プリテイキャスト
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性別 | 牝 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1975年3月20日 |
死没 | 1995年6月 |
父 | カバーラップ二世 |
母 | タイプキャスト |
生産 | 吉田牧場 |
生国 | 日本(北海道早来町) |
馬主 | 高田久成 |
調教師 | 石栗龍雄(美浦) |
競走成績 | 41戦8勝 |
獲得賞金 | 1億7333万6400円 |
プリテイキャストは、1980年天皇賞(秋)を制した日本の競走馬・繁殖牝馬。1980年優駿賞最優秀5歳以上牝馬。
[編集] 出自
1975年3月20日、プリテイキャストは流星の貴公子・テンポイント誕生の地として有名な吉田牧場で誕生した。父は”競走馬名・セイカン”として走っていた競走馬時代は通算7戦2勝と外国産馬としてはパッとしなかったが、種牡馬入り後はリュウズキ(皐月賞・有馬記念)・ワカクモ(桜花賞…テンポイントの母として有名)と言った八大競走勝ち馬2頭(後にカシュウチカラ(天皇賞・春)が加わり3頭)を輩出した吉田牧場屈指の種牡馬カバーラップ二世。そして、母は吉田牧場が牧場の命運を賭け、経費を含めて2億円以上(同時期に輸入されたシル(マルゼンスキーの母親)のおよそ倍)の金額で購入したタイプキャストである。タイプキャストは、現役時代(1972年)にハリウッド招待ターフハンデキャップとマンノウォーステークスを制し、エクリプス賞古牝馬チャンピオンを獲得したアメリカ屈指の遅咲きの女傑で、日本到着時には身重(後に、良血故にデビュー前から種牡馬シンジケートが作られていたタイプアイバーを身ごもっていた)だったにも関わらず『このまま現役復帰してもハイセイコーに勝てる』と言われたほどの実力馬であった。
[編集] 戦績
(馬齢は旧表記に統一する。)
その血統から、テンポイントの馬主として有名な高田久成に買われたプリテイキャストは、可也の期待を受け1977年11月6日に東京競馬場でデビューを果たした。しかし、肝心の初勝利は翌1978年5月になってからで、結局牝馬クラシックには間に合わず、4歳時の見せ場は、滑り込みで出走したエリザベス女王杯で4着に粘り込んだ程度であった。古馬なっても成績は芳しくなく、1980年2月16日にやっとオープン入りするまでは条件馬に過ぎなかった。しかし、遂に遅咲きだった母の血が開花したのか3月16日にダイヤモンドステークスを7馬身差で鮮やかに逃げ切り重賞初制覇を達成した。
同年11月23日、天皇賞(秋)に出走。ムラが多い戦績故に11頭立ての8番人気と低評価であったが、最後の調教で優勝候補と目されていたカツラノハイセイコの併せ馬で叩き出したタイムを、何と単走で上回ると言う石栗龍雄調教師も勝機を感じる程の絶好調振りであった。更に、レース前日の豪雨で馬場は重馬場の上、関西から参戦予定だった鉄砲玉系逃げ馬・ハシハリーが参戦中止と言う好材料に助けられ、逃げ馬にも関わらず下手なスタートこそ何時も通り今一つだったが、前走の目黒記念(秋)で惨敗した事からマークされず、幸いに向正面では100m近い差を作り上げる大逃げを打つ事に成功した。その逃げっ振りは鞍上・柴田政人が『他馬の蹄の音が聞こえない位』と語った程である。幸か不幸か、2番手を追走していた1番人気のカツラノハイセイコ(鞍上・河内洋)と2番人気のホウヨウボーイ(鞍上・加藤和宏)が互いに牽制し合い、他の出走馬も両馬をマークする中で、敢えてプリテイキャストを捕らえようとする馬がなかなか現れず、プリテイキャストの主戦騎手でこのレースではメジロファントムに騎乗していた横山富雄が気が付いた時には既に遅く、同一距離・同一コースで行われたダイヤモンドステークスと同じ7馬身差(天皇賞史上ヒカルタカイ・ヒサトモ(共に大差)に次ぐ着差)でまんまと逃げ切ることに成功した。トウメイ以来となる牝馬による天皇賞優勝をであった。
その後は有馬記念に出走したものの、天皇賞の時とは違いスタート下手が災いし、後の名スプリンター・サクラシンゲキにあっさり先頭を奪われ戦意を喪失。結局、見せ場すら作れずブービーからも大差で離された最下位に終わった(優勝・ホウヨウボーイ)。
[編集] 引退後
プリテイキャストはこのレースを最後に引退、名牝・タイプキャストの後継繁殖牝馬として繁殖入りを果たした。しかし、繁殖牝馬としての成績は仔出しの悪さもあり不振続きで、1994年の第55回菊花賞でスティールキャストが母同様に大逃げを打って場内を沸かせたのが唯一の見せ場だった(レースは14着敗退)。結局、スティールキャスト以上の馬を輩出することはなく、癌により21年の生涯を故郷・吉田牧場で閉じた。