勝竜寺城
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勝竜寺城本丸 | |
通称 |
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城郭構造 |
梯郭式平城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
細川頼春 |
築城年 |
1339年(応暦2年) |
主な改修者 |
細川藤孝 |
主な城主 |
細川氏、永井氏他 |
廃城年 |
1649年(慶安2年) |
遺構 |
土塁、堀、模擬石垣・櫓 |
勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は、現在の京都府長岡京市に所在した、南北朝時代から江戸時代初期の城である。城名は、付近の同名古刹に由来する。
[編集] 歴史
1339年(暦応2年)、京をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城。西に西国街道、東に久我畷、南に淀川の水運をうかがう要地であるため、そののちも各勢力の争奪の舞台となる。戦国時代には和泉細川氏の細川元常、続いて三好氏重臣岩成友通が城主となる。
1571年(元亀2年)、山城国西岡一帯を織田信長より与えられ、城主となった細川藤孝(幽斎、元常の養子)は二重の堀を持つ堅固な城に改修。近年の発掘で多聞櫓などの遺構も確認されている。
1582年(天正10年)、山崎の合戦では、細川家の縁戚でもあった明智光秀の拠点となったが落城。その後、淀城の築城に石材が使用されるなどして荒廃する。
江戸期に入って1633年(寛永10年)、永井直清が封ぜられ(山城長岡藩)、修築をおこなうが、1649年(慶安2年)、摂津国高槻に転封されると同時に廃城となった。
[編集] 現在
本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、当城北東に位置する神足神社境内に空堀や土塁が残る。
[編集] 関連項目
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