国鉄C51形蒸気機関車
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国鉄C51形蒸気機関車(こくてつC51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院(1920年、鉄道省に改組)が1919年に開発した、幹線旅客列車用の大型(のちには中型)テンダー式蒸気機関車である。
当初18900形と称したが、1928年5月にC51形と改名された。
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[編集] 誕生の経緯と性能・構造
島安次郎の指導のもと、朝倉希一が設計主任となって開発が行われた。設計にあたってはアメリカ合衆国から輸入したアルコ社製8900形をモデルにしており、その発展形ということで18900形という形式名が付けられた。
諸外国で高速機関車に好んで用いられる「パシフィック形軸配置」(2C1=先輪2軸、動輪3軸、従輪1軸)を、国産設計の蒸気機関車としては初めて採用した。狭軌鉄道としては当時世界最大の直径1750mm動輪を採用したが、この動輪サイズは以後国鉄の旅客用大型蒸気機関車の標準サイズとなり、戦後のC62形に至るまで踏襲された。動輪のスポークは当初は17本だったが、28963(のちのC51 164)号機以降では18本になった。
開発過程では許容される最大限のボイラをまず見立てて、そのサイズに対しどれほどの直径の動輪が可能なのかを見極めた。ボイラはできるだけ長くし重心を下げるようにしたが、結局、重心高さは1562mmとなり、当時としてはもっとも重心の高い機関車となった。
テンダは当初、上縁を直線で通した17m形だったが、18940(のちのC51 41)号機以降は、8-17形のC51形での標準形テンダになっている。なお、後期分ではC53形と同じ12-17形テンダのものも見られる。いずれも鋼板組立式台枠、板ばねのボキー台車である。
28901(C51 102)号機以降では空気ブレーキ装置の装備が始まった。歩み板を2段として歩み板と動輪の間にスペースを取り、第2動輪上の歩み板下に空気だめが取り付げられ、運転室床面から歩み板への距離も上に延長され高くなっている。
なお、本機は広軌改築論が取り上げられていたこの時期、改軌を是とする島ら工務局が狭軌(現在のJR在来線の軌間)の能力の限界を示すために設計されたと言われる。しかし、本機の性能は当時としては飛躍的なものであり、鉄道院も「これ程の機関車があれば狭軌で十分」として結局は工務局自ら楔を打つ結果となってしまった。
[編集] 製造
1919年~1928年の間に、鉄道院(省)浜松工場・汽車製造会社(大阪)・三菱造船所(神戸)において、合計289両が製造された。
最初の18両は国鉄各工場で部品を分担製造し、浜松工場で最終組立を行なうといった珍しい手法が採られた(最初の完成は1919年12月)。これは試作的なものだったらしく、性能試験などを行なった後、民間メーカーでの量産が開始された。量産形のうち大部分の249両は汽車会社が独占的に製造、他に三菱造船所が1926年から22両を製造している。
[編集] 運用
従来と比較して飛躍的な性能向上を実現した機関車で、牽引力・高速性能・信頼性において高い水準を達成した。1920年代から1930年代には主要幹線の主力機関車として用いられた。
1930年から1934年まで超特急「燕」の東京~名古屋間牽引機を務めたことは有名である。また、239号機は僚機236号機とともにお召し列車の専用機関車で、1928年11月昭和天皇のご大礼から1953年5月の千葉県下植樹祭までに牽引回数104回という大記録を打ち建てるに至った、昭和時代後半のEF58 61号機に匹敵する存在であった。
しかし、輸送量の増加、重量の大きな鋼製客車の主流化等による牽引定数の増大に伴い、後続のC53形・C59形等に任を譲り、1930年代以降東海道・山陽本線からは退いて地方幹線に転ずる。
1939年には16両(C51 8,28,30,33~35,88,95,96,116,130~132,173,175,178号機。いずれも住山式給水温め器の装備機だった)が標準軌仕様に改造され、中国の華中鉄道に送られた。主は江南を中心に、南京~上海間で運転されたが、そのまま帰還していない。
戦後も適度な大きさから地方幹線の旅客列車牽引に重用されたが、製造年が古いため比較的早くから廃車が始まり、1966年までに全車が運用を退いた。なお晩年に至るまでの改造は非常に多岐に渡り(例えば、ボックス式動輪への換装というものもあった)、原型に近い車輌を見つけるのは困難であったとされる。
[編集] 主要諸元
- 全長 19,994mm
- 全高 3,800mm
- 軸配置 2C1(パシフィック)
- 動輪直径 1750mm
- シリンダー(直径×行程) 530mm×660mm
- ボイラー圧力 13.0kg/cm²
- 火格子面積 2.53m²
- 全伝熱面積 167.8m²
- 過熱伝熱面積 41.4m²
- 全蒸発伝熱面積 126.4m²
- 煙管蒸発伝熱面積 115.0m²
- 火室蒸発伝熱面積 11.4m²
- ボイラー水容量 5.8m³
- 大煙管(直径×長サ×数) 140mm×5500mm×18
- 小煙管(直径×長サ×数) 57mm×5500mm×18
- 機関車運転重量 67.75t
- 動輪軸重(最大) 14.61t
- 炭水車重量 43.87t
- 機関車性能:
- シリンダ引張力 11700kg
- 粘着引張力 10860kg
- 動輪周馬力 1175PS
- 最高速度 95km/h(試験最高速度 99.1km/h)
[編集] 製造年・メーカー一覧
C51(18900)形製造年別両数一覧 | ||
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製造年 | 両数 | 累計 |
1919 | 3 | 3 |
1920 | 12 | 15 |
1921 | 37 | 52 |
1922 | 27 | 79 |
1923 | 70 | 149 |
1924 | 26 | 175 |
1925 | 10 | 185 |
1926 | 42 | 227 |
1927 | 54 | 281 |
1928 | 8 | 289 |
C51(18900)形製造所別番号一覧 | ||
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製造所 | 両数 | 機関車番号 |
浜松工場 | 18 | 18900~18917 |
汽車会社 | 249 | 18918~18999、28900~38910、 38917~38939、38944~38964、 38969~38980 |
三菱造船所 | 22 | 38911~38916、38940~38943、 38965~38968、(38981~38988) |
合 計 | 289 | ()内のものは最初からC51 282~289号機として落成 |
[編集] 保存機
廃車が早かったため公園や公共施設での保存車は皆無だが、鉄道保存展示施設や鉄道施設での保存例はある。5号機が青梅鉄道公園に、44号機が秋田総合車両センターに、85号機が鹿児島総合車両所に、お召機の239号機が梅小路蒸気機関車館に保存されている。
[編集] お召機の239号機
本機は1962年10月に廃車となったが、その歴史的経緯から解体されることなく新潟鉄道学園に保存され、教習用にボイラを切開して展示されていた。2年後に起きた新潟地震では被災したものの、見事に復旧されている。1972年梅小路入りに際し、長野工場で整備された。静態保存が前提であったため、ボイラ周囲を新製のうえ搭載された、内部までは完全に修復されておらず、車籍も復帰していない。
お召仕様としての数々あった特殊装備は新鶴見区からの転出時に一般化改装され、炭水車は水槽容量の大きい20m³形のままであったが、晩年さまざまな改造を施されて老醜をさらした僚機の多い中にあって、形態はまた及格点を保ったものである。
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の制式蒸気機関車 |
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タンク機関車 |
960・1000II・1070・1150・B10・B20/2700II・2900・3500・C10・C11・C12/4100・4110・E10 |
テンダー機関車 |
6700・6750・6760・B50 8620・8700・8800・8850・8900・C50・C51・C52・C53・C54・C55・C56・C57・C58・C59・C60・C61・C62・C63(計画のみ) 9020・9550・9580・9600・9750・9800・9850・D50・D51・D52・D60・D61・D62 |