ミスターシービー
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1980年4月7日 |
死没 | 2000年12月15日 |
父 | トウショウボーイ |
母 | シービークイン |
生産 | 千明牧場 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | (株)丸沼温泉ホテル |
調教師 | 松山康久(美浦) |
競走成績 | 15戦8勝 |
獲得賞金 | 4億959万8100円 |
ミスターシービーは、日本の競走馬・種牡馬。「ミスターシービー」という名には、生産者である千明(ちぎら)牧場を代表する馬という意味が込められており、同名・同生産者の競走馬(父:プライオリーパーク)が第6回東京優駿大競走に出走しているが、残念ながら初代の東京優駿大競走の成績は10着敗退に終わっている(優勝・ヒサトモ)。因みに、馬主でもある千明牧場の代表である千明大作の父・千明康は1963年にメイズイで、祖父の千明賢治は1938年にスゲヌマでそれぞれ東京優駿競走(日本ダービー)を勝っており、馬主の親子三代での日本ダービー勝利は唯一の例である。さらに、調教師・松山康久の父・吉三郎は1962年の日本ダービーをフエアーウインで制しており、こちらも史上唯一の親子二代ダービートレーナーとなっている。また、父内国産馬の三冠馬はミスターシービーのみである。1986年、顕彰馬に選出された。
英文馬名は「Mr.C.B」と言う珍しい表記である。
目次 |
[編集] 出自
ミスターシービーの母シービークインは父トウショウボーイと同じ新馬戦(このレースには、後にトウショウボーイ・テンポイントと共に「TTG」と呼ばれたグリーングラスが出走していた事でも知られている)でデビューし、その強さに感激したシービークインの馬主が引退後にトウショウボーイの父・テスコボーイとの配合を目指したが、「お助けボーイ」の異名を持つ人気種牡馬テスコボーイの種付権を確保出来ず頓挫。已む無く、権利は持っていなかったものの空きがあった売り出し途上のトウショウボーイを代用で付けた。ミスターシービーの配合は、偶然の悪戯によって為されたのである。
シービークインは4歳牝馬特別・毎日王冠・京王杯スプリングハンデキャップを逃げ切るなどスピードにあふれた牝馬であったが、初仔であるミスターシービー以降については、第2子(父ナスルエルアラブ)の出産時のアクシデント(結果死産)の影響でその後は種付けしても不受胎が続き、短い繁殖生活の引退迄、終にミスターシービー以外の子供に恵まれず、「初恋の人(トウショウボーイ)に操を立てた」ともいわれる。6頭いる三冠馬のうち、兄弟がいないのはミスターシービーだけである。
[編集] 戦績
1982年、美浦・松山康久厩舎から競走馬としてデビュー。主戦は吉永正人が新馬戦から引退までつとめた。1983年の4歳(現表記3歳)牡馬クラシック戦線をリードし、1964年のシンザン以来となる中央競馬クラシック三冠(皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞)を制した。その戦いぶりはすさまじく、皐月賞は不良馬場のなかを追い込んで勝ち、東京優駿(日本ダービー)では出遅れて最後方からのスタートとなるものの、直線追い込んで快勝するが、タケノヒエンの斜行を回避した際、今度はミスターシービーがニシノスキーに騎乗していた安田富男が馬上で立ち上がるほどの斜行を行う形(尤も、これは圧倒的1番人気を背負ったが故の捨て身の賭けであったと、後に吉永正人が語っている)になってしまった事で大橋巨泉が痛烈な批判を展開した。事実、この日本ダービーでは馬は1着だったものの騎手は4日間の騎乗停止処分を受けており、『吉永正人は優勝トロフィーを返上した』というエピソードがある。菊花賞では3コーナーの上り坂からロングスパートを仕掛け、下り坂でまくりながら押し切るという力強い競馬を見せて勝利したが、「淀の坂はゆっくり、ゆっくりと下らなくてはなりません」というアナウンサーの杉本清の名実況にもある通り、本来このような騎乗はタブーとされ、観戦していた調教師の松山も「何をするんだ!」とあわてふためいたという(但し、この淀の坂からスパートをかける走りは、既に1966年にナスノコトブキが実行しており(2着スピードシンボリとは鼻差)、その後も天皇賞(春)ではあるが1995年には1992年の菊花賞馬ライスシャワー(2着ステージチャンプとは鼻差)が、2006年には前年の無敗三冠馬ディープインパクト(2着リンカーンとは3馬身半差)も行い、勝利を収めている)。
ミスターシービーの同期にはカツラギエース(1984年宝塚記念・ジャパンカップ)・ニホンピロウイナー(1984年、1985年マイルチャンピオンシップ・1985年安田記念)・ギャロップダイナ(1985年天皇賞(秋)・1986年安田記念)・リードホーユー(1983年有馬記念)・スズカコバン(1985年宝塚記念)がおり、後にそれぞれGIを勝ったという粒揃いの世代だった。更に皐月賞・日本ダービーでは共にメジロモンスニーが2着に入っている(菊花賞未出走)。GI勝ち馬が牝馬以外はスズパレード(1987年宝塚記念)だけで、皐月賞以外は人気薄が2着の1歳年下の三冠馬シンボリルドルフ世代とは対照的である。その中でカツラギエースはミスターシービーの最大のライバルとも言え、三冠戦では破ったものの、京都新聞杯ではカツラギエースの4着に敗れている。
翌1984年、古馬になったミスターシービーは出走を予定していたアメリカジョッキークラブカップが降雪によるダート変更の可能性が高くなった為に出走を取りやめ、その後の故障もあって秋の毎日王冠にて復帰する。南関東公営三冠のサンオーイとの初対決が話題になったが、好敵手カツラギエースを捕まえられず2着に敗れたものの、当時としては破格の上がり3ハロン33.7秒(推定)を計時し驚かせた。続く、この年より東京芝2000mに短縮された天皇賞(秋)はまたも最後方から追い込む豪快なレースで優勝。シンザン以降続いていた天皇賞(秋)の1番人気19連敗をストップさせたが、1歳年下に後輩の三冠馬シンボリルドルフがおり、これが最後の勝利となった。ジャパンカップではカツラギエースの逃げ切り勝ちに屈するが、このときシンボリルドルフ3着に対し、ミスターシービーは10着と惨敗。有馬記念ではシンボリルドルフ1着・ミスターシービーは3着と敗れ、精彩を欠く。
現役最後の年となった1985年は、初戦のサンケイ大阪杯でもステートジャガーの2着に敗れ、続く天皇賞(春)で三度シンボリルドルフに挑んだ。このとき、ミスターシービーにしては珍しい先行策をとったが、結局シンボリルドルフの5着に敗れ、この天皇賞(春)が最後のレースとなった。
因みに、ミスターシービーは血統面から言うと先行馬であったが、3戦目のよもやの敗退以降追い込み戦法に転向。これが、マイル血統のミスターシービーにとっては好結果に繋がり、持たない筈のダービー・菊花賞制覇の原動力になった(更に、同期に強力な先行馬が多かったのもこの戦法成立には好都合だった)。つまり、『勝つ展開に持ち込む為の追い込み転向』だった訳で、シンボリルドルフに未勝利なのは、ルドルフ主戦・岡部幸雄曰く『近代競馬では先行逃げ切りが基本』が出来なかったからでは無く、単に『適距離で無いレース(ダービー・菊花賞)に出た反動』と言った方が正しいだろう。
[編集] 競走成績
年月日 | レース名 | オッズ | 着順 | 距離 | タイム(上り) | 着差 | 騎手 | 勝ち馬/(2着馬) | |||
1982 | 11. | 6 | 東京 | 3歳新馬 | 2.0(1人) | 1着 | 芝1600(稍) | 1:38.5(38.7) | 5馬身 | 吉永正人 | (ヒラタカエイコー) |
12. | 4 | 中山 | 黒松賞 | 1.9(1人) | 1着 | 芝1600(良) | 1:36.3(36.0) | クビ | 吉永正人 | (ユウフブキ) | |
12. | 25 | 中山 | ひいらぎ賞 | 2.2(1人) | 2着 | 芝1800(良) | 1:50.4(36.2) | クビ | 吉永正人 | ウメノシンオー | |
1983 | 2. | 13 | 東京 | 共同通信杯4歳S | 2.6(1人) | 1着 | 芝1800(良) | 1:49.5(37.4) | アタマ | 吉永正人 | (ウメノシンオー) |
3. | 6 | 中山 | 弥生賞 | 2.7(1人) | 1着 | 芝1800(良) | 1:50.2(35.8) | 1 1/2 | 吉永正人 | (スピードトライ) | |
4. | 17 | 中山 | 皐月賞 | 2.4(1人) | 1着 | 芝2000(不) | 2:08.3(39.8) | 1/2 | 吉永正人 | (メジロモンスニー) | |
5. | 29 | 東京 | 東京優駿 | 1.9(1人) | 1着 | 芝2400(良) | 2:29.5(37.9) | 1 3/4 | 吉永正人 | (メジロモンスニー) | |
10. | 23 | 京都 | 京都新聞杯 | 1.7(1人) | 4着 | 芝2000(良) | 2:03.2(36.8) | -1.2秒 | 吉永正人 | カツラギエース | |
11. | 13 | 京都 | 菊花賞 | 2.1(1人) | 1着 | 芝3000(良) | 3:08.1(38.2) | 3馬身 | 吉永正人 | (ビンゴカンタ) | |
1984 | 10. | 7 | 東京 | 毎日王冠(GII) | 2.9(2人) | 2着 | 芝2000(良) | 1:47.5(33.7) | アタマ | 吉永正人 | カツラギエース |
10. | 28 | 東京 | 天皇賞(秋)(GI) | 1.7(1人) | 1着 | 芝2000(良) | 1:59.3(34.8) | 1/2 | 吉永正人 | (テュデナムキング) | |
11. | 25 | 東京 | ジャパンカップ(GI) | 3.3(1人) | 10着 | 芝2400(良) | 2:28.2(35.3) | -1.9秒 | 吉永正人 | カツラギエース | |
12. | 23 | 中山 | 有馬記念(GI) | 3.0(2人) | 3着 | 芝2500(良) | 2:33.3(35.2) | -0.5秒 | 吉永正人 | シンボリルドルフ | |
1985 | 3. | 31 | 阪神 | 大阪杯(GII) | 1.7(1人) | 2着 | 芝2000(良) | 2:01.4(35.5) | ハナ | 吉永正人 | ステートジャガー |
4. | 29 | 京都 | 天皇賞(春)(GI) | 3.7(2人) | 5着 | 芝3200(良) | 3:22.3(39.2) | -1.9秒 | 吉永正人 | シンボリルドルフ |
[編集] 引退後
引退後種牡馬としてヤマニングローバル、メイショウビトリアなどを輩出するが、自分以上の産駒を出せないまま、2000年12月15日、父トウショウボーイや父のライバル、テンポイントと同じく蹄葉炎により千葉県成田市の千明牧場で死去した。最期を迎えた千葉の千明牧場にミスターシービーの墓が建てられている。
[編集] 主な産駒
- ヤマニングローバル(目黒記念・アルゼンチン共和国杯・デイリー杯3歳ステークス)
- メイショウビトリア(ステイヤーズステークス)
- スイートミトゥーナ(クイーンカップ)
- シャコーグレイド(2着 - 皐月賞、アメリカジョッキークラブカップ、アルゼンチン共和国杯、京都新聞杯、新潟大賞典)
[編集] 血統表
ミスターシービーの血統 (プリンスリーギフト系(ナスルーラ系)/Nearco5×4=9.38% Hyperion4×5=9.38%(父内)) | |||
父
トウショウボーイ 1973 鹿毛 |
*テスコボーイ Tesco Boy 1963 黒鹿毛 |
Princely Gift | Nasrullah |
Blue Gem | |||
Suncourt | Hyperion | ||
Inquisition | |||
*ソシアルバターフライ Social Butterfly 1957 鹿毛 |
Your Host | Alibhai | |
Boudoir | |||
Wisteria | Easton | ||
Blue Cyprus | |||
母
シービークイン 1973 鹿毛 |
*トピオ Topyo 1964 鹿毛 |
Fine Top | Fine Art |
Toupie | |||
Deleriosa | Delirium | ||
Fougueuse | |||
メイドウ 1965 鹿毛 |
*アドミラルバード Admiral Byrd |
Nearco | |
Woodlark | |||
メイワ | *ゲイタイム | ||
*チルウインド F-No.9-h |
[編集] 外部リンク
日本の三冠馬 |
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牡馬 |
セントライト | シンザン | ミスターシービー |
牝馬 |
クリフジ(変則) | メジロラモーヌ | スティルインラブ |
日本中央競馬会・顕彰馬 |
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クモハタ | セントライト | クリフジ | トキツカゼ | トサミドリ | トキノミノル | メイヂヒカリ | ハクチカラ | セイユウ | コダマ | シンザン | スピードシンボリ | タケシバオー | グランドマーチス | ハイセイコー | トウショウボーイ | テンポイント | マルゼンスキー | ミスターシービー | シンボリルドルフ | メジロラモーヌ | オグリキャップ | メジロマックイーン | トウカイテイオー | ナリタブライアン | タイキシャトル | テイエムオペラオー |