蒲生定秀
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蒲生 定秀(がもう さだひで、永正5年(1508年) - 天正7年(1579年))は、戦国時代の武将。蒲生高郷の子。蒲生賢秀の父。近江国日野城城主。
はじめは南近江の戦国大名・六角氏の家臣として仕える。定秀は蒲生氏の分家の出身で、その家督は当時は叔父に当たる蒲生秀紀が継いでいたが、定秀は有能であったことから六角定頼の信任を受け、その後ろ盾を得て1522年に叔父を毒殺し、蒲生氏の家督を継いだのである。
以後は定頼の家臣として1530年の京都出陣や翌年の浅井亮政との戦いなど、定頼の主要な合戦の大半に参加し、大いに武功を挙げた。1549年には三好氏とも戦い、敵の首を29も上げるという大戦果を収めている。定頼の死後はその子六角義賢に仕え、伊勢攻略を任されるなど活躍した。1558年出家する。
次男茂綱を佐々木一族の青地氏、三男実隆を伊勢攻略の前任者である小倉氏の養子に入れ、娘を伊勢の関盛信、神戸具盛に嫁がせるなど、婚姻政策によって独自の勢力を築いた。
内政面にも優れ、定頼の信任を受けて城下町の形成や商業対策などを行なっている。日野椀の製造は城下町の成立と共に始められた。また、鉄砲の重要性を早くから認識しており、日野城下に鉄砲職人を招聘している。1563年、六角氏内部にて観音寺騒動が起こると、後藤高治、続いて主君六角義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。1567年の六角氏式目にも六角氏の宿老として署名している。