少弐冬尚
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少弐冬尚(しょうにふゆひさ、享禄2年(1529年) - 永禄2年1月11日(1559年2月18日))は少弐資元の子。少弐氏第十七代(最後)の当主。
1535年、父・資元が自害して少弐氏が一時的に滅亡すると、冬尚は龍造寺家兼ら家臣団の助けを受けて1540年に少弐氏の再興を果たした。しかし1545年、家臣の馬場頼周が家兼を妬んでその一族の大半を暗殺するという事件を起こしてしまう。このため、頼周は1546年に家兼の反攻にあって殺され、冬尚も家兼と対立することとなった。
その後、冬尚は家兼の曾孫・龍造寺隆信と争い、1559年には隆信の攻撃の前に遂に勢福寺城で自害を余儀なくされた。冬尚の死をもって、少弐氏は完全に滅亡した。
のちに弟の少弐政興が馬場鑑周らとともに少弐氏の復活を狙って旗揚げするも、果たせなかった。