水野忠守
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水野 忠守(みずの ただもり、大永5年(1525年)-慶長5年3月28日(1600年5月10日))は戦国時代の武将。 尾張国知多郡北部および三河国西部の碧海郡を支配地域とした小河水野氏の当主、水野忠政の4男。初め忠義、通称は清六郎で、また織部を称した。徳川家康の生母於大の方とは父母を同じくする兄弟であり、また大名家となった岡崎-唐津-山形水野家の祖である。
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[編集] 経歴
兄水野信元と共に織田信長に仕え、信元が父水野忠政の跡を継いで刈谷城主となった後は、信元に代わって緒川城主となった。信元存命中は同じ一族として行動をともにしていたと考えられるが、天正3年の信元殺害の後の所在は不明である。一族と家臣が離散する中で、信元亡き後の水野家当主として緒川(愛知県東浦町)の地にとどまっていたとする考えもある。天正8年(1580年)に、末弟の水野忠重が刈谷を与えられて、旧領に復した際には、忠重を惣領とし、自らは緒川城を居所としていたらしい。その後「ゆへありて」(寛政譜新訂6巻70項)緒川城を退去したとされるが、その時期や理由は不明である。信長の死後、忠重は織田信雄の配下となって小牧・長久手の戦い(天正12・1584年)に参加したが、忠守に関しては伝承が残っていない。当時数え年60であったことを考えれば、前線の指揮をとることがなかったという見方もできようし、また、元来兵糧の調達や兵員の確保など、後方支援に秀でた人物であったとも考えられる。その後、忠重もまた「ゆへありて」(同36項)豊臣秀吉に仕えることとなるが、あるいはこの際、秀吉の家臣となるのを拒み、忠重の元を離れたとの見方もできる。
緒川の地を去ると同時に徳川家康に仕え、天正18年(1590年)の家康の関東移封に際して相模国玉縄城主となった。
天正4年(1576年)生まれの子、水野忠元は幼少から徳川秀忠に仕え、はじめ相模国に采地を与えられたが、忠守はその相模・沼目郷(伊勢原市)に隠居し、慶長5年に76才で亡くなった。
- 忠政4男とするのは「寛政重修諸家譜」(新訂6巻70項)に拠るもの。他方、水野近守は忠政の子ではないとする考えがあり、これに従えば、忠守は水野忠政の3男ということになる。
[編集] 忠守の子
- 「吉守」 金蔵。はじめ松平忠吉に仕え、のち徳川義直に仕えて1000石を与えられる。尾張藩士家。
- 次男「守重」 多宮。旗本。別家3代「守美」は徳川綱吉に仕え、大目付。正徳3年(1713年)に勘定奉行となり知行1400石を与えられる。従五位下伯耆守。守美の弟守満の次男は宗家8代・唐津藩主「忠任」である。
- (宗家)「忠元」 監物、従五位下。3万5000石を与えられて下総国山川藩初代藩主となる。以後の当主は、2代「忠善」(駿河田中藩および三河吉田藩4万5000石を経て正保2年・1645年に岡崎藩5万石)、5代「忠之」(同6万石、老中)、8代「忠任」(宝暦12年・1762年に唐津藩6万石)、11代「忠邦」(文化14年・1817年に浜松藩7万石、のち老中職、弘化2年・1845年山形藩5万石に移封)12代「忠精」(同5万石、老中)など。
- 右馬允「守信」 松平忠吉に仕え、その死後、尾張藩士となって1000石を与えられる。妻は河和水野氏。初め戸田姓を名乗り、のち水野に復した。本家(金兵衛)は刃傷事件により絶家となるが、別家として、宗家に仕えた家(三郎右衛門)と、尾張藩士として存続した家(藤兵衛)がある。また藩主徳川義直の命により野間大坊(大御堂寺大坊)住職はこの家系、もしくは「守信」の妻の実家、河和水野家(惣右衛門もしくは内蔵助)から出すことになっていた。
- 「重家」 旗本。2代「元重」は寛文4年(1664年)に1700石となる。宝暦8年(1758年)絶家。
- 「元吉」 旗本。寛文4年に750石を与えられる。2代「元正」は天和2年(1682年)に1450石となる。
出典
- 新訂「寛政重修諸家譜」6巻70および71項、同6巻77から82項
- 「新訂東浦町誌 資料編3」所収「士林泝洄」36巻丁ノ二および「大御堂寺所蔵水野系図」
- 「野間町史」(1955年)復刻2001年判、所収「野間大坊水野家ヨリ住職累系」
[編集] 天正3年から18年までの経歴に関して
「東浦町誌」は、天正3年12月(1576年1月)の「信元」の殺害後も、旧水野領の内、緒川を含めた尾張においては実質の支配を水野家がもっていたとする。しかし水野忠分の戦死(天正6年12月・1579年1月)の後、誰が緒川の地方衆を組織していたのか不明であるという(資料編3、428項および429項)。「忠守」の緒川からの退去時期を示す資料がないため、このことは彼の所在に関する疑問と重なってくる。
- 天正9年1月(1581年)信長は高天神城攻めの援軍を信忠に命じた。これを受けて「水野監物、水野宗兵衛、大野衆」が出陣したとする「信長公記」の記事と、「大野、小川、かりや衆」の出陣に関する「家忠日記」の記事がある。「宗兵衛」は忠重のことであり、「監物」は当時の常滑城主・水野守隆と考えられる。しかし常滑の「監物家」や大野(常滑市北部)の「佐治家」が緒川の旧水野家を組織するのは不可能であり、仮に、家康に仕えていた「忠重」が彼らを率いたとすれば、実質的支配力を持つ「惣領」の地位にある者の協力が必要である(前掲東浦町誌では、後述の「緒川先方衆」への下知書を根拠として、3年後においてもこの地域での「忠重」の支配力を否定する。同358項)。また「緒川」と「常滑」の両水野家は、忠守の子「監物」忠元および右馬允「守信」と、常滑水野家の「監物」守隆およびその子河内守「守信」との類似性から混同された経緯がある(「知多郡史 上巻」190-191項および178-179項)。そこで実際に兵員を組織したのは、当時その名前を知られていた「監物」守隆ではなく、無名であった水野忠守だったのではないか、との疑問がわく(「刈谷市史」は「小川衆」を率いたのは忠守であるとする。第2巻105項)。
- 天正12年(1584年)「小牧・長久手の戦い」に先立ち、家康は「緒川先方衆」並びに「常滑先方衆」宛てに、本領安堵と出兵を命ずる文書を出している。受け取り人は「分長」(忠分の子)となっている(注)。永禄5年(1562年)の生まれで、当時数え23才。忠守から緒川惣領を引き継いでいたとしても不自然ではない。しかし同年、織田信雄から長田弥左衛門に宛てて、緒川の地を与える旨の書状が出されている(結局この約束は守られなかったが)。忠守が緒川の地にいたとすれば、彼らを全く無視した振る舞いである。単に信雄家中が尾張南部の実状に疎かったとすることもできる。しかし、既にこの時点において緒川周辺の支配の所在が、たとえば忠守の退去によって、あいまいになっていたとも考えられる。それゆえ家康からの本領安堵を取り付けておくことが「分長」にとって必要であったのではなかろうか。
- 「織田信雄分限帳」(天正13-14年成立)の中に「忠守」の名はなく、「忠重」が刈谷7000貫文に加え、緒川領内に約6000貫文となっている。「分長」の名も見当たらないことから、彼の所領は忠重の所領に含まれていると考えざるを得ない。しかし、いずれにせよ「忠守」の所在は明らかではない。
- 「家忠日記」の中に「清六」の名が登場する。「刈谷市史 第2巻」ではこれを清六郎「忠守」であるとし、他方「東浦町誌 資料編3」は「忠分」次男の清六郎「義忠」(永禄10・1567年生まれ)のことであるとする。「清六」は天正15年から16年にかけ「ふる舞い」をたびたびおこなっているが、家忠は義父にあたる藤次郎「忠分」を藤次殿、義兄弟の藤次郎「重央」は藤次、伯父「忠重」を(例外はあるが)「惣兵衛殿」と呼んでいる。文禄2年(1593年)、「清六」に男子が生まれたとの記事があることから、その大部分の記述は「義忠」のことであろう。ただし、天正14年11月20日の記事に「水野清六殿被越候 長刀出し候」とあり、これが「忠守」であると推測することは可能である。「刈谷市史」では、この人物を「忠守」とした上で、この時既に緒川の地を去り、家康が居城していた駿府城下に屋敷を構えていたのではないかとしている。また、緒川からの退去時期を天正13年冬以降とし、その理由を忠重の秀吉への臣従に反対したことに求めている(同2巻105項)。