ラッキールーラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
性別 | 牡 |
---|---|
毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1974年2月22日 |
死没 | 1991年5月12日 |
父 | ステューペンダス |
母 | トースト |
生産 | 高橋農場 |
生国 | 日本(北海道伊達市) |
馬主 | 吉原貞敏 |
調教師 | 尾形藤吉 |
競走成績 | 24戦6勝 |
獲得賞金 | 1億5350万5700円 |
ラッキールーラは日本の競走馬。1977年の東京優駿(日本ダービー)が主な勝ち鞍である。晩年は韓国に寄贈された。
[編集] 概要
旧3歳時は6戦して2勝とあまりぱっとした成績は残せなかったが、弥生賞を勝つと頭角を現し皐月賞で2着に入る。1番人気に押されたNHK杯ではプレストウコウの4着に敗れたが、9番人気に人気を落とした日本ダービーではハードバージやカネミノブを抑えて優勝した(騎乗騎手は伊藤正徳)。この時の優勝体重534キログラムは今なお同競走優勝馬最重量である。その後は大型馬ゆえの脚部不安に悩まされたこともありオープン2勝に終わった。鞍上の伊藤は父子2代のダービージョッキーとなる。また名伯楽 尾形藤吉の最後のダービー制覇(8頭目)となった。
引退後は種牡馬となったが、活躍した産駒はトチノルーラー(きさらぎ賞)程度で、1990年に韓国に輸出された。翌1991年、事故により死亡したが、数少ない産駒の中から1996-97年韓国最優秀内国産馬タンディチェイル(当代第一)を送り出した。
馬名がラッキールーラとなったのは「ラッキーセブン」の「ラッキー」と「セブン」にちなんで7文字の馬名にしたと言われている。
[編集] 悲運の世代の悲運のダービー馬
ラッキールーラはダービーを制して世代の頂点となったが、この世代には「スーパーカー」と呼ばれながらも、当時の規則で持込馬には出走権が無いため、クラシック不出走の怪物マルゼンスキーがいた。当然ながら、多くの者がマルゼンスキーとこの世代のダービー馬である本馬の直接対決を期待したが、マルゼンスキーも脚部不安で早々に引退している為、ついにレースコースでの直接対決は幻に終わった。この為、両馬と対戦した他馬を定規としたマルゼンスキーとの机上の比較がマスコミや競馬ファンにより行われることとなり、さらにはダービーの優勝タイムが同年前週のオークスを0.6秒も下回った事などから、ラッキールーラの評価が不当に低く貶められる事となり、ずっと後年に至り「悲運のダービー馬」などと形容される事となった。
また、皐月賞馬ハードバージも競走生活引退後の種牡馬生活が不調で、最後はショーや馬車の使役馬に転用され斃死するという悲劇的な運命を辿った事で有名である。その他、マルゼンスキーがクラシックに出れないばかりに裏街道路線に終始し、この世代の評価を押し下げる要因となってしまった事も含めて、後年、この世代の牡馬は全体が「悲運の世代」として語られる事が少なくない(因みに1977年クラシック組の牝馬は逆に史上最強世代と謳われた錚々たる牝馬たちが揃っていた)。
- 西暦末尾が7の年のクラシック世代の不幸説
一時期、競馬マスコミなどで、「西暦末尾が7の年のクラシック戦線の牡馬たちは不幸の世代になる」と、ジンクスの様に言われた事がある。この際にラッキールーラは「マルゼンスキーの影に消えた悲運のダービー馬」として最も象徴的に扱われる事が多かった一頭である。
因みに、クラシックレースが始まって以降、西暦末尾が7の年のクラシック世代の牡馬は下記の様な状況である。
- 1937年組
- クラシック体系が整っていなかったこの時代、牝馬初のダービー馬・ヒサトモが誕生。しかも、2着も牝馬・サンダーランドで現在まで唯一のダービー牝馬ワンツーと言う屈辱的結果に終わった(尤も、秋の第1回帝室御賞典ではダービー12着のハツピーマイトが借りを返している)。だが、戦争の動乱に巻き込まれたヒサトモは繁殖牝馬失敗の烙印を押されただけで無く、食い扶持を稼ぐ為に現役復帰した地方競馬で過労死すると言う悲劇に巻き込まれる。因みに、この頃は馬資源増強が重要視されていた為に繁殖能力に支障が無ければ牝馬は冷遇されなかったが、牡馬は血統に問題が有ると成績如何に関わらず戦場送りされる例が多かった(代表例:カイソウ)。
- 1947年組
- この年は、皐月賞をトキツカゼ・菊花賞をブラウニーと牝馬が制し、ダービーもマツミドリの2着・3着と牡馬不遇の年であった。しかも、引退後はトキツカゼこそ2頭の年度代表馬輩出で気を吐くものの、マツミドリは伝貧発症で代表産駒を残す事無く殺処分、ブラウニーもサラ系故に後継馬を出せずに終わっている。
- 1957年組
- この年は1977年と同様の事態であった。同い年の馬ではあるが、アラブの怪物と呼ばれたセイユウが大活躍、アラブ相手に15連勝、さらにはサラブレッドに挑戦し、七夕賞、福島記念と勝利、さらにセントライト記念ではダービー3着のギンヨク、NHK杯2着のラプソデーなど菊花賞を目指す有力馬たちを撃破。菊花賞ではセイユウに敗れたラプソデーが優勝したことから、「菊花賞馬よりも強いアラブがいる」という事になってしまい、サラブレッドの最強馬がラプソデー、それよりも上に事実上の4歳最強としてアングロアラブのセイユウが存在するという状態になってしまった。さらにラプソデーは翌年の秋、休養のために滞在していた伊豆の大仁温泉の牧場で狩野川台風の直撃を受け、大雨による鉄砲水に巻き込まれ、一命こそ取り留めたものの競走馬としては引退に追い込まれた。
- 1967年組
- 3歳時にクラシック有望と言われた有力馬が皐月賞を前に故障で次々と戦線離脱、クラシック戦線はサバイバルの様相を呈したが、出走馬のレベルそのものは非常に凡庸と言われた。しかも、馬丁(現在でいう厩務員)の労働組合がストライキを行い、これによりレース日程が大幅に狂わされ、有力馬にも体調を崩す馬が続出する。これにより皐月賞とNHK杯、桜花賞が同日開催、そこから中1週で土曜日にオークス、翌日曜にダービーを開催するという強行日程になるなど、この世代のクラシック競走は日本近代競馬史上最悪といわれる大混乱に陥った。挙句にこの世代を最も象徴するのが、その頂点たるダービー馬アサデンコウで、そのダービーのレース中に重度の骨折を負って馬運車でターフから運び出され、その後レースに戻る事が無かった。
- また秋になっても、セントライト記念を制して菊花賞戦線の最有力馬に躍り出た3歳チャンピオンのモンタサンが飼料への農薬付着により中毒に倒れ菊花賞出走を断念するなど、アクシデントが尽きなかった。
- 1977年組
- マルゼンスキーの影にクラシック競走は存在そのものが霞んでしまった悲運の世代。
- 1987年組
- 皐月賞上位3頭(サクラスターオー・ゴールドシチー・マティリアル)の生涯に象徴され、もはや悲劇の世代とまで呼ばれる(サクラスターオーを参照)。しかも、世代最強の座はクラシック不出走のタマモクロス・イナリワンに奪われてしまう。
- 1997年組
- 世代レベル的に凡庸と言われたが、その出走馬の中からサイレンススズカという名馬を輩出。しかし、そのサイレンススズカは後にレース中の事故で粉砕骨折、予後不良。二冠馬サニーブライアンはダービー後故障の為に復帰できぬまま引退、菊花賞馬マチカネフクキタルもその後は不振に陥り未勝利に終わった。また、この世代の牡馬クラシックに出走した馬では、クラシック二冠のサニーブライアン以外にGI競走を2勝以上した馬はおらず、後年の世代間の比較でも低レベルであったと評価されている。
[編集] 血統表
ラッキールーラの血統 ボールドルーラー系/Pharos 5×5=6.25%, Royal Minstrel 4×5= 9.38% | |||
父
*Stupendous 1963 青毛 |
Bold Ruler 1954 鹿毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Miss Disco | Discovery | ||
Outdone | |||
Magneto 1953 青鹿毛 |
Ambiorix | Tourbillon | |
Lavendula | |||
Dynamo | Menow | ||
Bransome | |||
母
トースト 1959 鹿毛 |
ハクリョウ 1950 鹿毛 |
*Primero | Blandford |
Athasi | |||
第四バツカナムビユーチー | ダイオライト | ||
バツカナムビユーチー | |||
Flower Wine 1950 鹿毛 |
Vino Puro | Polemarch | |
Vainilla | |||
Mimosa | Royal Minstrel | ||
Bryonia FNo.13-c |