水野忠政
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水野 忠政(みずの ただまさ、明応2年(1493年)- 天文12年7月12日(1543年8月22日))は、戦国時代の武将。幼名は牛息丸、通称「藤七郎」で、初め「妙茂(ただもと)」を名乗ったとされる他、「右衛門大夫」および「下野守」を称した。
徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の父であり、江戸時代に成立した水野諸家および徳川家の祖にあたる。
はじめ尾張国の緒川城(愛知県東浦町)を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築き、これを本拠とした。織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。
墓所は愛知県東浦町緒川字沙弥田の乾坤院。法名は長江院殿大渓堅雄大居士。
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[編集] 忠政の子
「寛政重修諸家譜」(以下「寛政譜」)が掲げるのは次の9男6女である。記載の順に示す。
1. 近守 藤九郎 和泉守 ?-1556年 2. 信元 藤七郎 四郎衛門 下野守 ?-1576年(注1) 3.女 松平家広の妻 ?-1597年(注2) 4.三男 信近 藤四郎 藤九郎 1525年-1560年 5.四男 忠守 清六郎 織部 1525年-1600年 6.女 於大の方 1528年-1602年 7.女 石川清兼の妻 8.女 水野豊信の妻 9.五男 近信(忠近) 伝兵衛 ?-1602年 10. 忠勝 弥平大夫 ?-1568年 11. 某 (藤助) ?-1584年(注3) 12.女 中山勝時の妻 13.女 水野大膳亮忠守の妻 14.八男 忠分(ただちか) 藤次郎 1537年-1579年(注4) 15.九男 忠重 藤十郎 惣兵衛 和泉守 1541年-1600年
- 「近守」および「信元」の長子、次子の区別は明記されていない。没年の記載はあるが生年の逆算は不能。また、「近守」については、弘治2年(1556年)3月20日「父にさきだちて死す」とあるが、これは天文12年(1543年)を没年とする「忠政」の記述と矛盾する。「刈谷市史」(第二巻、1994年)は、両者は父子ではないとする。
- 三男「信近」は永禄3年(1560年)4月19日に岡部長教(岡部元信)の攻撃を受け、刈谷城にて36才で戦死。法名・了輝。数え年として逆算できる生年は1525年で、四男忠守と同じである(1600年に76歳で死去)。
- 「新編 東浦町誌 資料編3」(2003年)所収の「水野氏法名一覧」(寛政12年)には、忠守が「長江院殿堅雄」(忠政)の三男となっている。だだし、ここでは「近守」を忠政の子としており、これを否定する「刈谷市史」の立場とは、その理由を異にする(注5)。
子は「信政」(元茂。叔父信元の養子となり、天正3年、養父と共に殺害される。「寛政譜」新訂6巻37項によると、その母は「佐治氏」であるという)、「但馬守・某」、「次郎左衛門某」、新右衛門「信行」(妙勝。法名・善心。信元に仕える)、「村瀬左馬助重治の妻」。いずれも生没年不詳である。また新右衛門「信行」の子、新右衛門「信常」の妻は久松俊勝の娘で、またその間に生まれた子が将監「信村」であると記されている(同64項)。しかし「信常」(1550年生まれ)を信近の孫とするのは、その生年からみて明らかにおかしい。また久松家の系譜にはそのような記述はない(新訂17巻315項)。
- 「信近」戦死の際、ともに刈谷城にいた五男「近信」が負傷し、これが原因で障害を負ったが、家康の関東入封後知行500石を与えられた。慶長7年8月9日(1600年9月15日)刈谷にて死去。墓所は「信近」と同じく、愛知県刈谷市天王町6-7の楞厳寺。法名・宗白。子は伝右衛門「近之」(寛永20・1643年卒)、「多門平兵衛信正の妻」、「松平加賀右衛門正次の妻」。また子孫は江戸旗本となっている。
- 「石川清兼の妻」は妙春尼(妙西尼)と呼ばれる。永禄5・1562年(「三河物語」)より始まった「三河一向一揆」の後に、本願寺派教団の「仏法之肝煎」として、門徒の赦免と西三河への寺僧の環住(天正13・1585年)がなされるまで、その指導的立場にあったと推測されている(「新編岡崎市史2」829項)。現存する文書から、石川清兼の後室で、また日向守「家成」(天文3・1534年生まれ)の実母とも考られるが(注)、だとすると1528年生まれの於大の方の妹ではあり得ない(「新編岡崎市史20」383項)。徳川家康の出生は天文11年で、於大の方はこの時数え14才。これ以下の年齢での出産を不可能とみなせば、妙春尼は於大の方より8つ以上年上ということになる。慶長3年(1598年)2月4日没。法名・芳春院妙西。墓所は岡崎市美合町平地50の本宗寺。
注「新編岡崎市史6」所収、542-544項「上宮寺文書」29および31。「後室」とは妙春尼のことだと考えられる。また1194項「本派本願寺文書」7の家康朱印状。宛先は「ひうかのかみははかた」。「寛政譜」新訂3巻3項の記述も同旨。
- 「水野豊信」(藤右衛門。慶長3・1598年卒)とその子孫についての記述が「寛政譜」新訂6巻118項以下にある。それによると「豊信」は、家康に仕え、関東移封に付き従い、武蔵国豊嶋郡に知行210石を与えられたという。子孫は江戸旗本となっている。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺。「織田信雄分限帳」のなかに「水野藤右衛門」の名があり、知多郡吉川郷(愛知県大府市)に200貫文と記されているが、これを同一人物と考えてよいのか判断に苦しむ。「寛政譜」によればその享年を、はじめ87才、のちに81才につくるとしており、生年は1512年もしくは1518年ということになる。しかし、仮に1518年の生まれであったとしても、天正13年(1585年)頃と推定される「分限帳」作成時には、既に家督を譲っていたと考えねばならない。また通称として藤右衛門、三郎九郎、平右衛門の3つを挙げており、呈譜の際に混乱があったことを感じさせる。当時としてかなりの長寿であることも不審である。「寛政譜」新訂6巻103項にあらわれる天文14・1545年生まれの「正重」(太郎作「清久」。「傍系血族」の項を参照)の叔父、三郎九郎「治重」の子に、忠政の娘を妻とした「平右衛門」なる人物がいて、その没年が慶長3年であった、ということも考えられる。この父子の事跡が混同され「豊信」なる人物が作られたのではなかろうか。その息子であるという孫助「信久」(慶長8・1602年卒、51才)の母が忠政の娘と明記してあるのは(同118項)少なくともこのことは明確だったからであろう。
- 「中山勝時の妻」の生没年の記載が前掲「刈谷市史」第二巻の64項にあり、それによると没年は寛永21年(1644年)だという。しかし末子「忠重」ですら1541年生まれであって、この間100年以上の開きがある。「士林泝洄」36巻丁ノ二に「信元」の娘としてあらわれる「大崎七郎右衛門の妻」(法名「栄寿院転誉清心尼」となっている)の没年が誤記された可能性がある。
- この表では末の娘となる女性が嫁いだのは、四男の「忠守」(織部)ではないこともちろんである。「寛政譜」記載の大膳亮「忠守」とは、かつて大高城(名古屋市緑区大高町城山)主であった「大高水野家」(水野大膳家)の「忠守」である。ただ、「大膳家」が本拠とした「大高城」とは、現在の愛知県武豊町東大高周辺を城邑域とする富貴城(主郭の跡は武豊町富貴字郷北。名古屋市大高町より20km以上南の知多半島東岸)である、との説がある。また、忠政の娘との婚姻そのものを否定する立場もある(「刈谷市史」)。大膳亮「忠守」と、その妻とされる女性は、共に生没年が不明であるが、因みに、大膳亮「忠守」の子「正勝」の生年を寛政譜の記述から逆算すると1505年となる。忠政の生年が1493年であるから、その娘の実子でないことは確かである。寛政譜には「正勝」の生母の記述はない(6巻110および112項)。
- 注1.旧暦天正3年12月27日は1575年ではなく、1576年1月にあたる。
- 注2.「松平家広の妻」は「於上の方」(於丈の方)と呼ばれている。松平家広に嫁ぐ前の、最初の夫はかつての緒川城主で、天文2年(1533年)に緒川の地で「生害」したとされる水野成清(常陸介成清)であり、間にもうけた子が水野長勝(石見守)であるという(「寛政譜」6巻34項および6巻116項)。「寄居町史 近世資料編」(1983年)所収(530項)の「昌国寺文書」227(文久3年4月)に「水野石見守長勝母、水野右衛門大夫忠政嫡女」として、慶長2年(1597年)5月5日卒とある。法名は「覚法院殿月貞妙心大姉」で、「伝通院の姉」とされている。墓所は埼玉県寄居町赤浜915の昌国寺。(ただし、「忠政」-「信元」=「忠重」を嫡流とする、水野勝成に始まる福山・結城水野家の家譜では、「於上の方」が松平家広以前に婚姻していたことが認められないという。)
寄居町赤浜(男衾地区)では、現在でも「於丈の方」を「形ノ原様」(ギョウノハラ様)と言い伝えており、これは方が形原松平家広の室であったことに由来するものであろう。また、江戸開幕前の領国支配において「北からの備え」として重要地点であったこの地に、親族である長勝を配したのもごく自然なことと思われる。
新訂「寛政譜」はその6巻116項で、天文2年3月24日に「戦死」もしくは「生害」した緒川城主、「成清」と、その父水野成政(水野藤助。尾張国平島城主。城跡は愛知県東海市荒尾町金山周辺)を取り上げ、「寛永諸家系図伝」清和源氏満政流「水野-坤」では「水野藤助」を忠政の兄として扱う。乾坤院文書の「水野氏嫡流略系図」(前掲「東浦町誌 資料編3」513項)では、藤助「成政」-「成清」-「長勝」の系統(水野石見守家)を嫡流とする。また、結城水野家とのあいだに、嫡庶についての争いがあったことが認められる(「寛政譜」6巻35項および116項)。
- 注3.「藤助」については「母は某氏」として「忠守」「於大の方」「近信」と母を違えること以外の記述がないが、前掲の「水野氏法名一覧」に、天正2年(12年の誤記と思われる。よって1584年)4月9日に「於尾州長久手戦死」とある。しかし忠政の死から31年が経過しており、「一室全法信士」というのは30代の戒名としては不自然である。ちなみに「常滑水野家」監物守隆の子、「新七」がこの戦いに参加し、15歳で亡くなっている(「士林泝洄」36巻丁ノ二)。また「刈谷市史」第二巻の64項では天正2年を没年としている。
- 注4.旧暦天正6年12月8日は1578年ではなく1579年1月にあたる。
- 注5.この「法名一覧」では、「近守」と没年が一致する「春河全芳」が「右衛門大夫御子」となっている。また「右衛門大夫」を忠政の呼称としてのみ用いている。
[編集] 妻および子供たちの生母について
「寛政譜」がその出自を示すのは次の2名である。
1. 松平昌安(信貞)の娘
- 「信元」「松平家広の妻」の母。「死別」ではなく「離婚」となっている。
2. 大河内元網の養女
- 「於富の方」(華陽院)として知られる。「継室」とされている。「忠守」「於大の方」「近信」にくわえて「忠分」「忠重」の母とする。しかし伝えられている松平清康(1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる「忠分」「忠重」の母ではありえない。
「水野氏法名一覧」の中に次の2名が記されている。
3. 三昭貞富禅定尼
4. 本樹院殿栄岩宗盛大姉
- 「水野和泉守殿之母」。没年は天正15年(1587年)6月13日。「水野藤九郎」がその名を見せる、永正13年(1516年)の記述(柴屋軒宗長「宇津山記」)から71年経過しており、水野藤九郎=和泉守近守の母ではありえない。ここでの「水野和泉守」は「忠重」であり、「栄岩宗盛」がその母である。
以上、冒頭の2名の妻と、その他「某」とされる者を含め、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。
[編集] 父祖、兄弟、および傍系血族
「寛永諸家系図伝」(以下「寛永系図」)では、水野氏を称してのち、貞守に至るまでを「この間数代中絶」としていた。「寛政譜」ではその5代の名を記しているが、貞守が緒川の地を支配し、また小川氏の末裔を称するに至った経緯は明らかではない。 加えて、小河水野家初代「貞守」から忠政らに至る4世代の関係を示す系譜も混乱している。
小河水野氏は次の3つに分けられる。「寛政譜」では以下のごとくである。
緒川水野家(宗家)
1.貞守 九郎次郎 十郎左衛門 蔵人 長享元(1487年)5月18日卒、法名・玄室全通 年51 1.賢正(かたまさ) 彦三郎 藤七郎 蔵人 永正11(1514年)10月3日卒、法名・宝幢賢勝 1.清忠(信政) 重政 蔵人 下野守 永正6(1509年)5月29日卒、法名・一初全妙(注1) 1.清重 左近大夫 2.忠政(妙茂) 藤七郎 下野守 右衛門大夫 3.元興(邦重) 藤七郎 家康に仕える 元亀2(1571年)12月22日卒(注2)法名・正念 年25 4.女 (松平信忠の妻) 5.女 (奥平貞勝の妻)
「寛永系図」も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。但し「清忠」の没年の記載がない。 「士林泝洄」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。
- 注1.および注2.「元興」の没年は「寛政譜」新訂6巻106項に示されているが、逆算すると生年は1547年となり、「清忠」の没年と矛盾する。
「元興」の没年は「寛永系図」にも同様の記述があるため、「寛政譜」は「清忠」の没年を「うたがうべし」として本文に載せず、その但し書の中で、編纂時に提出された系図に欠落があるか、或いは「元興」の年齢を誤ったのではないかとしている(同33項)。もっとも「元亀2年12月22日」は元亀3年(1572年)12月22日の誤りであろう。これは「三方ヶ原の戦い」と日付が一致し、また「水野家法名一覧」に「安光正全禅定門、行年廿五実名邦重」とあるのに加えて、同日「仙道玄寿信士。水野左京進、於遠州浜松合戦討死」とあることとも符合する。三方ヶ原の戦いには信元と袂を分けて家康に仕えた忠重らが参加しており、同じく家康の配下となった「元興」がこの戦いで亡くなったとする見方もできる。
「寛永系図・水野-坤」で忠政の兄弟とされた「藤助」(水野成政)は「寛政譜」6巻33項には現れず、代わりに「清忠が長男」として左近大夫「清重」という人物が登場する。以下の系譜は103項に示される。
1.清重 1.某 三河鷲塚に蟄居 2.治重 三郎九郎 3.清信 左近。某年討死、29才 4.元定 大學
「清信」の子「正重」は「寛永系図」に「清久」として現れる。通称、太郎作もしくは左近。「寛政譜」によれば天文14・1545年生まれ、桶狭間の戦いの後家康に仕えて軍功を示し、慶長7・1602年に1000石を与えられて旗本になるという。実際は信元に仕え、その死後、家康の御家人となったようである。「松平記」にその名をみせる他、この人物の覚書(水野左近覚書。「水野記」巻十五)の内容が「武徳編年集成」や「寛政譜」の記事として用いられている。宗家は嗣子なく絶家となるが分家に紀州藩に仕えた子孫がいる。また「元定」子孫は、その経緯は不明としながらも水野を名乗って江戸旗本となっている(「重定」に始まって「穠喜」「穠久」「穠延」等の名前がみえる)。
3.元興(邦重) 1.元教 彦三郎
「元興」については先に述べたとうり。その子「元教」の妻は水野信元の娘で、信元殺害後は尾張・知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768年)徳川家治の時代に旗本となっている。
忠政の兄とされる「水野成政」の系譜(水野石見守家)である。「寛政譜」(6巻116項)と「新編 東浦町誌 資料編3」所収の乾坤院所蔵水野系図「水野氏嫡流略系図」および「石見守水野氏御系図」による。
0.某 水野藤助成政 尾州平島城主 大永2(1522年)9月16日卒 法名・鐵肝栄心 1.某 水野常陸介成清 緒川城主 天文2(1533年)3月24日 緒川にて「生害」 妻は忠政の女 法名・孝山励忠 1.長勝 水野石見守 母は忠政の女 慶長14年(1609年)11月3日卒 法名・寿光浄圓 2.女(荒川十郎大夫某の妻)
長勝は、父「生害」の時2歳。母と共に刈谷へ逃れるが、母が松平家広に再婚するにあたり形原へ同行、家広の養育を受けるという。のち信長に仕えて「石ヶ瀬の戦い」に参加。信長の死後は北条氏政に仕え、小田原の役では鉢形城主北条氏邦の配下となっていた。北条氏滅亡後、天正19年に家康に仕えて武蔵国男衾郡に800石を与えられる。慶長7年伏見城番、同9年従五位下石見守となる。慶長14年伏見にて死去。78歳。
長勝の子忠貞が近畿8国の奉行職を務め5000石、その子忠顯は大番頭で6000石を与えられて、従五位下に叙任されているが、これは結城水野と同じく、水野嫡流を称する家だったからであろう。
常滑水野家(監物家)
1.政祖(まさもと) 半左衛門 河内守 貞守の次男 1.忠綱 監物 常滑城主 享禄2(1529年)7月23日卒、法名・全勝 1.某 山城守 大和守 常滑城主 某年死す 法名・花鴎 1.守次(守隆) 監物 慶長3(1598年)4月21日卒、法名・雲室全慶 落城の後、嵯峨に住す。妻は水野信元の女。墓所は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68天龍寺 妙智院。 1.某 (新七) 天正12(1584年)小牧の役にて戦死 2.守信 半左衛門 河内守 寛永13年12月22日(1637年1月)卒、年60 家康に仕え、関ヶ原の戦いの後に長崎奉行、次いで大坂と堺の町奉行を勤め、寛永9年より大目付。 後5000石となる。法名・全叟宗完。
居城は常滑城(愛知県常滑市山方町)で、忠綱およびその子の墓所は同市山方町5-106の天沢院である。「政祖」の名がみえるのは「寛政譜」のみ。「寛永系図」の「水野-坤」では「某・山城守・法名花鴎」-「守次・監物」とするが、忠政との関係は明らかではない。また「士林泝洄」巻36(注)は「某・大和守・常滑城主」-「某・大和守」-「守隆・監物」とし「某・大和守・常滑城主」を忠政の兄弟とする。但しこれが「寛政譜」にいう監物「忠綱」のことなのか明らかではない。
- 注 但しこの巻は水野忠守の子、右馬允「守信」から分かれた「藤兵衛家」の呈譜によるもの。尾張藩士水野家の中ではこの地と関わりが深く、また後に寺社奉行として「士林泝洄」編纂にも関わる家であるが、常滑水野家と直系になる訳ではない。また、この時点(享保末・1730年頃)で、過去の常滑「監物」水野家の家伝を残しているものは皆無であったと考えられる。
子孫は、河内守「守信」が「半左衛門」を名乗って旗本となり、戦死した「新七」の後には「信元」の孫が養子に入って尾張藩士となっている。守信の墓所は父「守隆」と同じ京都・天龍寺の「永明院」(同町60)、養子にはいった八郎衛門(あるいは新七郎)「保雅」のそれは常滑市社辺64の総心寺である。
- 「保雅」の実母は水野信元の娘で法名「栄寿院転誉清心」(あるいは「博誉清心」)、養母も同じく信元の娘「向陽院花影総心」であるという(「士林泝洄」巻36および瀧田英二「常滑史話索隠」私家版、1965年。常滑市図書館他で所蔵)。花影総心は監物「守隆」の妻で、守隆の死後薙髪して「総心」と号し、のち熱田(名古屋市熱田区)に屋敷を構えたという(前掲書162および163項。同様の記述が「張州雑志」復刻1巻650項にある)。
- 「士林泝洄」巻36「水野」は、「総心」の養子となった八郎右衛門「某」の母を「信元」の娘とし、同時に「中山五郎左衛門」の子であるとする(名古屋市蓬左文庫所蔵本「藩士名寄」稿本版122‐125巻126項の記述も同様)。他方「士林泝洄」巻69「大崎」によると「信元」の娘を妻とした「大崎七郎右衛門」昌好(元和6・1620年卒)の下に八郎右衛門「保雅」(承応1・1652年卒)をかけている。その姓を「水野」と明記しており、養子となったのはこの「保雅」と考えられる(前掲「張州雑志」に同趣旨の記述あり)。しかし彼が昌好の実子であるのかどうかは記されていない。
- 「転誉清心」は「中山勝時の妻」(忠政の娘)の法名で、「保雅」生母は「花岳春栄信女」であるとする中山家旧記があり、これを基にして書かれた著作「尾張中山氏系譜 推敲 上巻」(中山文夫著。私家版、1987年)がある。ここでは「信元」の娘が「保雅」出生の後に「大崎七郎右衛門」の妻となったとしている。いずれにせよ「保雅」が信元の孫にあたるという点では変わりがない。また「士林泝洄」巻36「水野」にいう「中山五郎左衛門」とは、中山勝時の長子と推定される「五郎左衛門某」(「寛政譜」新訂12巻238項)と考えるのが自然であろう。前掲「尾張中山氏系譜」では、中山氏に引き取られて養育を受けた「保雅」が「常滑水野家」に再養子したのではないかとしている。
大高水野家(大膳家)
1.為善 大膳 養月斎 貞守の弟 文明年中より大高城に住し、兄に属す。 1.近守 藤二郎もしくは藤十郎 2.忠守 紀次郎 大膳亮 1.吉守 大膳亮 永禄6年三河一向一揆との戦いに参加し、家康より知行3300石を得る。妻は水野信元の女。 1.正長 大膳大夫もしくは大膳亮 信長、家康と仕えて大高に居城。関ヶ原の戦いに参加するも、負傷。傷が癒えずに死す。 2.女(水野善兵衛宗勝の妻) 2.正勝 (忠勝) 藤太郎 長左衛門 天正9(1581年)3月19日卒、年77 大膳忠守の次男。信長に仕える。 1.宗勝 藤太郎 善兵衛 元和2(1616年)1月29日卒 織田信雄に仕えて後、小田原の役において家康の旗下となり、500石を与えられる。
居城は大高城とされているが、これが名古屋市緑区の「大高城」と、武豊町の富貴城のどちらを指すのか明らかでないこと、また、「大膳亮忠守」と忠政の娘との婚姻を否定する立場があることは、さきに述べたとうり。「寛永系図・水野-坤」では「正長」および「正勝」(1505年-1581年)とその子孫を示すのみで、忠政との関係は示されていない。また子孫に尾張藩士家がなく、それゆえ「士林泝洄」に大高水野家があらわれることはない。大膳亮忠守の二人の子「吉守」と「正勝」の末裔はいずれも旗本家となっている。
- 「信長公記」天正5年(1577年)雑賀攻めの記事に「大膳」が登場する。正勝の生年が1505年であるから、その兄と推定される「吉守」であるとは考えにくい。その子「正長」とみるのが自然であろう。「織田信雄分限帳」(天正13・1583年)に現われる「大膳」も同様である。信長の死後家康に仕えて大高に居城したとの「寛政譜」の記述にも符号する。