フランス東インド会社
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フランス東インド会社(Compagnie française des Indes orientales、1664年~1769年)はフランスの重商主義政治家ジャン=バティスト・コルベールが立案し、1664年ルイ14世によって認可された国営貿易会社。資本金1,500万トゥール・リーブル(約60万英ポンド)。イギリスやオランダより半世紀以上遅かったが、東半球における商業利権獲得をめざした。
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[編集] 概説
フランス東インド会社はインド洋のブルボン島(現・レユニオン)やフランス島(現・モーリシャス)を中継地として占領し、インド東海岸のポンディシェリを拠点に勢力拡大を図った。フランス領インドの基礎を築いたのは1674年から1706年までポンディシェリ商館長(のち長官)として在任したフランソワ・マルタンとされる。
東南アジアではタイのアユタヤ王朝に食い込み、ナーラーイ王の改宗をめざして相互に外交使節を交換した。ルイ14世の宮廷を訪れたアユタヤ使節はフランス貴族たちの関心を集めた。1687年アユタヤに到着したフランス使節はメルギに軍を駐留することを認められたが、1688年の宮廷クーデターによって仏教勢力が盛り返しタイを追われた。
18世紀前半にはフランス領インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスがカーナティック同盟を結んで南インド諸侯を傘下に収め、一時は中部・南部インドでイギリス勢力を圧倒した。デュプレクスはまた下ビルマのパゴー(ペグー)を都とするモン人王国に援助を与えてビルマ進出も図ったが、アジアでの多大の出費を嫌う本国政府によって召還される。その後、上ビルマから南下したコンバウン王朝のアラウンパヤー王がフランス商館のあるシリアム港を占領し、救援に向かったフランス船2隻が拿捕され、200名のフランス兵が捕虜となった。
ヨーロッパで七年戦争が始まると、インドでも英仏の戦闘が再開され、イギリス東インド会社のロバート・クライブがベンガルにおけるプラッシーの戦いで決定的な勝利を収めた。仏軍は英領マドラスを占領して一時は盛り返したが、結局本拠地ポンディシェリを英軍に奪われ、1763年のパリ条約でほとんどのインド植民地を喪失した。ただ南インドのポンディシェリとシャンデルナゴルなどに非軍事的な拠点を占有するとこを認められている。(現・ポンディシェリ連邦直轄州。)1769年フランス東インド会社は財政的な困難のため解散した。フランス革命の20年前であった。
[編集] 主要年表
- 1662年 フランス・イエズス会宣教師アユタヤ駐在
- 1664年 フランス東インド会社設立
- 1665年 レユニオン島植民開始
- 1673年 ポンディシェリに商館開設
- 1674年 フランソワ・マルタン、ポンディシェリ商館長に就任(~1706年)
- 1680年 アユタヤのナライ王外交使節をフランスに派遣(途中、遭難)
- 1680年 フランス東インド会社、アユタヤに使節派遣
- 1684年 第二次アユタヤ使節フランスに派遣
- 1685年 シュヴァリエ・ド・ショモン率いるフランス使節アユタヤ到着、泰仏貿易条約締結
- 1686年 第三次アユタヤ使節フランスに派遣
- 1687年 フランス東インド会社取締役を長とするフランス使節アユタヤ到着、泰仏新条約締結
- 1688年 アユタヤ宮廷革命、フランスとの関係冷却化
- 1693年 オランダ東インド会社、ポンディシェリを占領
- 1697年 リズウィック条約によりポンディシェリ返還
- 1724年 中国広東に商船派遣
- 1740年 フランス島(モーリシャス)占領
- 1741年 オーストリア継承戦争(~48年)
- 1742年 デュプレクス、ポンディシェリ長官に就任
- 1744年 第一次カーナティック戦争(~48年)
- 1749年 第二次カーナティック戦争(~54年)
- 1750年 デュプレクス、南インド総督に就任
- 1751年 下ビルマのモン王国と援助条約締結
- 1754年 デュプレクス解任、イギリスと停戦
- 1756年
- ビルマのアラウンパヤー王シリアム港を占領し、フランス船2隻を拿捕
- 七年戦争(~63年)。第三次カーナティック戦争(~63年)
- 1757年 プラッシーの戦い
- 1758年 仏軍マドラス占領
- 1760年 英軍ポンディシェリ包囲(翌年占領)
- 1763年 パリ条約によりいくつかの商館を除き、すべての領土喪失(ポンディシェリは返還)
- 1769年 フランス東インド会社解散
- 1954年 フランス政府、ポンディシェリとシャンデルナゴルなどの行政権をインドに返還
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- フランス東インド会社博物館(フランス語)