元老院 (ローマ)
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元老院(げんろういん、ラテン語senatus)は、古代ローマの統治機関。 世界各国の議会ないしは議院の名称として引き継がれている。
[編集] 共和政時代
共和政時代では建前上は執政官の諮問機関であったが、実質的には外交・財政などの重要な決定権を掌握していた。それはローマの国家を指して"Senatus Populus que Romanus":SPQR(「元老院とローマの市民」の意味。)と呼ぶほどであった。また元老院議員の身分は終身かつ世襲されるものであり、元老院議員達は特権階級としてローマ国家を動かしていた。
しかし、帝政時代になるとしだいに皇帝の統治に組み込まれていって地位が低下した。それでも五賢帝時代までは、「元首」である皇帝の正統性を承認する機関として重要性を持ち、トラヤヌスなどの皇帝達も元老院の権威を尊重しながら統治を行なった。だが、続く軍人皇帝の時代になって帝国各地の軍団が勝手に皇帝を擁立するようになると、帝位の承認機関としての地位も失い、ローマ市の市参事会(市議会)程度の役割しか果たせなくなっていった。
ローマ元老院は476年の西ローマ帝国の滅亡後も存続しており、西ローマを滅ぼしたオドアケル、それを滅ぼした東ゴート王国も元老院を尊重する姿勢を示していたが、イタリア半島へランゴバルト人が侵入した7世紀頃になると消滅してしまった。
[編集] コンスタンティノポリス元老院
330年のコンスタンティヌス1世による新首都コンスタンティノポリス開都に伴い、コンスタンティノポリスにも元老院が置かれたが、主に政府の高級官僚が元老院議員となっていたため、最初から皇帝の諮問機関としての役割を果たす機関であった。
このコンスタンティノポリスの元老院は東西分割後の東ローマ帝国にも引き継がれ、皇帝の不在時に国家を代表する役割を果たしたり、皇帝が後継ぎを指名せずに死去した場合に後継皇帝を指名する役割を果たした(皇帝は「元老院・軍隊・市民の推戴によってはじめて、帝位の正当性を受ける」という不文律があった。これは前述のローマ元老院の伝統を引き継いだためである)。
しかし、7世紀後半以降は一定以上の官位を持つ高級官僚を元老院議員とするようになり、元老院議員身分の世襲は認められなくなった。また、役割も儀式的なもののみとなった。しかし、あくまでも名目的ながら1453年に東ローマ帝国が滅亡するまで「元老院」という機関は存続した。