に乗る滝進太郎だった。生沢は優勝候補の筆頭だったが決勝レースでマシン不調に襲われ、プリンスの同僚ドライバーを先行させる一方で、滝ポルシェを徹底してブロック。最終的に生沢はマシントラブルでリタイヤしてしまうが、その後に追い上げを焦った滝ポルシェは事故で自滅。優勝したのはプリンスの同僚、砂子義一。日本グランプリ後に生沢はプリンスとの契約を解消し、自費で英国F3レースに参戦する道を歩んだ。生沢いわく「プリンスからは“契約したままで英国遠征してもいい”と慰留されたが、それでは自由がきかないから半ば無理を言って契約解消した」。
1966年8月、プリンス自動車は日産自動車と合併(日産がプリンスを吸収したのに近い)。このためワークスドライバーが過剰となってしまった。プリンスを離脱し英国F3参戦を果たした生沢は、日産(および旧プリンスの連合チーム)に「1967年のグランプリに選手として雇ってほしい」と接触。日産からの返事は「契約は可能だがグランプリには出してやれない」というものだった。
[編集] 1967年
生沢は1967年の第4回日本グランプリにプライベート参戦する道を選ぶ。ポルシェクラブ会長だった浮谷洸次郎(浮谷東次郎の父親)の口利きもあって、三和自動車(当時のポルシェ代理店)が所有していたポルシェ906カレラ6(市販レーシングマシン)を駆って出場する道が開けた。その際にブリヂストンタイヤやペプシコーラを個人スポンサーとして獲得しているが、これが日本レース界におけるスポンサーシップの端緒と言われている。アメリカでは既にこういった活動が一般的だったが、ヨーロッパのF1等ではまだスポンサーの存在が表立って語られることは少なかった。生沢のレース活動の仕方がいかに先進的だったかを物語っている。
生沢は出場選手中で唯一2分の壁を切りポールポジションを獲得。日産のエース高橋国光の日産R380-2や、同じカレラ6に乗る酒井正との歴史に残るバトルの末、日産ワークスを下して見事に優勝を果たす。このレース中、高橋に追い付かれた生沢はS字コーナーでスピンしコースアウト。直後に付けていた高橋も巻き込まれる格好でコースアウトし、大きく遅れる結果になった。その後、チェックのために生沢がピットインした際、機転を効かせて燃料を補給したピットクルーが杉江博愛、後の自動車評論家・徳大寺有恒である。生沢と高橋が大きく遅れた後、酒井のカレラ6がトップに立っていたが、生沢はペースを上げて追い付き、何度か酒井と抜き合いを演じる。酒井は生沢を追走している際、難所と言われた30度バンクでコース外に飛び出すという大事故に遭ったのだが、ポルシェの安全性と幸運も手伝って軽傷で済んだ。高橋もハイペースで追い上げていたが生沢には届かず、プライベーターの生沢が優勝を果たした。
有名画家の息子が日本の大メーカーを敵にまわしてグランプリを制したことは、自動車産業が大きく躍進した高度経済成長期の時代背景もあって、社会的な大ニュースになった。生沢は時代を象徴するスターになり、レース専門誌だけではなく「平凡パンチ」などの一般誌にもたびたび登場。有名画家だった父の知名度もあって、自動車レースに興味のない層にまでネームバリューを拡大。以後、生沢をしのぐ社会的スターは、日本のレース界からは誕生していないと言えるかもしれない。
生沢のポルシェカレラ6にはまだレースで十分な実績のないブリヂストンタイヤが装着されていた。日産ワークスは高性能で知られた米ファイヤストン製タイヤを使用していたので、その点での劣勢も明らかだったわけだが、結果は生沢の優勝。これがブリヂストンにとっても大レースで初めての優勝だと言われ、ブリヂストンと生沢は長く良好な関係を保つことになる。しかし両者は1980年代初めに何らかの事情で決裂。生沢(既に引退し自チームを運営)はダンロップと契約する。
プリンスを自己都合で離脱しながら、翌年のグランプリではワークスマシンに乗せてほしいと話を持ちかけるなど、生沢の行動様式は日本人的な“義理人情”や“しがらみ”と無縁だったため、一部で「身勝手」「裏切り者」といった声もあったようだ。その一方で、この第4回日本グランプリ優勝の日の夕方、生沢は日産チームの宿舎を単身で訪問し高橋国光に面会。自分のスピンに巻き込まれ勝てるレースを失った高橋に、丁寧に謝罪したというエピソードもある。生沢のスピンが故意ではなくレーシングアクシデントであることは高橋も十分に理解しており、生沢を責めることはなかったようだ。生沢と高橋は3歳ほどしか違わないが(高橋は1940年1月生まれ)、2輪時代の高橋は日本人として初めて世界GPで優勝するなど、生沢からすれば雲の上の存在だった。生沢は高橋の才能と実力を別格と考えていたふしもあり「あれが高橋さんでなかったらスピンしたときにぶつけられてリタイヤだったろう。高橋さんだから避けてくれた」と述懐している。
生沢は1960年代の全盛期から「自分は才能的には大したことはない」と言い続けてきた。さらに欧州レース参戦の経験から「欧州のドライバーより日本のドライバーが素質として劣っているとは思えない。日本にも才能のあるドライバーは存在する。しかし有能なドライバーもチャンスにかけず国内に留まっているので、いつまでたっても国際水準に成長するだけの経験が積めないのだ」と苦言も呈している。
生沢が才能を認めていたのは、前述の高橋国光や北野元などの二輪世界GP経験者。二輪時代の長谷見昌弘の才能に舌を巻いたこともある。また式場壮吉や福沢幸雄に対しては「坊ちゃんが遊びの感覚でやっている風なのに、あそこまで走れるのはセンスがある証拠」と評価している。後に日本一速い男の異名を取った星野一義には、 i&i設立時に契約の話を持ちかけたが成功していない。もちろん中嶋悟の才能も認めていた。逆に才能を認めていないのが浮谷東次郎で、「浮谷は非常に不器用で、自分や式場壮吉がすぐこなせることを、努力に努力を重ねた末に掴み取る。典型的な努力型」なのだという。自分と同時期に欧州レースに挑戦したドライバーでは桑島正美の才能を絶賛しており「悪い遊びにうつつを抜かさなければF1も乗れるはず」と述べている。一方で風戸裕は「資金に明かせてマシンをどんどん取り替えているだけで才能的には大したことはない」という評価だった。
[編集] ヨーロッパへ
少年時代の生沢の夢は、世界的に有名なイギリスのオートバイレース・マン島TTレースに出場することだった。四輪転向後はF1世界選手権に出場することが目標となった。1966年から生沢はイギリスのF3(F1への登竜門)に参戦。ほとんど何のつてもないまま渡英し、レース出場の手続きにも苦労していたという。1967年からは英国内だけではなく欧州各国を転戦し、1969年までにF3で8回の優勝を記録するなど活躍した。1967年にスウェーデンF3レースで若手時代のロニー・ピーターソンと初対決した際は、生沢の方がピーターソンより明らかに上手だったと言われており、勝ちを焦ったピーターソンが生沢に追突して両者リタイヤに終わっている。レース後にピーターソンは生沢に謝罪したが、これをきっかけに二人は友人となったらしい。
生沢は1970年にF2欧州選手権レースにステップアップし、同年ドイツはホッケンハイムのレースで1ヒート優勝、総合2位という成績を挙げた(これがF2における最高成績)。このレースでの総合優勝は、後にF1でトップドライバーになったクレイ・レガッツォーニ。F2では前述のロニー・ピーターソンや当時新人だったエマーソン・フィッティパルディ、同じくニキ・ラウダら、後のF1を代表するドライバー達を相手にヨーロッパ各国を転戦。F2ではトップクラスのドライバーとして認識されていた。この当時のF2は、グレアム・ヒルやヨッヘン・リントなどのF1のトップドライバーがスターティングマネーを稼ぐため頻繁に参戦しており、競争の度合いは非常に激しかったと言われている。
フォーミュラ以外でも、1967年9月3日に「ニュルブルクリンク500Km」にホンダS800で日本人として初めて参戦してクラス優勝を飾り、1968年7月14日にはFIA世界マニファクチャラーズ選手権 第8戦ワトキンスグレン6時間レースにポルシェ・ワークスチームからポルシェ 908でエントリーし、ハンス・ヘルマン/リチャード・アトウッドと組んで予選4位、決勝6位(チーム最上位)の成績を残している。
当時ニッサンなどの国内メーカーのワークス・ドライバーになるのが、レーシングドライバーたちの目標であった時代に、生沢はプライベート・ドライバーとしてレーシング・ドライバーを職業として成立させようとしたパイオニアであった。しかしプライベート・ドライバー故の資金難やF2のレギュレーション改定の狭間におけるシャーシ、エンジン選択の失敗もあり、ドライバーとして必ずしも成功したとはいえない。'60年代にホンダF1の監督だった中村良夫 (F1)の紹介でジョン・サーティースのチームに資金を持ち込み参加する話もあったが、約束の期日までに資金が振り込まれなかったとして、サーティースが契約を拒否するという一件もあった。生沢いわく、手続きの実務を行う銀行の手違いだったという。結果として生沢はF2からF1へステップアップできず、1973年にヨーロッパでのレース活動を終了している。
生沢以後、中嶋悟や鈴木亜久里などがF1フル参戦ドライバーの座を得たが、自動車メーカーの後押しやバブル景気を背景にしていた面も否定できない。'60年代のホンダF1がそれ以降も活動を継続していれば、生沢が起用されるチャンスもあったのではないか・・・とはよく語られるところである。ほぼ独力で世界の頂点へとチャレンジした生沢の努力は、以後30年以上が経過した現在も超える者がないと言えよう。
[編集] 国内レース
生沢はヨーロッパを拠点にF2やF3に出場していた時期も、日本グランプリなどの主要国内レースには出場。国内でスポンサーマネーを獲得し、その資金でヨーロッパで活動するというのが基本パターンだった。
1968年の日本グランプリには、ドライバーを引退しチームオーナーとなった滝進太郎のタキレーシングから出場。トヨタ、日産、タキの 3チームが優勝候補と言われ「TNT対決」という言葉も生まれた。タキレーシングには生沢のほか、2輪時代には生沢を指導したこともあるベテラン田中健二郎、生沢と同い年のライバル酒井正、若手の長谷見昌弘が起用されており、トヨタや日産の巨大ワークスに劣らない豪華な顔ぶれと言えた。用意されたマシンは大排気量エンジンで圧倒的な速さを持つローラT70Mk3と、ポルシェカレラ 6の発展版と言える910。生沢は一発の速さを持つローラではなく長距離レースに強いポルシェ910をチョイス、田中、酒井、長谷見はローラに乗車した。決勝は5,500ccシボレーエンジン搭載の日産R381に乗る北野元が優勝。田中達のローラがトラブルでリタイヤしていく中、生沢は非力なポルシェで狙い通り最後までサバイバルし2位に入賞している。レース後半は北野R381を上回るペースで、大きなリードを築いて流す北野を一度抜いたのだが(1周遅れだったのが同一周回になった)、勘違いした場内アナウンサーが「生沢がトップ」と叫び観客も大騒ぎを始めたため、日産陣営は「まだ1周のマージンがあるはずだが、万一のこともあるから生沢を抜け」と北野にペースアップの指示を出し抜き返させている。
このタキレーシングでも生沢は周囲に波紋を投げかけていたようだ。後にオーナーの滝は「生沢と酒井は犬猿の仲。チームスポンサーはコカコーラなのに、生沢には個人スポンサーとしてペプシが付いていた」など、心労が絶えなかったことを述懐。最年長の田中健二郎は自著「走り屋一代」の中で「生沢が速いという前評判だったが、同じマシンでタイム計測をしたら最速は長谷見、次が自分だった」というエピソードを披露している。
続く1969年の日本グランプリでも「TNT対決」の図式が続いたが、生沢は出場していない。
1970年の日本グランプリ(JAFグランプリ)では、F1ドライバーのジャッキー・スチュワートらに大変な厚遇がある一方、日本選手には何のサポートもないとして、生沢は晴れの開会式の場で「選手宣誓を拒否します」と宣誓(?)。これも大きな話題となった。この件でJAFは生沢の国内レース活動を禁止する措置を取ったため、窮した生沢は後日JAFに対してわびを入れ、出場禁止を解除してもらっている。
1973年途中でヨーロッパのレースから退いた後は、日本の富士グランドチャンピオンレース(富士GC)とF2(当初はF2000)レースを中心に参戦。F1ドライバーの夢を諦めて以降の生沢は、レース活動を「ホビー」(趣味)と公言し、スペアエンジンも持たないようなギリギリの体制だった。1977年GCタイトルを獲得した際のマシンは、既に3年落ちのGRD-S74だったし、その後も同じマシンを使用し続けていた。そのためなのか、1960年代に日本ナンバーワンレーサーと言われていた頃のような速さは、ほとんど見せることがなくなった。生沢自身「雑誌等に“堕ちた偶像”、“安全運転のテツ”と叩かれた」と自嘲気味に語っている。その間、日本国内レーシングドライバーの選手会長を務めたりもしている。
前述の通り1977年には富士GCチャンピオンとなった。前年1976年の後半から好調だった生沢は、翌シーズンに期するものがあったのか、ようやくスペアエンジンを入手するなど体制を拡充していた。意外なことに、生沢がドライバーとして所持している年間タイトルは、この1977年GCだけである。
一発の速さは若手に譲るようになった(?)生沢も、スタートの巧さには定評があった。予選ではそれほどいい位置にいなくても、スタート直後の第一コーナーに最初に飛び込むのはたいてい生沢だった。1973年の富士GC最終戦では、トップで30度バンクに飛び込んだ生沢がスピンしたため、後続のマシンが逃げ場を失って次々に衝突。中野雅晴がマシン炎上のため焼死するという悲劇もあった。
後輩ドライバーである長谷見昌弘が著書の中で生沢を評し「生沢選手はスタートの巧さに定評があるが、それはスタート位置が後方で、周囲のマシンの動きを観察しながらスタートできるから。たまに最前列からスタートすると、さすがの生沢選手もそれほど見事なスタートは切れない」と述べたことがある。これに対し生沢は自著の中で「彼の説明にも一理あるものの、手を伸ばせば隣のマシンに触れられるほど密集した状態からスタートする欧州のF2やF3の難しさを、彼は実体験していない」と長谷見に反論している。
1977年にFISCOでF1グランプリが開催された際、生沢にも某化粧品メーカー(資生堂だと思われる)から「スポンサーになるのでスポット参戦しないか」というオファーがあったというが、この話は実現しなかった。結局のところ、生沢がF1グランプリレースに出場することは一度もなかった。
現在レースファンや関係者を始め、それ以外の場面でも「たら、れば」(○×だったら、○×していれば、という過去に遡った仮定論)という言葉が広く使用されているが、この言葉をマスコミに対し始めて使用したのは生沢だったという説がある。「レースは結果、結果で判断、レースに“たら、れば”はないよ」と。その割に生沢は雑誌連載などで自分の成績の知られざる背景を事細かに説明することが多く、やや言い訳めいた印象を与える辺りが面白いとも言える。
[編集] チームオーナーへ
生沢は1978年一杯でドライバーとして第一線を退いている。諸説あるが、友人だったF1ドライバーのロニー・ピーターソンが同年シーズン末に事故死したのが、精神的にショックだったという話がある。当時のレース専門誌に「生沢徹のレース用マシンを売ります」という記事が載り、関係者はもちろん一般レースファンの間にも大きな衝撃が走った。
1979年にi&iレーシングディベロップメントを設立。i&iとは、チームオーナー兼監督の生沢と、マシンメンテナンスを担当する伊藤義敦メカニックの名字の頭文字を合わせたもの。伊藤は、1960年代に生沢が欧州F3に出場した際にメカニックを務め、その後F1の名門チームで優秀なメカとして名をはせた人物。ドライバーとしては日本の若手ナンバーワンだった中嶋悟が、それまで所属していたヒーローズレーシング(田中弘(モータースポーツ)が主宰、星野一義がエースとして君臨していた)から移籍してきた。さらに1970年代の国内レースを総なめにした高原敬武も加入。i&iと中嶋は、チーム設立初年度に富士GCチャンピオンを獲得した。チーム設立時、生沢が契約ドライバーに禁酒禁煙を申し渡したのも話題になった。
1981年からはホンダからF2用ワークスエンジンの供給を日本でただ一チーム受けることになり、1981年、1982年に全日本F2選手権を連覇する。1982年には中嶋と欧州F2にスポット参戦。雨に見舞われた初戦で2位入賞を果たしている。1983年は中嶋悟が脱退したため、1981年度欧州F2シリーズチャンプのジェフ・リースと契約し、全日本F2選手権を獲得。チームとしては3連覇を達成した。
それまで日本国内のチームが年間を通して海外ドライバーと契約する例はほとんどなかった。生沢とリースとのジョイントが成功を収めた後には、F1ステップアップ直前の若手海外ドライバーが日本レース界に参戦するのが当然のことになっていく。これも生沢ならではの先進性がもたらした変革だったと言えよう。
また1982年からはJPSタバコがi&i(F2)のスポンサーに付き、 JPSトロフィーという名の冠レースも開催。F1のチーム・ロータスのスポンサーで、世界的な有名ブランドであるJPSが日本のF2チームもサポートするとあって、これも大きな話題を呼んだ。
ただしi&iレーシングの経済状況は決して良好ではなかったようだ。中嶋が後に明らかにしたところによると、当初の契約金は年間わずか200万円。他チームがスポンサーからスペシャルガソリンを特別供給されていたのに対し、i&iはサーキットのパドックのガソリンスタンドで誰でも買えるガソリンを使用。1982年の欧州遠征時も生沢が金策に走り回っていて監督業どころではなかったなど、外から見たイメージとは大幅に異なる内情を語っている。国内 F2で連覇していた当時も、他チームが毎シーズンの最初から新型マシンを使用するのに対し、i&iは年頭の1〜2戦は前年度の旧型マシンでしのぎ、その後に新型を投入するというパターンが続いた。生沢は「新型が熟成した段階で実戦投入するという作戦」と説明していたが、単に資金が不足気味でシーズン前に新型を買えないだけではないか・・・との見方もあったようだ。こうした事情に加え、生沢と中嶋が人間的にも決裂したのが、1983年の中嶋脱退→自己チーム結成の原因だったらしい。
後に中嶋はロータス・ホンダでF1レギュラーの座を得る訳だが(1987年)、その話が決定した際に真っ先に祝福の電話をかけてきたのは生沢だったという。
1983年のF2レースのスタート直後、生沢チームのジェフ・リースがスピンしたためレースが赤旗中断となり、主催者が再スタートを宣する場面があった。これに中嶋悟、星野一義、松本恵二というトップドライバー(と所属チーム)が反発し、3選手がレースをボイコットするという事件が発生する。ボイコット側の言い分は「リースはその後にコース係員の手助けを受けてコース復帰しており、赤旗中断するほどの状態ではない。ドライバーはスタートに命をかけており、簡単に再スタートを命じるのはドライバーに対し非礼の極み。そして赤旗の原因を作ったリースが、最初と同じ予選位置から再スタートするのは納得できない」というものだった。レース主催者側と赤旗の原因になった生沢チームと、両方への不満表明だったわけだ。これに対し生沢は「赤旗中断にしろコース復帰にしろ同ポジションからのスタートにしろ、レースの規則にそったもの」と発言。このクールな態度が前記3選手側の怒りに、さらに火を付けた面もあるようだ。立場によって見方はいろいろだが、某レースジャーナリストが「この騒動の一部始終を見て最も気になったのは、ほとんど全員が単なる感情論をぶつけ合うだけだったこと。規則に基づいた論理的な態度を貫いたのは、生沢ただ一人だった」と述べているのは注目すべきかも知れない。
生沢はル・マン24時間レース参戦に関しても、1973年に日本人チーム・シグマ(現 SARD)のドライバーとして初参戦して以来、1979年にマツダRX-7で、そして1980年にポルシェ935ターボで出場するなどのキャリアを持ち、一時は日本人ドライバーで最も多くのル・マン参戦歴を持っていた。1990年にはニッサンの世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)チームの監督を務めた。
なお、1989年には2輪レースの鈴鹿8時間耐久ロードレースにホンダ系のワークスチームBEAMS HONDA with IKUZAWA(ドミニク・サロン/アレックス・ビエラ組 ホンダRVF750)を率いて参戦し、優勝している。現役の四輪レーサーだった時期も、生沢は趣味としてオートバイに乗り続けていたが、1980年代の半ばに自己のオートバイショップ“TEAM IKUZAWA”を東京世田谷にオープン。ホンダ販売店として看板を掲げる一方、イギリスなどのビンテージオートバイを輸入販売し、自らもビンテージレースに出場し話題を呼んだ。1980年代後半にはイギリスの2輪フレームメーカーであるハリスと組み、ホンダ製の単気筒エンジンを搭載したオリジナルマシン“IKUZAWA TH-1”を製造。マン島TTレースを始め国内外のレースに出場させたほか、少量を一般販売したこともある。
ドライバーとしてF1には進出できなかったが、チームオーナーとして参戦したいという意向はあったらしい。日本でF1ブームが加熱していた1990年前後、各所から資金を集めF1チームを結成するという計画を発表したこともあったが、これは実現していない。
[編集] 現在
その後は俳優の堺正章とともにイタリアのミッレミリアに参戦するなど、クラシックカーレースへの参戦や、自転車のダウンヒル競技チームを率いながらブレーキメーカーのアドバイザーを務める等、多分野で活躍している。 2000年6月にはニュルブルクリンク24時間耐久レースにホンダS2000チームの一員として参戦し、総合32位・クラス優勝を飾り、そのテクニックに衰えがないことを示した。