松平広忠
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松平 広忠(まつだいら ひろただ、松平 廣忠、大永6年4月29日(1526年6月9日) - 天文18年3月6日(1549年4月3日))は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家八代当主。松平清康の子。徳川家康の父。母は青木貞景(守隆)の娘とされているが(※1)、清康の最初の正室であった西郷信貞の娘とする異説もある(※2)。
幼名は、千松丸、仙千代、次郎三郎。岡崎城主であったため、岡崎三郎とも呼ばれた。最初の正室は、刈屋城主水野忠政の娘於大の方(後に離別)。二度目の正室は田原城主戸田康光の娘真喜姫。二人の正室と側室との間に6人の子女をもうけた。死後に従二位大納言の官位を贈られている。
- ※1.続群書類従完成会刊『徳川諸家系譜』1巻所収「徳川幕府家譜」。同書18項。
- ※2.『新編岡崎市史6』所収(851および852項)の「大林寺由緒」では、広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫としている。
[編集] 生涯
松平広忠は、父の遭難の後、家臣団や、一族をまとめることには、辛うじて成功したが、父が下した三河の諸豪族が、相次いで離反、または自立させてしまい没落。衰亡の危機を迎えて、尾張の織田氏に与すか、駿河・遠江の今川氏に与すかで、一族郎党の間で、まとまらず数年間の歳月を必要としたが、今川氏の配下となる決意をした。
- 天文4年(1535年)尾張守山城に侵攻した父の清康が、家臣に暗殺された(この事件を森山崩れと言う)。当時9歳だった広忠は、大叔父である桜井松平氏の松平信定に、岡崎城主の地位を奪われ、伊勢などを放浪。
- 天文6年(1536年)松平信定が岡崎城を退去したため入城。元服する。今川氏・吉良氏の助力があったと云われる。
- 天文7年(1537年)松平信定が、広忠に詫びを乞いこれを許す。
- 天文9年(1539年)岡崎城の支城で、松平氏の故地である安城(安祥)城が、織田信秀軍のために落城。
- 天文10年(1540年)正室に碧海郡刈谷城主・水野忠政の娘・於大を迎える。
- 天文11年(1542年)小豆坂の戦いで、織田軍勝利。今川・松平連合軍敗北。嫡子・竹千代(家康)誕生。
- 天文12年(1543年)後見人であった曽祖父松平長忠(宗家5代当主)が死去。
- 天文13年(1544年)於大を離縁する。水野氏が織田氏に与したため、今川氏の圧力であったと云う。
- 天文14年(1545年)2度目の正室に渥美郡田原城主・戸田康光の娘・真喜を迎える。
- 天文16年(1547年)広忠は、織田氏の東征を阻止するため今川氏に援護を求める。今川氏は、人質に竹千代(家康)を要求。これに応じたが、戸田康光に竹千代を強奪され、舟で尾張・織田信秀に送られる。同年、尾張国知多郡に介入して阿久比城の久松長家(後の俊勝、於大の再婚相手となる)を助ける。
- 天文17年(1548年)松平広忠の忠節を信じた今川義元は、その救援と、三河征服の野心のため太原雪斎を総大将に、大軍を送り再び小豆坂の戦いとなる。先鋒隊の松平軍は敗色が濃くなったが今川軍の伏兵・岡部隊が、織田軍の脇から攻め寄せ大勝。
- 天文18(1549年)死去。3月6日説(「徳川幕府家譜」で採用されたもの。通説)と、3月18日説(「松平記」)がある。死因は、家臣の岩松八弥による暗殺説と、労咳説がある。遺体は火葬とされた。
城主のいない城となった岡崎城は、今川軍に占拠され、駿府から派遣された代官に支配される。
同年11月、今川・松平連合軍は、安城(安祥)城を奪還。織田信広を生け捕りにして、織田信秀に対して、その子・信広と竹千代との交換を提案して成立。笠寺で交換が行われ、11月に竹千代が岡崎城に帰還するも、同月27日に岡崎を出発して、駿府に向かう。竹千代は駿府で人質生活となる。
墓所は愛知県岡崎市の大樹寺。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(※1)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録がある(※2)。
- ※1.「徳川幕府家譜」による。『徳川諸家系譜 第1』19項。
- ※2.汲古書院刊『朝野旧聞褒藁』1巻738項所載。
[編集] 子女
- 於大の方との間にうまれた子
- 徳川家康[1]
注記および出典
- ↑ 「柳営婦女伝系」では「広忠」と於大の間の子として「東照宮」および「女子」1人を記している。『徳川諸家系譜』1巻137項。家康と父母を同じくする兄弟ということになるが、「女子」ということ以外に記述がない。「改正三河後風土記」では広忠の娘として「多劫姫」を挙げる。しかし家康の異母妹かそれとも父母を同じくするかについては言及を避けている。「寛政重修諸家譜」菅原氏「久松」(新訂17巻315項)および「桜井松平」(同1巻33項)は久松俊勝との間の子としている。
- ↑ 汲古書院刊『朝野旧聞褒藁』1巻610項。また広忠の死後、尼となり「妙林」と称した旨の所伝が「寛政譜」にある(新訂1巻221項の按文)。酒井家(雅楽頭家)家臣松平孫三郎「久典」所蔵の家譜および三河・広忠寺由緒書に拠るという。
- ↑ 前掲『朝野旧聞褒藁』1巻610項。幼名を勘六といい、のち任官されて右京大夫「忠政」と称した。また「寛政譜」新訂1巻221項によると、広忠が於大を妻とした後に三河国桑谷村に250石を与えられ、また家康に仕えて従五位下となり、慶長4年(1602年)に没したという。
- ↑ 「寛政譜」1巻221項。「忠政」の弟穎新(えいしん)。広忠の意向により僧となる。ただし同書では、家康の異母兄弟である忠政がわずかな所領しか与えられなかったことや、「寛永諸家系図伝」など幕府保管の文書にその記録がみられないことから、一連の所伝を「不審なきにあらず」とし、また長沢松平分家「信強」(220項)の祖・孫三郎「信重」(219および210項)の子・右京「長次」(219項)の子孫が不明であることから(同項按文)、この父子が後に右京大夫「忠政」の子・孫三郎「康久」と右京進「長清」と誤り伝えられたのではないかとしている。
- ↑ 松平上野介康忠の室を平原助之丞正次の娘とし(「柳営婦女伝系」)その名を矢田姫とする(「寛政譜」新訂1巻「長沢松平」211項)。
- ↑ 「柳営婦女伝系」では荒川甲斐守頼持の室を平原氏娘の子とし、それとは別に戸田弾正少弼康元娘の子として「一場御前」とする。一方「改正三河後風土記」は広忠との間に子はなかったとしている(秋田書店刊行本上巻172項)。「寛政譜」新訂2巻「吉良」には義広の室として「市場の御方」と記すが、その生母についての記述はない(217項)。また「士林泝洄」巻37「荒川」も同旨。「市場殿」の呼称は「徳川幕府家譜」に拠る。
- ↑ 続群書類従完成会刊『徳川諸家系譜』1巻所収「徳川幕府家譜」35項。広忠の死の前年、天文17年(1548年)の生まれで、その母の申し出により岡崎在城時代、家康に召抱られたという。また多病のため生涯隠棲し、慶長8年(1603年)に亡くなったとされている。
- ↑ 前掲『朝野旧聞褒藁』1巻657項および658項以下。「内藤家譜」によるとその母は広忠の寵愛を受けて懐妊するが、前室(於大)に憚り、「島田久右衛門」平景信に預けられ、天文14年5月5日に信成を出生したという。一説に(秘録曰く、として)この女性は「小野次郎右衛門」の娘で、広忠の侍女であったといい、またいったん島田久右衛門に嫁したのち出生した男子を、内藤清長が養子として育てたのが、後の豊前守信成であるとする「徳世系譜」の所伝があるという。
- 参考;「徳世系譜」→国立公文書館所蔵「徳世系譜実録」。内藤清長→『新訂寛政重修諸家譜』13巻「内藤」183項「某・弥次衛門」。内藤信成→同185項および197項では、内藤弥次衛門の養子で、実は嶋田久右衛門景信の子、母は内藤右京進某の娘とする。同5巻「嶋田」には「景信」の名は見当たらない。また「徳川幕府家譜」には「信成」とだけ記されている。『徳川諸家系譜』1巻35項。
[編集] 関連項目および外部リンク
広忠寺 愛知県岡崎市桑谷町。広忠菩提寺であると共に「於久」と家康異母兄弟の所伝を残している。