松平家広
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松平 家広(まつだいら いえひろ、天正5年(1577年) - 慶長6年6月14日(1601年7月13日))は松平忠正の子。母は久松俊勝の娘(徳川家康の異母妹、多劫姫)。武蔵国松山藩主。幼名、亀千代。
父である忠正が年少の時に死去したし、後を継いだ叔父松平忠吉もほどなく死去したために5歳で家督を継いだ。天正12年(1584年)に小牧の戦いで酒井忠次に加わり功績を挙げる。その後、天正18年(1590年)に武蔵国松山城と1万石(後に2万5000石)が与えられ、松山藩初代藩主となった。25歳で死去。死因は病死と言われているが、実は家老の堀勘兵衛を殺害した事に徳川家康から勘気を受け自害したとも伝えられる。
家督は松平忠頼(忠吉の次男であるが、忠吉と再婚した家広の母親所生の子であるため異母弟にもあたる)が相続した。
[編集] 関連項目
- 桜井松平家
- 松平氏