水野忠重
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水野忠重(みずの ただしげ、天文10年(1541年) - 慶長5年7月19日(1600年8月27日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。水野忠政の九男で、水野信元と於大の方(伝通院、徳川家康の生母)の弟。初代備後国福山藩主水野勝成、初代信濃国松本藩主水野忠清の父。
[編集] 経歴
兄の信元に従って共に行動していたとも、家康に仕えていたとも言われているが、信元が存命中の行動はあまり明確ではない。1575年、信元が武田氏との内通嫌疑で織田信長に殺害された後、水野氏の家督を継いで信長に仕え、佐久間信盛の与力となった。1580年、信盛が信長の勘気に触れて追放された後は、信長の嫡男・織田信忠の与力となった。
1582年、本能寺の変が起こったときは信忠と共に二条城にあったが、二条城から脱出して三河国刈谷に逃げ戻った。その後は豊臣秀吉の家臣として仕え、1598年に秀吉が没すると家康の家臣となった。1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に与したが、本戦直前の7月、三河池鯉鮒(現 愛知県知立市)において酒宴を行なった際、酔って口論となった西軍の加賀井重望に殺害されてしまった。