クラウディウス
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クラウディウス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)はローマ帝国の第4代皇帝である。アントニウスの孫であり、アウグストゥスの妻リウィアの孫でもある。第2代皇帝ティベリウスの弟大ドルススの息子でゲルマニクスの弟。第3代皇帝カリグラやのちに妻となる小アグリッピナには、伯父に当たる。
父や兄に似ず生来病弱で、吃音や片足を引きずるなどの癖からユリウス・クラウディウス朝に属する男性としては珍しく公務から遠ざけられ、長くエクィテスの階級に留まった。この間にエトルリア史やカルタゴ史といった歴史著述を行い歴史家としての側面を持った。カリグラの皇帝就任後、カリグラと共にコンスルに就任するなど名誉を受け、元老院議員に加えられた。カリグラが暗殺されると、近衛軍団に担がれる形で皇帝に就任した。就任に際して元老院の承認を受けたものの、実質的には近衛軍団の軍事力によって就任しており、以降、軍事力がローマ皇帝を決定する最初の例となった。歴史家らしく、知性と教養に富んだ政策を進め、ユダヤの統治問題などを解決するが、地味な仕事は評価されにくく、市民からの人気は低かった。身体の不具合から元老院議員に影響力や友誼を持っていなかったため、カエサル家の解放奴隷を積極的に行政に登用した。このことは非元老院議員の統治への関与を増大させ、皇帝への権力集中や官僚制の発達を推進した。毒キノコの中毒によって死去するが、第4番目の妻であった小アグリッピナの暗殺とする説が古代から有力視されている。
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[編集] 年表
- 紀元前10年 大ドルススと小アントニアとの間に生まれる。
- 41年 第4代皇帝に就任。「国家反逆罪法」による処罰を廃止する。
- 43年 ブリタンニア遠征を開始する。
- 44年 ブリタンニアから帰国し、凱旋式を挙行する。
- 48年 国勢調査を行う。
- 49年 姪の小アグリッピナと結婚。
- 50年 小アグリッピナの連れ子であるルキウス・ドミティウス・アエノバルブス(改称してネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス)を養子とする。
- 52年 クラウディウス水道(着工はカリグラの時代)が完成する。
- 54年 毒キノコにより死去。
[編集] 功績と汚点
近衛軍団に担ぎ出されて皇帝に就任するまで、クラウディウスはあまり目立たない存在であった。しかし、この50歳の新皇帝は即位すると同時に先帝カリグラが文字通り崩壊させたローマの財政を建て直した。また、ブリタニア遠征はクラウディウスの時代に、ユリウス・カエサル以来初めて本格的に行われ、実際にブリタニア南部の征服に成功している。のちに皇帝となったウェスパシアヌスなども、ブリタニア遠征の際に初めてその才能を見出されたことで知られている。 また、アウグストゥス以来初めてガリア出身の元老院議員の議席を認めたのもクラウディウスである。クラウディウスの時代は、ローマが文字通りの世界帝国となった、まさに絶頂期であった。
しかし、政治家としては優秀であったクラウディウスも、家庭的にはあまり恵まれていなかった。クラウディウスはその人生において4度の結婚をしたが、その妻たちはいずれも悪妻ばかりである。特に3番目の妻メッサリーナは悪女として有名で、夫の権力を使って貴族たちに関係を迫ったり、それを拒んだものは夫の名前を使って処刑したりした。また、4番目の妻小アグリッピナは権力のためだけに夫に近付き、結婚後は夫に毒キノコの料理を食べさせて暗殺したと言われている。のちに、クラウディウスの実の息子ブリタンニクスも、小アグリッピナの息子ネロによって殺された。 クラウディウスは、上記のように生来病弱で吃音や片足を引きずるなどの障害を抱えていたため、コンプレックスのあまり妻たちにはあまり強気に出られなかったようである。
[編集] 後世の評価
[編集] 参考文献
- スエトニウス『ローマ皇帝伝 第1巻(上)』国原吉之助訳、岩波書店<文庫>、1986年、339頁。
- フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌第6巻』秦剛平訳、筑摩書房<文庫>、2000年、381頁。
[編集] 関連する文学作品
[編集] 関連項目
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | ローマ皇帝 | 54年没