田中健二郎
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田中 健二郎(たなか けんじろう、1934年1月3日 - )は、日本の元オートレース選手、レーシングライダー、レーシングドライバー。福岡県出身。
[編集] 略歴
1950年代よりオートレース選手として活躍。「逆ハンの健二郎」の異名を取る人気ライダーだった。しかし1957年9月26日に川口オートレース場で発生した騒擾事件を発端とする八百長事件に関与していたとされ、オートレース界から事実上追放された。
その後ホンダのワークスチームに加入。浅間火山レースなどで活躍した後、1959年に125ccクラスでロードレース世界選手権(WGP)デビューする。1960年には250ccクラスでの初レースとなった西ドイツGP(ゾリチュード)で、日本人としては初めての表彰台(3位以内入賞)であり、ホンダとしても初めての表彰台を獲得する。田中の直弟子と言える高橋国光は、「自分は世界の舞台でどう走っていいか分からず茫然自失の状態だった。海外のチャンピオンに混じって3位に入った健二郎さんは天才」と絶賛している。ただし西ドイツGPの直後のアルスターGPで転倒し、足に重傷を負い長期療養を余儀なくされる。結果として、これがきっかけでレーシングライダーとしては引退することになった。
自著「走り屋一代」によれば、アルスターGPでの事故はマシントラブル(ミッション焼き付き)が原因だという。脚を切断する寸前まで追い詰められ、身体障害者にさせられたとして、同書の中で田中はホンダの責任を明確に指摘している。
ただしレーサー名義の書籍によくあるように、同書は出版元である八重洲出版の記者・橋本茂春がゴーストライターを務めたらしい。同書の中に、アルスターの事故で入院中、青い目の看護婦が病床の田中を性的に慰める場面が登場するが、それは橋本によるフィクションのようだ。とはいえ田中の破天荒で痛快な生き方や、人間としての本音、メーカーや選手達への苦言などが率直かつ赤裸々につづられており、日本のモータースポーツ関係の書籍で同書を超えるものは未だに登場していないと言えるかも知れない。
アルスターGPの事故の影響で主戦ライダーを引退した後は、ホンダのワークスライダーのコーチ役を務める。これは「健二郎学校」と呼ばれ、生沢徹などの名レーサーを産むことになった。1960年代のホンダ系ライダーのほとんどは「健二郎学校」出身であるため、2輪レース界の多くの人材は、田中の直接もしくは間接の弟子と表現することも可能だ。
1964年に日産自動車のワークスチームである追浜ワークスへ移籍して本格的に4輪のレースへ転向。ブルーバードなどでいぶし銀の走りを披露する。その後にフリーになりタキ・レーシングなどに所属したり、自己のチームを主宰したりする。主に日本グランプリを始めとする国内レースで活躍した後、1970年代初頭、加齢による視力の衰えなどを自覚して現役を引退。
ドライバーを引退後はレース解説者に転身。テレビ中継や雑誌記事などで、辛口の批評を展開する。高橋国光、北野元、黒沢元治など当時の主だったドライバーはほぼ全て弟子筋であるため、歯に衣着せぬ本音を言えるのが田中ならではの魅力だった。1974年に発生し二人のドライバーが落命した富士グランドチャンピオンレースでの大事故も、関わったドライバーの心理的背景にまで踏み込んだ解析を行っている。辛口批評はレース主催者や、その上のレース統括団体にまで及び、ドライバーの権利や安全についての直言も多かった。
日本モータースポーツ史上最大の奇書「走り屋一代」も含め、日本レース界を語る上で忘れてはいけない人物である。
[編集] 書籍
- 「走り屋一代」田中健二郎著(1969年、八重洲出版)