伊勢貞興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊勢 貞興(いせ さだおき、永禄2年(1559年)-天正10年6月13日(1582年7月2日))は戦国時代の武将・有職故実の研究家。
幼名は熊千代。通称は与三郎。伊勢守。祖父は伊勢貞孝。父は伊勢貞良。兄に伊勢貞為がいた。
兄が病身であったために家督を継いだ。旧幕臣衆で元は室町幕府の政所執事を務めた。伊勢流の有職故実の探究者。武家故実の書として「伊勢貞興返答書」を記述した。
足利義昭が没落すると、明智光秀に仕えた。若いが智勇に優れ、行政能力だけではなく、武家故実に優れるなど軍事にも精通していたために、明智光秀の信任を得た。一説には明智光秀の娘婿となったとされている。明智光秀の配下として丹波攻略やその他の戦役に活躍し、若いが明智家中では斎藤利三と並ぶ戦巧者として名を馳せた。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の明朝、明智光秀は織田信長を本能寺に攻めた(所謂、本能寺の変)の際、伊勢貞興は麾下の二千の兵を率いて織田信長の長男、織田信忠を二条城に攻め、自ら槍を振るって奮戦した。
天正10年6月13日(1582年7月2日)の昼ごろから始まった山崎の戦いでは、明智光秀軍と織田信長の弔い合戦を挑む神戸信孝(羽柴秀吉・丹羽長秀など)の軍勢が山崎の地でにらみ合いが始まり、ついに日が傾き始めたころ、合戦が始まった。神戸信孝軍の中川清秀隊3500余に伊勢貞興隊2000余が攻撃を開始したのが最初の激突であった。精強な伊勢貞興隊は兵数に勝る中川清秀隊を直押しに押した。形勢不利と見た神戸信孝軍の高山重友(高山右近)隊などが中川清秀隊を救援しようとしたが、これを明智光秀方の斎藤利三隊が横槍を入れたために両軍入り乱れての乱戦となった。しかし、総兵力四万の神戸信孝軍と総兵力一万五千の明智光秀軍という兵力の格差が戦闘開始から1時間半を過ぎるころから顕著となり、明智光秀軍は3000余の死傷者を出して戦線離脱。神戸信孝軍も4000余の死傷者を出して追撃の余力はなく山崎の戦いは終わった。その乱戦の中で、伊勢貞興は明智光秀の敗走を助けるために残軍を率いて殿軍を引き受けた。自らも槍を振るい、奮戦したが、命運尽き24歳の人生を閉じた。