幕張
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幕張(まくはり)は、千葉県千葉市花見川区と美浜区にまたがる地域名。
大まかに分けて元々あった花見川区側と、1960年代以降に埋め立てられた美浜区側に分かれる。
行政的な区画の名称としては花見川区に幕張本郷、幕張町が、美浜区に幕張西という住所表記がある。美浜区側の住所表記は、埋め立てた際に新しく出来た土地に適当な行政区分上の名称を付与した結果、打瀬、中瀬、美浜、若葉といったイメージ優先的なものとなり、住所表記には幕張西以外に「幕張」を付したものは見当たらない。
但し京葉線の海浜幕張駅一帯を幕張新都心と呼び、幕張新都心の施設群にも幕張メッセ、幕張プリンスホテル(2006年7月よりアパホテル&リゾート<東京ベイ幕張>)、幕張海浜公園、その他学校や公共施設、商業施設に幕張を付けたものが多く見られる。
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[編集] 地理
定義文にも述べたとおり、幕張は大まかに分けて総武線沿線で花見川区側の地域と、京葉線沿線の美浜区側の地域に二分される。この内、内陸側である花見川区側の幕張が元々の幕張であり、美浜区側の幕張は1960年代以降の埋め立て事業によって造成された地域である。
これらの地域の地誌は、凡そ以下の通りである。習志野市から千葉市西部にかけての東京湾沿いの地域は下総台地が海岸沿いまで迫って海食崖を形成し、江戸時代には台地を刻む小河川の河谷ごとに村落が形成されていた。こうした形態の村落を西から挙げていくと、現在の習志野市の区域には谷津(やつ)村、久々田(くぐた)村(菊田川)、鷺沼(さぎぬま)村、千葉市に入って馬加(まくはり)村(浜田川)、検見川(けみがわ)村(花見川)、稲毛(いなげ)村、黒砂(くろすな)村となる。
この区域の西側は船橋市中心街を形成する海老川河口低地帯の、東側は千葉市中心街を形成する都川河口低地帯の、それぞれ中規模の沖積平野によって区切られる。千葉市花見川区の幕張はこの浜田川河谷を中心とした馬加村が、浜田川上流の武石村、天戸村、長作村、実籾村と合併して成立した幕張村に由来する。この幕張村は浜田川河谷の低地で水田を、周辺の台地で畑作を営んでいたが、特に浜田川と東側の花見川の両河川の河口の間は砂丘が広がり、かつてはここが良質の人参産地となっており、「幕張人参」のブランドで知られた。今では浜田川西岸の台地上にも、東岸の砂丘上にも、畑はわずかしか残っていないが、土の色を見ると西岸の幕張本郷駅近くの畑は関東ローム層特有の赤褐色を、東岸の幕張駅近くの畑は白っぽい砂の色をしており、両者の畑の性格が異なることを知ることができる。
1960年代から1970年代にかけて千葉県東京湾沿いの埋め立てが進んだが、上記の浜田川を中心に、西は千葉市と習志野市との境界から、東は花見川に至る埋立地の区画が、「幕張埋立地」と名付けられた。ここに千葉市美浜区の幕張新都心が立地している。
上にも述べたように、幕張本郷駅は浜田川河谷の低地のすぐ西に迫る台地の上に、幕張駅は東側の砂丘の上に位置している。京成幕張駅の南側の砂丘の頂上にはかつて、青木昆陽を祭る昆陽神社があり地元民からは芋神様(いもがみさま)と呼ばれて親しまれたが、現在は総武線と京成線の重なる「開かずの踏み切り」による交通難の解消のための駅前の再開発で、移転している。
[編集] 幕張の齟齬
上記通り2つの幕張は、歴史的、地理的な違いを伴う(さらにイメージ的な違いも伴う)ため、「幕張」という地名の使用には地元の人によっても齟齬を来たす場合がある。従って、たとえば単に「幕張で待ち合わせ」といった場合には会話の文脈から「幕張」が何処を指しているのかよく読みとる必要がある。古くから地元に住んでいる人は花見川区部分を指して「幕張」と認識することが多い。美浜区部分を指す場合には「海浜幕張」等と言って区別するようである。メディア等によって再生産されるステレオタイプな「幕張」のイメージが「幕張新都心」のような新しい街のイメージであるせいか、最近になって千葉市に引っ越してきた人、地元以外、特に関東周辺以外の人(地理に詳しい人は別だが)は幕張新都心だけが「幕張」であると思っている人が多い。又、「幕張市」という千葉市とは別個の自治体があると思い込んでいる人も少なくない。1990年代のTBSラジオの上岡龍太郎の番組でも、「聴取者からの葉書」で、住まいが「千葉県幕張市」であったことがあり、勘違いをしていた構成作家・スタッフが聴取者を装って仕込んだものとわかるものであった。(Wikipediaの投稿に見られる誤解例:[1]、漫画ORANGEに登場する「幕張イリース」もこの手の勘違いに近い。)一方総武線側の幕張駅周辺はこうした人工都市なイメージからかけ離れている。電車の車両基地の「幕張」は花見川区のJR東日本幕張車両センターを指す。
[編集] 広義の幕張
元々は下総国千葉郡の西側一体を指して幕張(もしくは馬加)と言ったようである。千葉市のお隣の習志野市が現在の形になったのは1954年であるが、この時現在の八千代市や船橋市の「習志野」を名乗る周辺および当時の幕張町で合併を検討していた。この時の合併計画は「幕張地域合併」という言葉で呼ばれた。このことからも元々この地域一体をさした使われ方をされていた事が良く分かる。現在では旧千葉郡の西部を指して津田沼、習志野と言う言葉を使うが両者とも明治時代の社会変動期に起源をもつ地名である(詳しくは習志野市の項目、千葉郡を参照)。
[編集] 幕張新都心
JR海浜幕張駅を中心とした埋め立てにより開発された。シャープ、イオン、NTTといった大企業の高層ビルが立ち並ぶビジネス街、カルフール幕張、ガーデンウォーク幕張、シネプレックス幕張などの商業施設、多くのマンションが立ち並ぶ幕張ベイタウン、放送大学、神田外語大学などの教育施設のほか、幕張メッセ、千葉マリンスタジアム、ホテルなど様々な都市機能を持つ市街地。中でも幕張メッセは、東京モーターショーやCEATEC JAPANといった大きなイベント、コンサートが開催される国際展示場として知られ、一年を通じて多くの人が訪れる。なお、この新都心とは、「東京(あるいは東京圏)の新都心」という意味を示唆するもので、千葉市の新都心の意味ではない。
[編集] 歴史
近世までは馬加(まくはり:旧かな遣い)と表記し、まくわりと読んだ。現在のような幕張という漢字を当てるようになったのは近代以降である。室町時代に下総国守護千葉満胤の子・康胤が馬加城主となり馬加氏と名乗る。1455年、千葉氏で内紛が発生し、反主流派の盟主となった康胤は甥である千葉胤直親子を滅ぼして当主の座を奪い、千葉康胤と名乗る。以後佐倉に移った康胤の子孫が千葉氏の当主の地位を継いだ。
大正期に編纂された「千葉郡幕張町誌」(家鴨文庫所蔵)によれば、中世では須賀(または素加)すがと読ばれていた。子守神社の旧名も素加天王社といい、大須賀山、須賀原などの地名も見える。
江戸時代には江戸町奉行の与力給地が置かれ、その関係で青木昆陽がサツマイモの試作を行った場所として有名である。京成幕張駅の近くには昆陽神社や甘藷試作地記念碑がある。また、京成とJR線をくぐるトンネルは昆陽隧道と命名されている。また、江戸後期の大相撲で活躍した荒馬大五郎(宮城野馬五郎、二代目宮城野)の出身地であり、その墓が大須賀山にある。
明治時代になると現在のJRおよび京成電鉄の幕張駅周辺は東京近郊の海水浴場として賑わった。そのため現在の千葉市内にある駅としては幕張駅は千葉駅に続いて設置され、総武線の中でも最も古い駅の一つになっている。沖合いの埋め立てが始まるまでは幕張駅から数分のところに砂浜があり、その先に東京湾が広がっていた。また、首都圏の需要を支える野菜の産地としても栄え、特に砂丘部分の畑で収穫される幕張人参は味がよいことで高い評価を得ていた。
この先の海浜幕張にあたる部分の埋め立てが始まったのは1960年代中頃からである。この地区は全てが計画都市として設計され、団地や教育施設、公共施設などが計画的に配置された。また災害時の場合を考慮して道路が広く取られている事も特徴である。これとほぼ時を同じくして人参やサツマイモ畑が広がっていた花見川区の総武線沿線でも風景が一変し始めベッドタウン化が始まった。埋め立てられた海浜幕張側では1970年代から住民の入居が始まったものの、予定されていた鉄道の開業が後れ、1986年にようやく蘇我駅-西船橋駅間の京葉線が開業された。その後1989年には東京モーターショーが晴海から幕張メッセに移り、1993年には地域のランドマークとなる幕張プリンスホテル(2006年7月よりアパホテル&リゾート<東京ベイ幕張>)が開業し、一躍新都心への飛躍を果たした。
[編集] 歴代村長・町長
幕張村
- 1代 林田孫兵衛 明治22年6月~28年7月
- 2代 中臺文内 28年7月~29年
幕張町
- 1代 中臺文内 29年~32年7月
- 2代 入江重左衛門 32年7月~36年7月
- 3代 小川小平治 36年7月~40年7月
- 4代 林田善左衛門 40年7月~大正3年8月
- 5代 大須賀常信 3年9月~10年1月
- 6代 志村清右衛門 10年5月~14年6月
- 7代 入江重左衛門 15年
- 8代 中村秀忍 15年12月~昭和7年8月
- 9代 小川久元 7年8月~12年
- 10代 志村祐次 11年~22年
- 11代 長澤吉右衛門 22年~29年
[編集] 町(村)内の主な施設・機関
[編集] 神社・寺院
[編集] 子守神社と七年祭
[編集] 軍事施設
[編集] 交通
幕張、幕張本郷地区にはJR総武線と京成千葉線が、幕張新都心地区にはJR京葉線が通る。
幕張の中心駅は京葉線の海浜幕張駅である。幕張の顔ともなる幕張新都心の施設群へは海浜幕張駅から行くのがもっとも便利である。
ただし京葉線が開業した後も東京駅での他線からの乗り継ぎの便がよくないこと、又千葉県内の人口密集地が総武線側に集中している事もあって、幕張本郷と海浜幕張を結ぶ交通機関として京成バスによる連絡が日に100往復ほどされている。ただし本数を見てももらえば分かるようにバスによる輸送は限界に近く京成バスでは全長18mの連節バスを導入するなどして対応しているが、ラッシュ時になるとこれでもいっぱいいっぱいの状況が続いている。従ってバス以外の交通手段を検討するべきだと言う意見は絶えない。
駅名から総武線の幕張駅を幕張の中心駅だと思い込み、間違ってここで降りる人も見受けられる。幕張駅北口から海浜幕張駅までは、千葉シーサイドバスが運行し、約10分で両駅を結んでいる。前述の京成バスに比べれば本数は少ないものの、所要時間の短さや低運賃から、さらなる定着と増発が期待される。両駅は徒歩でも30分以内の距離である。
[編集] 幕張の読み方
一般的な標準語では「まくはり」はフラットに読まれる場合が多い。NHKを初めとして各放送局のテレビアナウンサーもフラットに読む。JR幕張駅の駅アナウンスも「まくはり」はフラットである。これは下もしくは上に別の単語がついて「幕張メッセ」「プレナ幕張」などとなる時も一緒である。
ところが地元の人は「く」の部分に強いアクセントを「まくはり」と読む場合が多い。