小川祐忠
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小川 祐忠(おがわ すけただ、天文18年(1549年) - 慶長6年(1601年))は戦国時代の武将。通称は左平次、孫一郎。官位は土佐守。左近太夫。正室は一柳直高娘。子に右馬允、小川祐滋(右馬允、光氏と同一人物か?)、小川良氏、千橘らがいる。大名とも日田代官とも言われる小川光氏は長男と言われる。
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[編集] 経歴
小川氏は近江源氏の一派とみられる近江の土豪であり、南近江の六角氏家臣、佐和山城主の出自である。六角氏の衰退した戦国後期には浅井氏の家臣となっていたが、このとき同城主の地位は喪失していた模様である。
祐忠は永禄期に一族と共に織田信長の軍と戦い敗れて降伏し、旗本となって以降、歴史に登場する。 土佐守の官位は信長から与えられたもので、同時に息子も右馬允に任じられており、実力主義の信長から官位を与えられるということは相当に有能であったようだ(裏切りを繰り返したと非難されてはいるが六角→浅井→織田→明智→柴田→豊臣→徳川と確実に勝ち馬に賭け、生き残る道を選択し続けており、判断力の正確さはむしろ賞賛に値する。藤堂高虎、筑紫広門にも匹敵すると言えよう)。各地を転戦して生き残りなおかつ昇進を重ねたとあり、後に大谷吉継の寄騎として一隊を指揮していることからも能力の確かさは疑いあるまい。
[編集] 幻の大出世と信長人事の考察
祐忠は天正年間には大幅な加増が内定していたともいう(祐忠は秀吉年間茶人として高名であり、信長時代に茶会免許を受けていた=大名昇進が決定していた可能性は極めて高い)。どこに領地を賜る予定だったのかは分かっていないが、小川氏が六角氏の家臣時代佐和山城主であった経歴を考慮すると、信長には祐忠を同城主へ入れてこの要地を固める心算があったのではないだろうか。浅井氏の佐和山城主であった磯野員昌が信長に追放されており、さらにその員昌には津田信澄が養子に入っていることから、信長は信頼の置ける直系の部下にこの地を任せようとしていたと見られ、浅井の息のかかり方が浅くなおかつ佐和山を領していた過去を持つ小川氏の当主であり、実力にも申し分ない祐忠が同城主へ復帰させられる理由は十分にある(信長の人材登用には地縁の要素を熟慮した人選がなされていることは注目すべきである)。
[編集] 本能寺以後
本能寺の変が起こると近江を制圧した明智光秀の傘下に入り山崎へも出陣したが、敗北。 羽柴秀吉に降伏する。清洲会議で北近江が柴田勝家の領土となって後はその傘下となり勝家の養子柴田勝豊の家老として仕える。ここからも彼の有能さがうかがえる(土着の有力者とはいえ無能な人物を養子の家老につけるとは考えにくい)。賤ヶ岳の戦いが発生すると勝豊が秀吉に寝返ったため秀吉側として戦う。勝豊没後は秀吉に仕え小牧・長久手の戦いなどに参加。慶長3年伊予今治7万石を与えられ、国府城を居城とした。
[編集] 関ヶ原以後
1600年の関ヶ原の戦いでは当初、西軍に与していたが小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返り、家臣小川甚助の郎党樫井正信が平塚為広を討ち取るなど武功を上げて東軍の勝利を決定づける。戦後、佐和山城攻略戦にも参加した(小川氏は六角氏時代初代の佐和山城主を務めており、運命の皮肉を感じる)。 しかし、通款を明らかにしなかったことを咎められ、戦後、改易された。改易の理由には領内悪政、嫡男とされる小川祐滋が石田三成と入魂であったまた度重なる内応の経歴を快く思われず、などというものも伝わるが、これは名目、ついでの理由で崩れ際の寝返りを嫌われたものであろう。属した隊の主将で裏切りに際し標的となった大谷吉継が見事な最後を遂げたことも影響を与えていよう。主と同じように各大名家を渡り歩いた樫井はのち山内一豊に召し出されて仕えており、過去の転仕、主換えは問題になっていない様子がうかがえる。改易にされてしまったのはやはり寝返った時期の悪さからくる悪印象が主将大谷吉継の見事な死に様との対比で損をしたものであろう。 改易後は京に隠棲し、1601年失意のうちに亡くなった。帰農したとの説もある。
[編集] 子孫
祐忠の子祐滋(別の子で千橘とする説もある)は改易後、京に出て萬屋の屋号を用い両替商となり成功を収め、寛文年間以降は陣屋を預けられるほどの豪商となっている。 また別系と思われる曾孫俊広が鷹匠として出仕、その二代後には時代劇などで知られる小石川養生所の開祖小川笙船が輩出している。この家系は幕末まで代々養生所肝煎を務めた。 小川家には医術の道に進む者が多く、藤沢宿でも別家が医師となり郷土史に名を残している。