北条氏邦
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 天文10年(1541年) | |||
死没 | 慶長2年8月8日(1597年9月19日)) | |||
改名 | 新太郎、藤田氏邦 | |||
墓所 | ||||
官位 | 従五位下安房守 | |||
氏族 | 北条氏 | |||
父母 | 北条氏康、瑞渓院(父:今川氏親) | |||
兄弟 | 蔵春院(今川氏真妻)、新九郎(早世)、 氏政、氏照、氏邦、氏規、 浄光院(足利義氏妻)(氏政以降ここまで同腹) 氏忠、氏光(氏尭)、氏秀、 新光院(氏繁妻)、尾崎(千葉親胤妻)、娘(古河某妻)、 長林院(太田氏資妻)、種徳寺(小笠原康広妻)、 女(円妙院)、 靏松院(実父北条幻庵、吉良氏朝妻)、 法性院(実父遠山綱景、太田康資妻)、 桂林院(武田勝頼妻) |
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妻 | 大福御前(藤田康邦娘) | |||
子 | 東国丸、亀丸、光福丸、直定、庄三郎 |
北条 氏邦(ほうじょう うじくに 天文10年(1541年) - 慶長2年8月8日(1597年9月19日))は北条氏康の四男。北条氏政、北条氏照の弟。藤田康邦の娘婿となり家督を継いだ。藤田安房守(藤田氏邦)を名乗り、北条氏邦を自称した記録は未発見。官職:安房守。生年には異説もある。子どもに東国丸、亀丸、光福丸、采女がいたがうち東国丸が短命で二人が幼かったため、兄氏政より6男の直定(北条氏定とも)を養子として迎えている。
兄・氏照同様に武勇に優れ、上野方面の軍事を任された。武田信玄との三増峠の戦いをはじめ各地を転戦し、いくつもの武功を挙げている。本能寺の変後の神流川の戦いでは、当主の氏直を補佐し滝川一益を壊走させている。
短慮により北条氏の滅亡のきっかけとなったと言われる名胡桃事変の当事者(沼田城代猪俣の指揮官)であり、家督を継いだ藤田家の一族を謀殺したことなどにより激しやすい性格と見なされることもある。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張したが容れられず、居城・鉢形城に籠もって抗戦する。しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。
鉢形城歴史館にて、往事の業績が偲ばれる。
戦後は利家の助命嘆願で、剃髪することで一命を許され、知行1000石を得た。1597年、加賀金沢にて57歳で病没した。 その跡は京都紫野大徳寺で喝食となっていた氏邦の末子が還俗して庄三郎と称し、氏邦の知行を相続し、前田家臣で前田家縁戚でもある前田利益の娘を妻とした。その子主殿助の後、嗣子がなく絶家となった。
養子直定は小田原開城後、義父らと共に高野山にて蟄居する。その後徳川家康に仕え、のち紀伊徳川家家臣としてに付された。その子北条氏時より紀伊徳川家に仕え、氏時の子氏常、養子氏成、氏賢まで確認できる。
[編集] 関連項目
- 天神山城(氏邦が鉢形城に入城する前の彼の居城)
- 戦国北条一族 ISBN4-404-03251-X C0021