松平信忠
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松平 信忠(まつだいら のぶただ、文明13年(1481年)- 享禄4年7月27日(1531年9月8日))は、戦国時代の武将。松平氏第6代当主。松平長親の子で、松平清康、松平信孝の父。官位は従五位下。左京亮。越前守。左近蔵人佐。生年には異説もある。正式な名のりは在原信忠(ありわら・の・のぶただ)。
幼名は次郎三郎。竹千代。1506年、父の隠居により家督を継いだ。しかしその愚鈍な器量は他国に知られていたため、隣国の今川氏親らの侮りを受け、同年から早くも今川軍の侵攻を受けた。暗愚な武将だったために軍の統率が取れず、松平軍は連戦連敗を重ねる。このため1523年、家臣団からの薦めもあって、息子の清康に家督を譲って隠居、出家した。その後は清康の補佐を務めたと言われている。
「三河物語」では、「御慈悲の心も無く、一門衆も分裂する状態になった」とまで虚仮下ろされるほどの暗君だった。法号:安栖院殿泰考祐泉。