千葉胤頼
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千葉 胤頼(ちば たねより)
千葉 胤頼(ちば たねより、天文元年(1532年) - 永禄2年1月11日(1559年2月18日))は少弐資元の次男で戦国時代の九州千葉氏当主。千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子。千葉胤誠の父。
九州千葉氏は室町時代には肥前国でも最有力な豪族で龍造寺氏などもその傘下にあったが、室町時代後期に一族が「晴気系」と「祇園系」に分裂、更に大内氏に筑前国を追われた少弐氏が肥前に拠点を移すと、分裂して統一した対応の取れなくなった九州千葉氏は少弐氏の勢いに押されて、ついにはその家臣同然と化して少弐氏から当主が養子に入るようになってしまった。
胤頼は実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。一方、分裂以来対立関係であった晴気系の千葉胤連は龍造寺家の重臣の子であった鍋島彦法師丸を養子に迎えて対抗する。
1559年、龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で少弐冬尚とともに自害。法名は日頼。
子の胤誠は逃亡し神代勝利を頼った。