山岡景隆
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山岡 景隆(やまおか かげたか、大永6年(1526年)- 天正13年1月14日(1585年2月13日))は、戦国時代の武将。山岡景之の長男。弟に山岡景友、山岡景猶、山岡景佐。子に山岡景宗、山岡景以がいる。官位は従五位下、美作守。
近江国勢多城を領する豪族で、はじめは足利義晴、足利義輝らに仕えた。1560年代前半に浪人していた山内一豊を家臣として召し抱えたこともある。1568年、織田信長が上洛を開始すると、近江南部の豪族の旗頭として抵抗したが、1569年に織田軍の攻撃を受けて降伏し、信長の家臣となった。
景隆の信長に対する忠誠心は厚く、また信長も景隆の才能を評価して、信長は甲賀衆の指揮権を与えていたという。1573年には信長に反抗した将軍・足利義昭の討伐で戦功を挙げた。1582年、本能寺の変で信長が死去すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智軍の進軍路を妨害するなどの抵抗を見せた。このために、明智軍は安土城に進軍するまでに手痛い被害を受け、また時間的余裕を失ったとまで言われている。
その後は織田氏擁護の立場から柴田勝家に与して、信長没後に台頭していた羽柴秀吉と敵対する。しかし1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると秀吉に降伏することを余儀なくされる。一命は助けられたが、弟の景佐と共に所領を没収されてしまった。1585年正月14日に死去。享年60。墓所:京都市東山智恩寺の養源院。