アリエル・シャロン
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アリエル・シャロン(Ariel Sharon, אריאל שרון, 1928年2月26日 - )は、イスラエルの政治家。前のイスラエル首相(在任:2001年3月7日 -2006年4月16日,2期つとめる )。生名アリク・シュナイダーマン Arik Schneidermann。右派政党のリクード党首であったが、現在は離党しカディマを結成している。
イスラエル史上、最もパレスチナに強硬姿勢を貫くタカ派政治家と言われているが、イスラエルの歴史上初めてパレスチナ国家の独立を明言した首相でもある。パレスチナ自治政府が不法な武器を徴収してテロを放棄させるまでは、パレスチナ首脳部との和平交渉には応じないというのが方針である。
イスラエルにおけるシャロンの人気の根底にあるものは、イスラエルが経験した全ての戦争に参加し赫赫たる戦果を上げたという事実と、もしシャロンが辞任した場合、さらに過激で、かつパレスチナに対する妥協を一切認めないベンヤミン・ネタニヤフ元首相(愛称・ビビ)が復帰するという恐れである。
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[編集] 経歴
イギリスのパレスチナ委任統治時代の1928年、パレスチナのキブツ(集団農場)であるクファル・マラル村にロシア系移民の長男として生まれる。家庭は熱心なシオニストであった。
[編集] 軍人時代
1942年にユダヤ人の自衛組織であるハガナ(のちのイスラエル国防軍)へ入隊、軍事訓練を受ける。1948年にイギリスがパレスチナより撤退し、シオニスト指導者ベングリオンがイスラエル独立を宣言を行った。それにより、周辺アラブ諸国との第一次中東戦争に突入すると、アリエルも歩兵中隊長として従軍、ラトルン要塞攻防戦にて負傷している。第一次中東戦争でパレスチナにユダヤ人国家が建国されると、アリエルは1952年から翌年までヘブライ大学で法学・東洋史・地政学などを学ぶ傍ら、新設された情報機関に所属して活動していたと言われる。
1953年にはイスラエル国防軍に復帰し、エジプトのスエズ運河国有化を巡ってイギリス・フランス・イスラエルが侵攻した1956年の第二次中東戦争(スエズ戦争)では第202空挺旅団を率いて、シナイ半島中部のミトラ峠に降下している。そこにおいて偵察と称して敵と戦闘を行う独断行動を行っている。ただし、峠の占領には成功している。
その後1957年に一時英国留学した。イスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンへ先制攻撃した1967年の第三次中東戦争において、シナイ半島の占拠で活躍する。1972年に退役するが、エジプト・シリアがイスラエルへ侵攻した第四次中東戦争では、イスラエル側の苦戦に接し現役復帰する。そしてスエズ運河を逆渡河する反撃作戦を立案・実行し成功を収める。その結果、シャロンは伝説的な指揮官として国民の人気を得ていくのである。
[編集] 政治家時代
1973年の国会選挙に出馬して当選、75年にはラビン政権、続く77年のベギン政権で,農水相として閣僚入りを果たす。
[編集] 国防相
1981年就任。 1982年にはエジプトとの和平実現のため、シナイ半島に建設されていた、ユダヤ人入植地ヤミット入植地を解体。入植者2000人を力づくで退去させる。 同年、PLO(パレスチナ解放機構)レバノンへ侵攻、PLOをベイルートから撤退させる。しかし、レバノンの首都ベイルートは廃墟同然に破壊された。同盟軍であったレバノン国内のキリスト教徒マロン派がパレスチナ人虐殺を行い、その際に「傍観」していたという責任を問われ、国防相辞任。
[編集] 住宅相
ヨルダン川西岸地区(「パレスチナ国家」予定地)に、積極的に主に旧ソ連からイスラエルに移民してきたユダヤ人の入植を奨励した。結果、入植地は20万人規模となる。
[編集] 首相
1984年のリクード党首選挙には敗北するが、98年のネタニヤフ政権で外相となる。99年にはリクード党首の就任を果たし、バラク政権に対抗する。99年からバラク政権はアメリカを仲介にパレスチナ和平を積極的に進める。しかし、シャロンはパレスチナ和平の気運が自治区議長のアラファトの強硬姿勢によってトーンダウンさせられたことを機に、武装護衛を引き連れて、かつてエルサレム神殿であった岩のドームがある丘(イスラム教の聖地)を訪問する。そこで、「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言し、この訪問はパレスチナ人を結果的に挑発する姿勢をとなった。岩のドームに集結したパレスチナ人は投石し、この聖地訪問を口実にアルアクサ・インティファーダを開始した。
これにより、イスラエルとパレスチナとの関係が悪化すると、バラクは辞任。テロが連発する情勢に、不安な市民の心を掴み、01年の選挙ではシャロン率いるリクードは選挙で勝利して首相に就任する。
パレスチナ過激派の巧妙な作戦による「テロの海」により、テロリストの摘発作戦ではパレスチナ地区へ国防軍を出動させざるを得ない状態に置かれ(イスラエルのパトカーだと武装グループの襲撃に遭い、またパレスチナ警察はテロリストの摘発を怠っている)、この際パレスチナの武装グループが民間人の間から先制攻撃を仕掛けるため、犠牲者が出ることになる(多くは戦闘員)。
また、テロ実行の指示を出している可能性のあるPLOアラファト議長のいる議長府立入り捜査を行おうとしたが、武装したテロリストが立て籠もり、人道的立場に配慮したイスラエルは突入ができなかったため、軟禁状態になってしまった。また、日本のマスメディアでは報道されなかったが、この時に大量のテロ指令書類が押収された。
ユダヤ・サマリア地区への防護フェンスの設置も実施するが、反イスラエル主義者や左翼的視点からは、これらの作戦が「徹底した過激派勢力の掃討作戦」「パレスチナ国家予定地内への「分離壁」の設置」「報復措置としての包囲・破壊」と非難された。
[編集] アラブ・パレスチナ側の評価
強硬策をとられたが「必要悪」であるとしている。晩年のシャロンを最も評価していたのはエジプトのムバラク大統領である。
[編集] 年譜
- 1928年2月26日 イスラエル生まれ
- 1942年 - 1948年 ハガナ防衛隊メンバー
- 1948年 - 第一次中東戦争参加
- 1949年 - 101部隊を指揮し、ガザ地区などにおけるアラブ人部隊掃討作戦で勇名を馳せる。
- 1967年 - 第三次中東戦争で指揮官を務める
- 1973年 - 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でスエズ運河逆上陸作戦を指揮、イスラエルの窮地を救う。 リクード結党に参画・国会議員に初当選
- 1977年 - 農水相として初入閣。
- 1982年 - ベギン内閣の国防相としてレバノン侵攻を指揮。ベイルート入城を果たし、PLOのアラファト議長追放に成功する。しかし、同盟軍のキリスト教マロン派によるサブラ・シャティーラ虐殺を「傍観」した責任を問われ、翌年に国防相を辞任。
- 1999年 - リクード党首に就任。
- 2001年 - 労働党のエフド・バラク首相に代わり、首相に就任。
歴代の政権で初めて、パレスチナ国家を容認。
- 2003年 - 総選挙で圧勝、首相に再任。
国会の外交・防衛委員会で、現在のパレスチナとの関係を占領と発言。ロードマップ受諾。
解散・総選挙に打って出る。同時に、リクードを脱退し、新党である中道政党カディマを設立した。
- 2006年 - 脳卒中に倒れる。エフード・オルメルトが首相代行に就任し、権限委譲。数日後に大腸虚血疾患にみまわれ、大腸を切除した。その後は意識不明状態が続いており、春に行われた総選挙に出馬できず(手続きに本人のサインが必要)、本人の意思とは無関係に政界引退を余儀なくされた。
- イスラエルの首相
- 2001年 - 2006年
-
- 先代:
- エフド・バラク
- 次代:
- エフード・オルメルト