ソマリア内戦
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ソマリア内戦(ソマリアないせん)は、1980年代から続くソマリアの内戦。
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[編集] 内戦勃発まで
1969年10月15日、シェルマルケ第2代大統領が暗殺され、その数日後にクーデターでバーレ少将を指導者とする軍部が実権を握った。1977年にエチオピアのオガデン地方に住むソマリ人がエチオピア政府に対し反乱を起こしたが、ソマリアはこれに対し軍事支援を行い、エチオピア軍と戦闘状態に陥った。結局キューバ及びソ連の支援を受けたエチオピアがソマリア軍を撃退し、ソマリアは大きな損害を受けた(オガデン戦争)。
この紛争がソマリアの窮乏化を加速させたにもかかわらず、バーレ大統領はソマリ社会主義革命党による一党独裁体制のもと、自分の属する南部のマレハン氏族のみを重用し、北部のイサックなど他の有力氏族を見捨てるような政治運営を行った。経済的にも財政破綻が顕著となり、比較的豊かなマレハンと貧しい他氏族の間で所得格差も格段に広がった。また北部産のバナナや動物を輸出して得た外貨を南部の開発のためだけに費やしたことは、後にソマリランド独立による国家の再分裂、という事態まで引き起こしてしまう。こういった地域・氏族偏重主義のバーレ政権に反抗し、1980年代初めより反政府勢力が連合し始めていく。
[編集] 内戦勃発と国際社会の対応
1982年から反政府武装闘争が表面化し、1989年にはバーレ政権の支配域もモガディシュおよびベルベラなど地方都市の一部のみとなった。1991年1月に反政府勢力統一ソマリア会議(USC)が首都を制圧。バーレ大統領を追放し、暫定大統領にアリ・マハディ・モハメドが就任。しかし暫定政権発足に際し各勢力の内部抗争が表面化し、6月には北部の旧英国領地域がソマリランド共和国として独立を宣言し、南北は再び分裂した。ちなみにバーレ元大統領はナイジェリアのラゴスに亡命していたが、1995年に死去している。
USC内でもアイディード将軍派、モハメド派が対立。アイディード派の攻撃で首都を脱出したモハメド暫定大統領は1991年12月、国連にPKO部隊派遣を要請。アイディード派はその後、武装勢力4派と政治組織ソマリア国民同盟(SNA)を結成、モハメド派も11派を傘下に入れ内戦が激化した。1992年12月、国連の安全保障理事会はPKO国連ソマリア活動のため米国軍を中心とする多国籍軍を派遣。1993年5月、武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動が展開したが、米軍がモガディシュの戦闘で失敗し撤退、国連活動も全て撤収した。1995年3月中央政府も無く首都も二分されたままで最後のPKO部隊が撤退し、国際社会がソマリア内戦に介入することが非常に困難であることを証明した。
[編集] 泥沼化
1995年3月、アイディード派の財政を支えた実業家アリ・アトが離脱、SNAは分裂した。アト派は8月に武装勢力13派と協力関係を樹立し、アイディード派との戦闘に突入。1996年8月、砲弾による負傷が原因でアイディード将軍が死亡、3男のフセイン・アイディードが後継者に。10月にはケニアが停戦協議を持ちかけたが、結局失敗。1997年12月、モハメド派、アト派、アイディード派を含む武装28派がカイロで無条件停戦などを定めた和平協定に調印。統一政府の樹立に向けて会議を開催することで合意したものの、1998年2月になって会議は延期。その後は和平協定そのものが事実上無効に。
1998年7月、北西部の氏族の一部が自治国家プントランド共和国の樹立を宣言。隣国のエチオピア、エリトリアの国境紛争の余波で、エチオピアが支援するラハンウェイン抵抗軍(RRA)が1999年6月、南西部の要衝バイドアを制圧。
[編集] ハッサン暫定政権
2000年5月、ジブチで和平会議が開催され、実業家や氏族代表らが集まり暫定政府樹立に向けて討議を行った。討議は約3ヶ月にも及んだが、最終的に暫定大統領、暫定首相、暫定議会の発足を約束した。8月には和平会議に基づき暫定議会が発足し、任期3年の暫定大統領に元内相のハッサンが就任。10月ハッサン暫定大統領はアリ・カリフ・ガライド元工業相を首相に任命、約10年ぶりに政権が発足。しかしアイディード派などの有力氏族およびソマリランドなど独立勢力は暫定政府を「ジブチの傀儡」として承認せず、その後も内戦が続いた。2001年10月には暫定議会がガライド首相の不信任案を可決、新首相にハッサン・アブシール・ファラ水資源・鉱業相が就任。
ファラ首相は2002年2月、武装勢力の代表を初めて入閣させた新内閣を発足させた。暫定政府と対立する有力氏族でつくるソマリア和解再生評議会(SRRC)は4月1日、バイドアを首都とし南西部地域自治政府の樹立を発表。いわゆる南西ソマリアが成立した。自治政府大統領にはSRRCの共同議長の1人であるハッサン・モハメド・ヌル・シャティグドゥド(RRA指導者)が就任。独立・自治宣言をし事実上分離状態に陥ったのはこれで3例目。
2002年11月にケニアで起きた同時テロでは、ソマリアのイスラム原理主義組織アル・イッティハド・アル・イスラミ(AIAI)の関与が疑われている。内戦で統治機構が崩壊し、アフガニスタンのように過激派組織の温床となっているのではないか、と米国に疑惑をもたれているが、ハッサン政権は否定している。
和平合意案がナイロビで協議されてきたが、2003年7月に4年後の連邦政府樹立などで合意しファラ首相が調印。しかしこの調印がハッサン大統領の承認無しに行われたとして大統領は首相を非難し、協議途中で帰国した。 2003年8月、ファラ首相の不信任案が暫定議会で可決されたが、ファラ陣営は出席議員数が決議に必要な数を下回っているとして無効を主張。ハッサン大統領はムハンマド・アブディ・ユスフを新首相に任命した。またハッサン大統領は同年同月に3年の任期満了をむかえても、新政権が発足するまで職に留まる意向を表明した。
[編集] ユスフ暫定政権
2004年10月10日、ケニアのナイロビで開催された暫定議会がプントランド大統領のアブドゥラヒ・ユスフを新大統領に選出。この暫定議会にはソマリランド以外の全ての勢力が参加し、正式な中央政権が成立する足がかりとなるか注目された。アイディード派からはフセイン・アイディードが副首相兼内相、アト派からはアリ・アトが住宅・公共事業相、南西ソマリアからはシャティグドゥド大統領が農相として入閣したが、暫定議会の召集に応じなかったソマリランドは反発した。
ユスフ大統領は2005年6月13日より、ナイロビに拠点を置くソマリア暫定政府の本国帰還を開始。アリー・ムハンマド・ゲーディ首相や閣僚らとともに、ソマリア内の治安回復と施政権獲得の機会を模索している。
[編集] 不安要素
現在ソマリアは国内にソマリランド共和国・プントランド共和国・南西ソマリアなどの「国家」や軍閥が乱立しており、さながら戦国時代の様相を見せる。ソマリアは元々氏族社会であるため、地域同士の対立はもちろん氏族同士での対立も頻発している。2006年6月にはイスラム原理主義のイスラム法廷会議が首都モガディシュを占領した。イスラム法廷会議はアル・カーイダとの関与が疑われており、暫定政権を推すアメリカとの対立は避けられない見通しである。また、ソマリランド共和国はアフリカ諸国の中でも異例なほどに安定した経済と民主主義による政治を行っていると喧伝しており、ソマリアとは別個の国家と主張している。