明智秀満
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明智秀満(あけち ひでみつ、1536年(天文5年)? - 1582年7月4日(天正10年6月15日)?)は、戦国時代から安土桃山時代の武将である。織田氏家臣の明智光秀の重臣。
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生涯
生年は1536年の他、1535年という説もある。父は一般に光秀の叔父の明智光安とされるが、光安については遠山景行(明知遠山氏)と同一人物との説(恵那市明智町を中心に唱えられている)があり、この場合最初に遠山景玄、次に母方(景行の妻は三河広瀬城主宮家高貞)を継いで三宅弥平次、さらに光秀の娘婿となって明智秀満を名乗ったことになる。三宅出雲(長閑斎)を実父とする説もあるが、最後の妻(光秀の次女)は三宅長閑斎/明智光廉(叔父)の娘であり、両者の年齢からも義父と考えられる。なお、光秀の次女は、荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが、村重謀反の際離縁され、秀満に再嫁した。遠山景玄については、寛政重修諸家譜に元亀元年に死亡とあり、上村合戦(正しくは元亀3年であるが元亀元年とする説も多い)で、父景行(入道宗叔)、小里光次とともに戦死したと解釈されることもあるが、『濃州小里記』や『明知年譜』の該当部分には、景玄の死を伝えるものは何も記されていない。光秀あるいはその関係者の出自等については、矛盾する内容の書き物が少なからず見られが、これは関係氏族(旗本遠山氏、小里氏など)においてさまざまな事情で改ざん・抹消が行われたためとなお、光秀の次女は、荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが、村重謀反の際離縁され、秀満に再嫁した。 1582年(天正10年)に光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃。その後安土城の守備につくが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との山崎の合戦で光秀が敗死すると坂本城に移り、光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自害したとされる。琵琶湖の湖上を馬で越えたという『明智左馬助の湖水渡り』伝説が残されている。
一族のその後
坂本城で死んだとされる一族のうち、男子二人は秀満の子(後の三宅藤兵衛重利)と光秀の末子(後の喜多村弥平兵衛‐母は柘植城主喜多村保光の娘)はその後も生存。光秀の叔父三宅長閑斎は、丹波横山(福知山)で捕らえられ刑死。光秀の先妻の父妻木広忠(明智藤右衛門)は城を出て西教寺で自害。光秀の長女は丹波で捕らえられ京都に護送されるも勧修寺晴豊が保護(「天正十年夏記」)。光秀の次女(秀満の妻)も、玄琳(光秀の長男光慶)が喜多村弥平兵衛に贈った系図(明智系図)では、家康の再従弟の桜井監物家次(松平家次)に再嫁したと記されている。なおこの部分、岡崎市史によれば松平家次は1563年に没しており、その信憑性は疑わしい。しかし、同系図で長女の夫とされる菅沼定盈の継室は、菅沼系図では松平家次の娘となっており、光秀の娘とは書けないことに伴うなんらかの秘密が隠されている可能性がある 光秀の墓のある坂本西教寺に、秀満の墓がなく、過去帳に名前もないことから、秀満が坂本城で自害したとするのには疑問があるとする説もある。なお、三宅藤兵衛は寺沢堅高の家臣となり、天草富岡城代であったときに、天草の乱の際に天草四郎率いる一揆軍に殺された。
天海=秀満説
秀満のその後について定かに記されたものはない。可能性として高いのは、遠山と三宅の家紋(「丸に二引き両」と「三宅輪宝」)を用いた天海となった説である。天海を取り巻く人脈には、斎藤利三の娘(春日局)だけでなく明智や遠山の関係者が多い。例えば、天海が祈願所として家康に推挙した浅草寺の住職忠豪和尚は、第11代明知城主遠山直景の子である。また、天海や春日局とともに家光擁立に尽力した英勝院も、その直景の末である。1536年という生年あるいは筆跡鑑定の結果(2000年8月6日放映の「日立 世界・ふしぎ発見!」)の同一人物ではなく近親者という判定からも、天海は光秀よりも秀満の可能性のほうがはるかに高い。
ただし、この説にはそれを直接的に示す文書等、決定的証拠に欠けていること、あるいは。遠山景玄が寛政重修諸家譜に元亀元年に死亡とあることなどから、疑問符が付けられている。光秀同様、秀満についても、その出自を含めて謎や矛盾が多いのは、ひとつには関係氏族(旗本遠山氏や小里氏等)の記録自体が意図的に改ざん・抹消されたためと考えられる。例えば、遠山景玄は寛政重修諸家譜に元亀元年に死亡とあり、上村合戦(元亀3年説が有力であるが元亀元年とする説も少なくない)で、父景行(入道宗叔)、小里光次らとともに戦死したとの解釈がある。しかし、その一方で『濃州小里記』や『明知年譜』の該当部分には、景玄の死を伝えるものは何も記されていない。また、今日においても戦前に逆賊として扱われた名残か、光秀との関係について述べることをはばかる傾向が一部に見られる。このような状況から、現時点では天海の問題を含め、それらがそもそも学術的に調査、検討される状況にはいたっていない。
「明智系図」で秀満の妻(光秀の次女)の再嫁相手とされた桜井監物家次(松平家次)は実在の人物であるが、1563年に亡くなっており正確なものではない。家康の再従弟(年齢的に該当する人物は多くない)で天海と関連した人物としては、川越藩主の酒井忠利があげられる。その妻は鈴木重直(三河足助城主)の娘となっているが、秀満の弟遠山利景の妻も同じく鈴木重直の娘である。その姉妹は、義理の姉妹と考えればすべてが合理的に説明できる。なお、酒井忠利の妻(寶鏡院)は、1559年生まれ(細川ガラシャは1563年生まれ)で、酒井家の文書によれば、忠利と結婚したのは小牧・長久手と小田原攻めの間で、(家康の)仰せによるものとしている。長男の酒井忠勝が1587年生まれであり、その前年、年齢的には28歳で結婚したと推定できる。鈴木重直の妻松平久子は。1561年に亡くなっており、年齢的にも寶鏡院の実母とは考えられない。
なお、明智秀満の生年は、『明智軍記』あるいは『細川家記』によれば、1535年あるいは1537年と記されている。旗本遠山氏の記録である『明智年譜』では、遠山景玄の生年そのものは記載されていないが、弟の遠山利景は1540年生まれであり(間に姉妹がいる)、景行(秀満)の生年は1536年頃と推定できる。
その他
- カプコン発売のプレイステーション2用ソフト『鬼武者』シリーズでは金城武(明智左馬介)が演じている。また、新 鬼武者 DAWN OF DREAMSでは明智左馬介が天海となっている。