横山操
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横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年) - 1973年(昭和48年)4月1日)は昭和を代表する日本画家の一人。
横山の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。
[編集] 年譜
- 1920年‐新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)に町医者の私生児として生まれる。その後、横山家に養子に出される。名前の“操”とは出生と関係があるとする説もある。
- 1934年‐洋画家を志し上京し、洋画家の弟子となる。ポスターや看板描きなどで生活を立てながら洋画を学ぶ
- 1938年‐第25回光風会展に油彩画の『街裏』が入選するもその後、師の勧めにより日本画に転向する
- 1939年‐川端画学校日本画部の夜間部に入学する
- 1940年‐当時もっとも新表現に先取的存在であったとされる青龍社(川端龍子が中心的人物の会)の主催する第12会青龍展に『隅田河岸』が入選。しかし、日本は戦争状態にあったため召集・徴兵され支那に出兵する
- 1945年‐シベリヤ抑留に遭う。カザフスタン辺りで石炭採掘の工員として強制労働をし、そのときの情景や想いなどが、後の横山の作風に影響されたとされており、『カザフスタンの女』等に当時の印象を色濃く残している
- 1950年‐復員し、帰国する。戦争で中断していた制作を再開する
- 1951年‐杉田基子と結婚する
- 1956年‐初の個展を銀座で開催する。『炎炎桜島』で青龍賞を受賞
- 1957年‐東京都台東区谷中の五重塔が無理心中の男女によって放火、炎上。消失後のその様子を描く(『塔』)
- 1960年‐自らの作品を焼却する。またこの頃から『赤富士』の連作が人々の人気を集め、一躍有名画家となる
- 1962年‐日本画の新たな表現を目指し、青龍社を脱退する
- 1963年‐これまでとは違う新生横山としての第一回個展・越後風景展を開催する
- 1966年‐多摩美術大学日本画科の教授に就任し、多くの日本画家を育てる。そのときに「被害者になるな、加害者になれ」という自らの生き様を彷彿とさせるような言葉で指導し、また、生徒達に人望があった
- 1971年‐酒の飲みすぎにより(大変な酒豪でもあった)脳卒中で倒れ右半身不随となる。回復後は左手で制作を続けた
- 1973年4月1日‐新作の製作途中に没(享年53)。
[編集] 代表作
- 『ウォール街』(1962年東京国立近代美術館蔵)
- 『塔』(1957年東京国立近代美術館蔵)
- 『富士雷鳴』(1961年)
- 『カザフスタンの女』(1951年)
- 『越路十景 蒲原落雁』(1968年山種美術館蔵) など。