燕市
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燕市(つばめし)は、新潟県のほぼ中央部に位置する市で、洋食器の生産では世界的なシェアを誇る工業都市。
1954年4月1日に4つの町村が合併し発足。52年後の2006年3月20日に西蒲原郡吉田町・分水町と合併し、新しい燕市が発足し現在に至る。
主に下越地方、もしくは県央地域に分類される。隣接する三条市や、同じく県央地域の加茂市などと合わせ、県内では新潟市、長岡市に次ぐ都市圏を形成している。
ここ十数年来、三条市との結びつきが深まり、両市合併による「燕三条市」を実現しようとする動きが両市財界や市民団体などから上がり、合併協議会が設置されたこともあったが、その協議も頓挫し、合併実現には至っていない(詳細は下記の「市町村合併」を参照)。
両市は以前から「職人の町燕」、「商人の町三条」と称されてきた。三条市とは相互補完の関係にあり、その流れは以前にも増して強まってきているが、同時にお互いのライバル意識もそれなりに強く、微妙な関係性にあると言える。
目次 |
[編集] 地理
新潟県の中央部(県央地域)に位置し海は一切無く山も旧分水町区域に僅かにあるのみで市域は概ね平坦である。信濃川、大河津分水路、中ノ口川、大通川、西川が流れている。大きな市街地は3ヶ所あり、それぞれ合併前の旧燕市街・旧吉田市街・旧分水市街がある。旧3市町の境界付近に県内有数規模の工業団地があり、その周りに市街地が取り囲む形をしている。また、旧吉田町の国道116号線沿いや旧燕市の井土巻地区などは急速に都市化が進み、ロードサイド型の大型店や飲食店、アパート、マンション等が林立する様になった。
[編集] 歴史
古くは「津波目」と表記され、「津」は港、「目」は中心地を意味していた。波頭(水上)に垣間見える多くの港の中で最も栄えた中心地、という意味で名付けられたものと考えられる。燕市は内陸部にあるため、ここでいう港とは信濃川の河岸に多くあった船着場の一つという意味であり、燕市周辺が米の集積地とされ水運の中継基地として栄えたようである。伝説では川上から流れてきて燕が群れていたことから見出された祠を建てた地とされるが、「燕」の文字に置き換えられた時期や由来は明確には分かっていない。
[編集] 年表
- 709年(和銅2年):僧、今智大徳、国上寺を作る。
- 733年(天平4年):野積、西生寺建立。
- 947年(天暦元年):弥彦神社、勅額をもらう。
- 955年(天暦8年):村上天皇の皇子、桜井親王、和納に楞厳寺を建てる。
- 1100年(康和2年):御立八幡宮の建立。
- 1196年(建久6年):西行、国上寺を参拝。
- 1201年(建仁元年):加治の城主、佐々木成綱、白根味方を攻める。
- 1221年(承久3年):鎌倉幕府が承久の乱に加担した国上寺の僧、重範を紀伊国に流す。
- 1223年(貞応2年):竹野町に金仙寺ができる。
- 1333年(元弘3年、正慶2年):北条顕家、弥彦神社に36歌仙を寄付する。
- 1568年(永禄10年):永禄年間、信濃国の阿部九朗左衛門、月潟を開発。
- 1583年(天正10年):上杉景勝、木場城を往来する者に通所状を授ける。
- 1587年(天正14年):天正年間、上杉家直江兼続、大河津より牧ヶ花の新規川筋(西川)を開く。
- 1600年(慶長4年):信濃国の金子太郎左ェ門、150人を使い大田村を開発。
- 1603年(慶長7年):道金村、燕村は直江工事前は、川向こうに在ったと言われる。
- 1614年(慶長18年):河井村を西脇九右ェ門が開発。
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- :慶長年間に角海で毒消し丸を作り始める。
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- 1620年(元和5年):小関村を高山治朗右ェ門が開発。
- 1631年(寛永7年):粟生津村の和田左之助が高木村を開発。
- 1634年(寛永10年):牧野忠成の四男定成、上和納村他16村6300余石を与えられ三根山(峰岡)に封ぜられる。
- 1642年(寛永18年):観音寺が弥彦村から分かれる。
- 1647年(正保3年):大関村を本間兵次郎、槙尾村を中野清左ェ門、新通村を九郎兵衛などが開発。
- 1649年(慶安2年):弥彦神社の神官、河村又右ェ門が杉山新田を開発。
- 1650年(慶安3年):四郎右ェ門が山崎村を開発。新田開発が相次ぐ。
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- :祐太郎が吉田、平野村を開発。
- :矢作千石新田の庄助、中山村を開発。
- :荻野村を孫右ェ門が開発。
- :源兵衛、魵穴村を開発。
- :小右ェ門、中田新田開発。
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- 1652年(承応元年):富永十兵衛、新田村開発。
- 1658年(万治元年):万治年間、道金村を穿いて中ノ口川を通水する。
- 1681年(天和元年):10月曽根村、高橋源助、万治元年の中ノ口川水門の事で犠牲になる。
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- :江戸の田辺善兵衛が間瀬の銅山の採掘に着手。
- :享保の頃、本間数右ェ門が大河津分水工事を幕府に願い出る。
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- 1735年(元文9年):享保の頃、中尾平右ェ門が鑢の製造を始める。
- 1756年(宝暦5年):信濃川阿賀野川洪水、熊之森の堤防が切れる。
- 1771年(明和7年):燕の銅器を奥州の藤七に伝習玉川覚平が伝える。
- 1780年(安永8年):若松の錺屋市右ェ門が燕へ来て煙管の製造を始める。
- 1804年(文化元年):良寛が五合庵に住む。
- 1818年(文政元年):鎧潟、田潟、大潟の悪水排除の為、新川工事が始まる。
- 1954年(昭和29年)3月31日:燕町、小池村、小中川村、松長村が合併し、市制施行。
- 2006年(平成18年)3月20日:吉田町、分水町と合併。新市制による燕市となる。
[編集] 行政
- 市長:小林 清(こばやし きよし)- 旧分水町長
[編集] (旧)燕市のデータ
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当項目では、1954年3月31日から2006年3月19日まで新潟県に存在した(旧)燕市について紹介する。
(旧)燕市役所は現在の燕支所(白山町二丁目7番27号)に設置されていたが、今回の合併では分庁舎方式をとり、市長室は(旧)吉田町役場に設置され、(旧)燕市役所と(旧)分水町役場は支所扱いとなった。
- 市長(最終)- 高橋甚一(たかはし じんいち)
[編集] 市町村合併
前述の通り、2006年3月20日に、(旧)燕市と吉田町、分水町が合併し、新しい燕市となった。
当初は、県央地域全体で政府案に沿った合併協議が進められていた。燕市は元々、新潟県西部広域消防事務組合(現在の燕・弥彦行政広域組合)の構成町村である弥彦村、寺泊町、岩室村、分水町、吉田町との合併を予定し西蒲原南部法定合併協議会を開き話を進めていたが、吉田町が離脱を表明し、その後岩室村も離脱、残った四市町村も西蒲原郡南部法定協議会締結後解散をした(岩室村は後に新潟市と合併)。
その後、当時の燕市長である高橋甚一は三条市との合併を提案したところ、市内は賛成派と反対派で真っ二つに別れ投票の結果、わずかではあったが反対票が上回り合併話はなくなった為、燕市は孤立への道を歩もうとしていたところ、吉田町から合併の誘いがあり分水町も参加、寺泊町も合併に参加しようとしたが、燕市、吉田町、分水町の合意が得られず断念した(寺泊町は後に長岡市と合併)。
そして、「燕・吉田・分水の合併を確実に実現する会」が結成され、2004年11月1日に法定協議会を設置、翌年3月15日には法定合併協議会調印式、同年3月17日には泉田県知事へ合併申請を行い、同年8月16日付官報に告示された。2006年3月20日に新生燕市の誕生となった。
[編集] 経済
[編集] 産業
- 日本を代表する金属製洋食器(主としてカトラリー)の産地である。
- 上記以外にも鉄鋼や機械、自動車部品の製造、非金属製品の加工も盛ん。
- 養豚業も盛んで越後もちぶたのブランドで県内外へ出荷している。
[編集] 主な企業
- 東陽理化学研究所 - 米国アップルコンピュータの製品の一部を生産していることでも有名。
- 北越工業 - 建設機械メーカー。本社所在地は旧分水町、工場所在地は旧吉田町
- 三星金属 - コンクリート用棒鋼製造大手。韓国の三星財閥(サムスングループ)とは無関係。
- きむら食品 - 「うさぎもち」のブランド名で有名な切り餅メーカー。
- 遠藤製作所 - 鋳造ゴルフクラブ製造メーカー。
- 富士通フロンテック - 事務用機械メーカ。旧吉田町に工場を持つ。
[編集] 姉妹都市・提携都市
[編集] 地域
[編集] 教育
[編集] 大学
市内に大学はない。尚、新潟産業大学が市内にサテライトキャンパスを設置する構想を明らかにしているが、柏崎市が「機能の一部だけであっても、産大が市外に移転する事は容認しがたい」と難色を示しており、現在のところ未定。
[編集] 中等教育学校
[編集] 高等学校
[編集] 中学校
- 燕市立燕中学校
- 燕市立小池中学校
- 燕市立燕北中学校
- 燕市立吉田中学校
- 燕市立分水中学校
[編集] 小学校
- 燕市立燕東小学校
- 燕市立燕西小学校
- 燕市立燕南小学校
- 燕市立燕北小学校
- 燕市立小池小学校
- 燕市立大関小学校
- 燕市立小中川小学校
- 燕市立松長小学校
- 燕市立粟生津小学校
- 燕市立吉田小学校
- 燕市立吉田北小学校
- 燕市立吉田南小学校
- 燕市立島上小学校
- 燕市立分水小学校
- 燕市立分水北小学校
[編集] 交通
[編集] 鉄道路線
[編集] 過去の鉄道路線
[編集] 道路
- 県道
[編集] 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
[編集] 祭事
- 燕戸隠神社春季祭礼(5月中旬)
- 燕市民祭(7月第3土曜・日曜)
- 燕戸隠神社秋季祭礼(9月15日)
[編集] 出身有名人
- 上杉香緒里(演歌歌手。旧・吉田町)
- 生越なつえ(漫画家。旧・吉田町)
- 金子繁治(元プロボクサー)
- 亀倉雄策(グラフィックデザイナー。旧・吉田町)
- キラー・カーン(元プロレスラー。旧・吉田町)
- 清水雅之(バレーボール選手。旧・吉田町)
- 西村智奈美(政治家。旧・吉田町)
- 魚喃キリコ(漫画家。旧・吉田町)
- 原田泰夫(将棋棋士、元日本将棋連盟会長。旧・分水町)
- 星野順治(福岡ソフトバンクホークス投手。東京都生まれだが、旧・分水町/吉田町育ち)
- 丸山蘭那(中部日本放送アナウンサー。旧・分水町)
- 横山操(日本画家。旧・吉田町)
[編集] その他
[編集] 食べ物
- 燕三条系ラーメン - 市内のラーメン店(福来亭)が発祥。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
このページはウィキプロジェクト 日本の市町村のテンプレートを使用しています。