テンポイント
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1973年4月19日 |
死没 | 1978年3月5日 |
父 | コントライト |
母 | ワカクモ |
生産 | 吉田牧場 |
生国 | 日本(北海道早来町) |
馬主 | 高田久成 |
調教師 | 小川佐助(栗東) |
競走成績 | 18戦11勝 |
獲得賞金 | 3億2841万5400円 |
テンポイント(1973年 - 1978年)は、日本中央競馬会に所属した競走馬。通称は流星の貴公子。トウショウボーイ・グリーングラスと共にTTG時代を作り、一世を風靡した。
目次 |
[編集] 馬名の由来と期待度の大きさ
馬名の由来は、当時新聞の本文活字が8ポイントだったことから、ベタ記事ではなく、見出しになるような馬になって欲しいということから「10point」と名付けられたもの。母ワカクモは桜花賞馬。祖母は伝貧(馬伝染性貧血)誤診事件で有名なクモワカ(繁殖名:丘高)である。その血統と美しい馬相からデビュー前から非常に期待が高かった。
[編集] テンポイント戦記
年齢は旧表記に統一する。
[編集] 3歳
1975年8月17日の函館の新馬戦で鹿戸明騎手(現・調教師)を鞍上にデビュー、期待に応えて10馬身差のレコードと言う最高のデビューを飾る。鹿戸の負傷により武邦彦に乗り変わる東京優駿(日本ダービー)を除き、全て鹿戸とコンビを組んだ。11月9日の京都・もみじ賞も勝ち、2連勝で迎えた阪神3歳ステークス(現阪神ジュベナイルフィリーズ。当時は関西最強の3歳を決めるレースだった)でも大差を付けて圧勝。杉本清アナウンサーの興奮したアナウンス「見てくれこの脚、これが関西の期待テンポイントだ」が有名である。当時は関東馬が圧倒的に強く、東高西低と呼ばれていた程で、テンポイントにかかる期待が非常に高かった。この実況が関東でも少なからず評判となり、ポリドールレコードがこれを基にした競馬のレコードを作ることになり、関係者が後述の東京4歳ステークス(現共同通信杯)に応援の横断幕を東京競馬場に持っていった。これが、現在のパドックでの横断幕の嚆矢とされる。
[編集] 4歳
1976年、関西の期待を背負って東上し、東京4歳ステークスで後の東京優駿(日本ダービー)優勝馬クライムカイザーを退け、スプリングステークスも勝ち2連勝し、皐月賞(厩務員のストライキの影響で一週日程が繰り延べになり東京競馬場で開催された)に1番人気で挑むが、ライバル・トウショウボーイに5馬身差の2着という完敗を喫した。関西所属故の情報戦不利が響いた所もあるが、そのレース内容はハンデが無くてもテンポイントの勝機は薄かったと言えよう。再び両雄の対決する東京優駿(日本ダービー)は非常に注目されたが、両者ともクライムカイザーに敗れる波乱となった。1番人気の座をトウショウボーイに取られた上、主戦騎手落馬負傷で意気消沈したのかテンポイントは7着に沈み、しかも大事には至らなかったとは言えレース中に骨折していた。二度の大敗でテンポイントの評価はがた落ちし、トウショウボーイとは一歩も二歩も差をつけられることになる。秋は復帰初戦の京都大賞典(生涯最低人気の6番人気)3着を経て、雪辱を期して菊花賞に単枠指定されたトウショウボーイ・クライムカイザーから離された3番人気で挑む。トウショウボーイを交わして最後の直線で先頭に立った時は勝ったかに見えたが、内埒を伸びてきた伏兵グリーングラスに敗れる。続く有馬記念では1番人気で望んだトウショウボーイが圧倒的な強さを見せレコードタイムで完勝。無冠故に3番人気のテンポイントは2着に完敗する。
[編集] 5歳
1977年、京都記念(春、当時は春秋2回施行)、鳴尾記念と連勝し臨んだ天皇賞(春)ではグリーングラスに雪辱し、ようやく4歳以降で初めての大レースを勝つことが出来た。しかし天皇賞(春)にはトウショウボーイ(脚部不安で休養中)が出ておらず、完全な名誉挽回ではなかった。次の宝塚記念で休養明けのトウショウボーイと対決するが、レースはトウショウボーイがスローペースで温存したスタミナを後半に爆発、ラスト3ハロンを何と34秒5で駆け抜けられ最後迄二番手のまま再び敗れる。ここに至り「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てない」等と囁かれる様になった。そしてトウショウボーイが引退レースと決めていた有馬記念を迎え、ここで負けてしまえば雪辱のチャンスはもう無い事になる。このレースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイのマッチレースとなり、両者とも一歩も引かずに抜きつ抜かれつを続け、他の馬など眼中に無い状態であった。最後の直線でテンポイントが抜け出し、ついにトウショウボーイを下して雪辱を果たした。このレースは今も中央競馬史上最高の名勝負と呼ぶ人も多い。(レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照)
そしてこの年、満票でテンポイントは年度代表馬に選出された(満票で年度代表馬に選ばれたのは、テンポイントと1985年のシンボリルドルフ、2000年のテイエムオペラオーの3頭がいる)。
[編集] 最期
とうとう宿敵を下したテンポイントは海外遠征を目標とし、年初からヨーロッパに渡る予定だったが、国内最後の勇姿を見たいという関西圏のファンの声に後押しされ、国内最後の顔見せレースとして年明けの日経新春杯を選んだ。小雪舞うこのレースで、テンポイントは66.5kgと言う斤量(他馬よりも10キロ以上も重いハンデキャップ)を背負わされた(陣営は66kgを超えたら出走を辞退するつもりだったが、1kg未満だった為、止むを得ず出走に踏み切ったとされる)。しかし、それでも軽く勝つだろうと楽観視されていた。レースの序盤は勢いよく先頭を切っていたが、第四コーナーを差し掛かった所、がくんとスピードが落ち、左後肢を故障し競走中止(重い斤量が要因の一つと言われているが、詳細の骨折原因は未だに不明)。テンポイントの骨は粉々になり手の施しようが無いほどの重傷を負ってしまった。通常ならば即座に予後不良としての安楽死処置が取られるが、スタンドからの「テンポイントを殺さないでくれ!」という競馬ファンの声に、一旦馬運車で厩舎へ。オーナーの高田久成は処遇を一晩考え抜いたが、何とか命だけは、テンポイントに子孫を残して欲しいと関係者・ファンからの嘆願が相次ぎ、また、翌日朝刊の朝日新聞が三面トップでこの種の事故としては極めて異例の大記事の扱いとしたその反響も極めて大きく、通常ならばあり得ない大獣医師団を編成する医療体制がとられ手術は成功した(当時の医療技術レベルでは、成功する確率は殆ど無かった)。闘病中からその名を凌ぐ大きな活字の見出し病状が報じられ、連日厩舎に千羽鶴や人参などが届けられたが、重い体重を三本の足で支えたがゆえに発症した蹄葉炎が悪化し、1978年3月5日朝、ついに力尽きた。これは安楽死ではなく自然死であった。その死はスポーツ紙のみならず一般マスコミでも極めて大きく報じられ、競馬に造詣の深かった作家・寺山修司も「さらば、テンポイント」という詩を記してその死を悼んだ。
現在、生まれ故郷の北海道・早来町の吉田牧場に墓が建立され、テンポイントはそこに眠っている。死後四半世紀を超えた現在もその墓地に献花に訪れるファンは絶えない。
死後、1990年に顕彰馬に選定された。なお、1984年の顕彰馬制度の第1回選定会議の際には、かつての宿命のライバルであるトウショウボーイはテンポイントに先んじて選定されたが、対してテンポイントは選から漏れている。『トウショウボーイ産駒のミスターシービーが1983年に三冠達成』が引き起こした結果であるが、関西圏を中心とした競馬ファンや競馬マスコミから猛烈な反発と批判が巻き起こり、ひいては当時の顕彰馬選考のシステムや制度そのものへの批判にまで発展してしまった。これは1990年にこれら過去の競走馬を対象とする選定会議が再び開催され、テンポイントの他、コダマやマルゼンスキーなとが再評価の上、選定される切っ掛けとなった原因の一つである。
[編集] 影響
骨折2回(しかも、2回目は死に直結した)の影響から信じられないかも知れないが、テンポイントは猛トレーニングに耐えられる身体を持っていた。その原動力となったのがアウトブリードである(代表例:タケシバオー)。ハイペリオンの奇跡の血量を持つインブリードの代表格・トウショウボーイとは対照的である(因みに、同期のライバル・グリーングラスはハイペリオンとネアルコのクロスを持つインブリード、クライムカイザーはマンノウォー系のアウトブリードである)。サンデーサイレンスが日本で種牡馬として成功した理由として、『日本の主流血統から外れている(アウトブリードしやすい)』がある。昨今は故障を嫌ってか丈夫な馬優先の風潮が強く、極端なインブリードは避ける事が多くなっている(ラムタラの日本での種牡馬としての失敗は、日本繁殖牝馬の主流となっているノーザンダンサーの血を多く持ち過ぎていた故である)。
又、日経新春杯での骨折後にとられた医療体制(手術・療養)によって、馬を初めとする単蹄目に関する獣医学が大きく進歩したのは見逃せない。現在では骨折イコール安楽死ではなく、脚にボルトが埋まったまま活躍する馬(代表例:ヤマニングローバル…つまり、テンポイントはミスターシービーの子…トウショウボーイの孫を助けた事になる)も出てきた。『当時この技術が存在していたならば、テンポイントは助けられたかもしれない』と言われる治療技術(エイシンワシントンの救命と種牡馬供用成功などが典型例)の確立にテンポイントは貢献したのである。更に、日経新春杯の悲劇以降ハンデキャップ競走等の負担重量についても再検討され、近年ではハンデキャップ競走で60kgを超える斤量を背負う馬は相当少なくなっている。また現在ではGI馬でも余り負担が掛からない別定戦が多く設けられているが、これもテンポイントの故障の衝撃が、制度の改善を促した例であると言われている。
テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスが鎬を削った所謂「TTG世代」が最強世代だと評価する競馬ファンは、多くの名馬の時代を経た現在もなお多く、その中でもテンポイントが一番強いと主張する意見も関西を中心に根強い。更に、皐月賞でのテンポイント敗戦の際、関西の競馬関係者やマスコミは当時の競馬の東高西低の情勢について、栗東トレーニングセンターの調教コースの直線に坂が無い為であると指摘した(当時は美浦トレーニングセンターはまだ無く、勝ち馬トウショウボーイを初めとする関東馬は坂のある東京・中山競馬場で調教されていた)。これが後の栗東トレーニングセンターの坂路コース造成、ひいては坂路調教による関西馬全盛の時代に繋がったとも言われている。
テンポイントという名馬の存在は、競争成績以上に大きなものを後世に残したと言える。
[編集] 競走成績
年月日 | レース名 | 着順 | 騎手 | 距離 | タイム | 着差 | 1着馬(2着馬) |
1975年8月17日 | 新馬戦 | 1着 | 鹿戸明 | 芝1000m | R58.8 | 10馬身 | (グランドヤマト) |
11月9日 | もみじ賞 | 1着 | 鹿戸明 | 芝1400m | 1:25.4 | 9馬身 | (タカミオーラ) |
12月7日 | 阪神3歳ステークス | 1着 | 鹿戸明 | 芝1600m | 1:37.1 | 7馬身 | (ゴールデンタテヤマ) |
1976年2月15日 | 東京4歳ステークス | 1着 | 鹿戸明 | 芝1800m | 1:49.6 | 1/2身 | (クライムカイザー) |
3月28日 | スプリングステークス | 1着 | 鹿戸明 | 芝1800m | 1:52.4 | クビ | (メジロサガミ) |
4月25日 | 皐月賞 | 2着 | 鹿戸明 | 芝2000m | 2:02.4 | 0.8秒 | トウショウボーイ |
5月3日 | 東京優駿(日本ダービー) | 7着 | 武邦彦 | 芝2400m | 2:29.6 | 2.0秒 | クライムカイザー |
10月17日 | 京都大賞典 | 3着 | 鹿戸明 | 芝2400m | 2:27.4 | 0.1秒 | パッシングベンチャ |
11月14日 | 菊花賞 | 2着 | 鹿戸明 | 芝3000m | 3:10.3 | 0.4秒 | グリーングラス |
12月19日 | 有馬記念 | 2着 | 鹿戸明 | 芝2500m | 2:34.2 | 0.2秒 | トウショウボーイ |
1977年2月13日 | 京都記念(春) | 1着 | 鹿戸明 | 芝2400m | 2:27.2 | クビ | (ホシバージ) |
3月27日 | 鳴尾記念 | 1着 | 鹿戸明 | 芝2400m | 2:32.6 | クビ | (ケイシュウフオード) |
4月29日 | 天皇賞(春) | 1着 | 鹿戸明 | 芝3200m | 3:21.7 | 3/4身 | (クラウンピラード) |
6月5日 | 宝塚記念 | 2着 | 鹿戸明 | 芝2200m | 2:13.1 | 0.1秒 | トウショウボーイ |
10月16日 | 京都大賞典 | 1着 | 鹿戸明 | 芝2400m | 2:27.9 | 8馬身 | (サイコームサシ) |
11月12日 | オープン | 1着 | 鹿戸明 | 芝1800m | 1:47.5 | 1 3/4身 | (ロングホーク) |
12月18日 | 有馬記念 | 1着 | 鹿戸明 | 芝2500m | 2:35.4 | 3/4身 | (トウショウボーイ) |
1978年1月22日 | 日本経済新春杯 | 中止 | 鹿戸明 | 芝2400m | 競走中止 | ジンクエイト |
[編集] エピソード
全弟キングスポイントは中山大障害を連覇するなど障害レースで活躍し『障害の貴公子』と呼ばれたが、1984年春の中山大障害で故障。予後不良となって兄の後を追うという数奇な運命を辿った。
又、競争生活は決して良くなかった全弟ウエスタンポイントが種牡馬になれたのも、テンポイントの影響力があってのものであろう(似たような例として、『ハイセイコーの半弟の珍名馬アアセイコーが種牡馬入り』が挙げられる)。
テンポイントの影響力は全兄弟だけでは無く、母ワカクモ産駒の末裔達にも及んでいる。オキワカ産駒のワカテンザン・ワカオライデン、オキワカの孫に当たるフジヤマケンザン、ワカオライデン産駒のライデンリーダーの人気の高さには、テンポイントの威光もあると言えよう。この過大の期待が、彼らの戦跡に多少の悪影響を与えたのは残念な事である。
テンポイント以後も暫く続いた関東馬優勢の時代、関西の競馬界や競馬マスコミではテンポイントを物差しにしてクラシック候補を探していた時期があり、熱心に『テンポイント2世』を探す動きが見られた。しかし、真に『テンポイントの再来』との称号を与えられたのはサッカーボーイだけであった。栗毛の馬体、派手な勝ちっぷりはその称号に相応しいものであったが、競走生活では脚部不安など不運に悩まされ不完全燃焼の結果に終わった。しかし、テンポイントとは違う次元での強さを見せ、種牡馬としても成功した名馬である。
又、『テンポイント2世』という言葉は血統背景等から期待される新馬のデビュー前にマスコミが付けてしまう時があり、後に競馬史に残る名馬となったナリタブライアンもそのデビュー戦にあっては、この触れ込みで出てきたテンポイントの近親であるジンライに1番人気を譲っている。
母系に関しては、祖母丘高、母ワカクモの系統からは、
- ワカクモ→オキワカ(テンポイントの姉)→ワカオライデン(朝日チャレンジカップなど、ライデンリーダーの父。地方競馬リーディングサイヤー)
- 丘高→オカクモ(ワカクモの妹)→ベゴニヤ→ダイアナソロン(桜花賞)
- ワカクモ→オキワカ→ワカスズラン→フジヤマケンザン(香港国際カップなど)
などを輩出しており、現在でも吉田牧場の屋台骨を支える基幹牝系となっている。
[編集] 血統表
テンポイントの血統 (ナスルーラ系/アウトブリード) | |||
父
*コントライト Contrite 1968 鹿毛 |
Never Say Die 1951 栗毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Singing Grass | War Admiral | ||
Borealle | |||
Pentience 1961 鹿毛 |
Petition | Fair Trial | |
Art Paper | |||
Bootless | The Cobbler | ||
Careless Nora | |||
母
ワカクモ 1963 鹿毛 |
*カバーラップ二世(セイカン) Cover Up II 1952 黒鹿毛 |
Cover Up | Alibhai |
Bel Amour | |||
Betty Martin | Hollyrood | ||
Rhoda F. | |||
丘高(クモワカ) 1948 鹿毛 |
*セフト | Tetratema | |
Voleuse | |||
月丘(エレギヤラトマス) | Sir Gallahad | ||
星若 F-No.3 |
[編集] 関連商品
[編集] 関連項目
日本中央競馬会・顕彰馬 |
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