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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 - Wikipedia

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ドイツ語Wiener Philharmoniker ヴィーナー・フィルハーモニカー)。ドイツ語の原音から「ヴィーン~」とも→ (Vの日本語表記)参照)は、オーストリアの首都ウィーンにあるオーケストラ。世界でも最も有名なオーケストラの一つである。ムジークフェライン大ホール(ムジークフェラインは楽友協会の意、ホールを意味するザールと続けてムジークフェラインザール、楽友協会大ホールと呼ばれることもある)を本拠地として活動している。

オペラの上演で名高いウィーン国立歌劇場のオーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーが公務員である左記団体の自主運営団体として、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を名乗る。ただしウィーン国立歌劇場管弦楽団員であっても、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団員ではない者もいることに注意が必要である。

英語表記のVienna Philharmonic Orchestraの頭文字を取ってVPOと表記されることもある。正式な略称は、ドイツ語表記より、WPhである。

目次

[編集] コンサート

定期演奏会は9月~6月にかけて毎月一回程度・日曜日午前11時開始・1プログラム1回・年10回である。公開ゲネラルプローベ(総練習)と称してもう1回の公演も行われ、定期演奏会の前日の土曜日午後15時30分開始となっている。夜はオペラ公演を行う為、ウィーン・フィルの定期演奏会と公開ゲネラルプローベは昼間に行われる。オペラ公演ザルツブルク音楽祭への出演やウィーン芸術週間(Wiener Festwochen )への出演は恒例であり、そのほかに随時特別演奏会も行っている。もちろんウィーン国立歌劇場のシーズン中は、一日にウィーン・フィルのコンサートとオペラの二重の仕事をこなすことがよくある。

1939年より、毎年1月1日にニューイヤーコンサートを行っている。このコンサートではヨハン・シュトラウス2世を中心としたヨハン・シュトラウス一家の曲を多く演奏している(中でも美しく青きドナウラデツキー行進曲はほぼ必須の選曲となっている。

2004年からはシェーンブルン宮殿の庭園で、「ヨーロッパ・コンサート」を催している。モーツァルトチャイコフスキースメタナラヴェルシベリウスなどさまざまな作曲家によるポピュラーな管弦楽曲でプログラムが組まれ(その中ではヨハン・シュトラウス2世の「ウィーン気質」が必ず演奏されている)、2004年はジャズ・ヴォーカリストのボビー・マクファーリン、2005年はズービン・メータ、2006年はプラシド・ドミンゴが指揮を執った。

[編集] オーケストラのメンバー

ウィーン・フィルハーモニー協会は自主運営団体であるが、そのメンバーはウィーン・フィルの基盤となるウィーン国立歌劇場管弦楽団の団員としての活動が義務付けられている。オーディションの後、まず国立歌劇場の団員として3年の試用期間を経て(その間待機団員としてウィーン・フィルの演奏にも加わる)、正式にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の団員として採用される。採用されるのは主にウィーン国立音楽大学出身で、しかも先輩団員から直接指導を受け(多くの団員は演奏活動のかたわらウィーン国立音楽大学で教鞭をとっている)、採用される前から補助団員としてウィーン・フィルの演奏に参加している者が半数以上である。

ウィーン・フィルの高い演奏水準の維持は演奏者の性別や民族といった均一性によるところが大きいと言われているが、一方でウィーン・フィルの東洋人や女性を採用しない傾向が社会的に批判されることもしばしばだった。しかし1997年に女性ハープ奏者アンナ・レルケスを採用したのを皮切りに女性楽員が徐々に増加している。また近年日系人の楽員なども登場しており、その門戸は開かれつつあるといえる。

[編集] 「比類なきオーケストラ」の秘密

ウィーン・フィルは、高級感あふれる優美でデリケートな響き、一分の隙もない素晴らしいアンサンブル、個々のパートの充実しきった音楽性により、「比類なきオーケストラ」(ハンス・クナッパーツブッシュ)と謳われている。その素晴らしさは個々の奏者の技量というよりは、ウィーンにおいて培われてきた伝統的な奏法・独自の音色に誇りを持ち、それを創立以来固守し続けてきたことに起因するといえる。それゆえに指揮者からの要求に対して技術的に可能であっても、彼らの音楽性に適わないと判断した場合ははっきりと拒絶することさえある。

独特の音色の秘密として、管楽器はウィンナ・ホルンウィンナ・オーボエなどウィーン・フィル独自の構造のものが使われている(近年職人の減少により日本のヤマハがこれらの楽器の開発と製作に携わっている)。また弦楽器は、コンサートマスターを除いて同じオトマール・ラング工房で製作されたものが用いられている。もちろん、これらの楽器を弾きこなすためのテクニックは、ヴァイオリンであればヨーゼフ・ベームやゲオルグ・ヘルメスベルガー(ウィーン・フィルの初代コンサートマスターでヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世の父)を創始者として代々の楽員に継承されているウィーン・ヴァイオリン楽派による。かのフルトヴェングラーは試みにウィーン・フィルの使っている弦楽器を他のオーケストラで使用してみたが、ウィーン・フィルのような豊麗な響きを作り出すことはできなかったという。

楽器のみならず奏法にもウィーン・フィル独自のものが存在する。弦楽器のボウイングは弓の元から先端ぎりぎりまで使い、柔らかい音を出すため、弓を指板の近くで幾分力を入れて弾く。またピッチ(音程)の取り方は他のオーケストラよりも高く、アーティキュレーションも音を切る際には、際立たせて切る。これはムジークフェラインザールの残響が長いため、音楽の輪郭がぼやけないように自然に音を切る傾向になったとも言われている。

指揮に対する反応も独特で、指揮者が拍を振り終えてからようやく音を出し始める(ドイツ語圏のオーケストラにはこの傾向がある)。しかし、ショルティやメンゲルベルクなどのように指揮棒を振り下ろした時点で即座に音を出すことを要求する指揮者とは意見が衝突することもしばしばだという。

楽器配置もウィーン・フィル独自の並ばせ方があり、ムジークフェラインザールで演奏する際は、歌劇場のピットをそのまま舞台へ上げたような配置で演奏する。パーカッションは左手奥へ、コントラバスは金管の後ろ、オーケストラの一番後ろの列で横一列に並ぶ。

ウィーン・フィルが定期演奏会を行う会場は、ウィーンの楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)であるが、このホールのすべてが溶け合った陶酔的な響きと長い残響時間もオーケストラの美質を助長しているのは疑う余地がない。また、歌劇場におけるオペラの演奏で鍛えられた高度なアンサンブル能力は、決して他のオーケストラの追随を許さない。

彼らが得意とするレパートリーはベートーヴェンモーツァルトブラームスリヒャルト・ワーグナーブルックナーリヒャルト・シュトラウスなどいずれもウィーンとゆかりの深い作曲家であり、特にウィーン・フィルの指揮台に立った作曲家のうち数人は、このオーケストラの美しい音色を想像して作曲を行ったとさえ言われている。もちろん近現代の音楽も決して不得手ではないが、戦後数年ぐらいまでは楽員が現代の新作を演奏することに対してあからさまに拒絶反応を示すことがよくあったという(ゆえにレコードプロデューサーのジョン・カルショーは「1910年以降作曲された作品に関して演奏することを極端に嫌がるオーケストラ」と評している)。特に彼らの常任指揮者でもあったマーラーの交響曲に対する反発は非常に強かったが、マーラーの弟子であるワルターバーンスタインが数多く取り上げるようになってから、マーラーはウィーン・フィルの主要レパートリーの一つとなったのである。

[編集] 歴史

[編集] ウィーン・フィルハーモニーの誕生

このオーケストラの発祥は1842年3月28日、ケルントナートーア歌劇場(ウィーン宮廷歌劇場、後のウィーン国立歌劇場)の楽長で、作曲家でもあったオットー・ニコライが、レドゥーテンザールにて歌劇場付属の管弦楽団を指揮した「フィルハーモニー・アカデミー」というコンサートとされる(曲目はベートーヴェンの交響曲第7番など)。このウィーン宮廷歌劇場のオーケストラが、モーツァルトやベートーヴェンのウィーン古典派の交響曲などを演奏するために演奏会を開くという試みはすでに何度か行われているが、いずれも運営上の問題で長くは続かなかった。しかし、この「フィルハーモニー・アカデミー」と呼ばれるコンサート(当時はアカデミーと呼ばれていた)が11回連続して行われ、同時に「全ての面において自主的に運営される」、「全ての決定が楽員の総会によって行われる」などの原則が確立されたことをもって、ウィーン・フィルハーモニーの誕生とすべきである。

1847年にニコライがウィーンを去ってしばらく活動は停滞する。1860年にカール・エッケルトが宮廷歌劇場の監督に就任し、1860年1月15日にケルントナートーア歌劇場にて定期演奏会を指揮し、以来現在まで演奏会が継続している。

1870年にはムジークフェライン大ホールが完成し、1870/1871年のシーズンから本拠地とする。1875年から1882年にかけて、ウィーン・フィルハーモニーのホルン奏者の出身である高名な指揮者ハンス・リヒターを定期演奏会の指揮者(首席指揮者)として迎え、リヒターを家長とした温かい雰囲気の中でオーケストラは大きな発展を遂げた(『ウィーン・フィルハーモニーの黄金時代』と呼ばれる)。リヒターはブラームスの交響曲第2番第3番、ブルックナーの交響曲第8番をウィーン・フィルハーモニーで初演している。

リヒターの後任であるグスタフ・マーラーが首席指揮者に就くと(1898~1901)、その妥協を許さない狂熱的かつ革新的な姿勢で楽員としばしば衝突し、マーラーに反対したリヒター時代からの古参楽員は引退に追い込まれ、若い優秀な楽員への大幅な入れ替えがあった。定期演奏会でのマーラーのプログラムは、モーツァルトベートーヴェンが主で、ベルリオーズ幻想交響曲ドヴォルザーク交響詩等も採りあげていたが、自作は採りあげなかった。1900年にパリ万国博覧会にて、マーラーの指揮の下演奏を行う(これがウィーン・フィル初の国外公演でもあった)。オーケストラとの関係悪化によりマーラーが退任した後、コンサートマスターで作曲家でもあったヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(1901~1903)が首席指揮者に就任するが、長くは続かなかった。

その後数年間客演指揮者制となり、世界的に声望のある指揮者陣、すなわちフェリックス・モットル、エルンスト・フォン・シューフ、アルトゥール・ニキシュ、カール・ムック、リヒャルト・シュトラウス、若き日のブルーノ・ワルターなどが定期演奏会の指揮台に立った。1908年にフェリックス・ヴァインガルトナー(1908~1927)が宮廷歌劇場の総監督に就任すると同時に、ウィーン・フィルの首席指揮者として迎えられ、以後19年間にわたって輝かしい芸術的成果を上げる。同年にウィーン・フィルは公式に認可される協会組織となり、名称も新たに"Wiener Philharmoniker"となる。1922年夏にはヴァインガルトナーの指揮で初めて南アメリカへ演奏旅行を行い大成功を収める。またザルツブルク音楽祭(ウィーン・フィルと同じく1842年に創設)においてオペラとコンサートの両面で活躍し、音楽祭の中心的な存在となる。このザルツブルクでの活動は国立歌劇場総監督のフランツ・シャルクとブルーノ・ワルターの貢献に拠るところが大きい。

ヴァインガルトナーの後任には、ベルリン・フィルライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者も兼任していたヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1927~1930)が首席指揮者となるが、ベルリンでの活動に専念するため数年で退任。そして国立歌劇場総監督に就任したクレメンス・クラウス(1930~1933)を首席指揮者に迎えるが、クラウスが失脚してウィーンを去った後はかつて1903-1908年に行ったように、楽員の投票によって定期演奏会の指揮者を招聘する客演指揮者制となる。当時、折からの世界恐慌で演奏会の切符の売り上げが極度に落ち込み、楽員の内輪で切符を売りさばかなければならないほどだったが、客演指揮者制に移行することによってアルトゥーロ・トスカニーニハンス・クナッパーツブッシュオットー・クレンペラーカール・シューリヒトヴィクトル・デ・サバタなど多彩な大指揮者たちの定期演奏会への登場がそれを解消した。

[編集] 第2次世界大戦以後

1938年にヒトラーによるオーストリア併合は、ウィーン・フィルの栄光の歴史に暗い影を投げかける。ナチスによりウィーン・フィルハーモニー協会に解散命令が下ったのである。フルトヴェングラーらの奔走により解散自体は免れたが、その後は組織改変を断行せざるを得ず、ナチス党員である楽員が幹部に就任する。そして一部のユダヤ人の配偶者を持つ楽員や、「半ユダヤ人」の楽員は残留を許されたものの、多数のユダヤ系楽員が退団に追い込まれるという大きな痛手を負った。ユダヤ系楽員のうちコンサートマスターのアルノルト・ロゼーなどのように大部分はイギリスやアメリカなどに逃れたが、やはりコンサートマスターのユリウス・シュトヴェルトカを含む6人は強制収容所に送られ、そこで亡くなっている。また、父がユダヤ人であるブルーノ・ワルター、妻がユダヤ系のエーリッヒ・クライバー、ナチズムを含むファシズムに反対の立場を明確にしていたアルトゥーロ・トスカニーニなどは皆アメリカ大陸へ逃れてしまい、これらの大指揮者による演奏は不可能になってしまった。その一方で、後にコンサートマスターに就任したヴォルフガング・シュナイダーハン、ヴァルター・バリリ、ヴィリー・ボスコフスキーといった若い有能な奏者も入団している。さらに、演奏活動の面でもナチスのプロパガンダに大いに利用され、ドイツやオーストリアの各地の軍需工場などで多くの慰労演奏会を行っている。

1945年4月、第二次世界大戦におけるナチスの敗色がいよいよ濃くなり、ソ連軍がナチスを敗走に追い込みつつ、ウィーンを目前に迫った4月2日に、ウィーン・フィルはクレメンス・クラウスの指揮により戦中最後の演奏会を行う(曲目はブラームスの「ドイツ・レクイエム」)。演奏会終了後、フルトヴェングラーがかつて残した助言に従い、ムジークフェラインザールを護衛するという名目で「ウィーン・フィルハーモニー国防団」を結成し、楽員のほぼ全員が空襲の激しいウィーン市街に残留した(一部のナチス党員であった楽員はリンツなどへ逃亡した)。彼らはブルク劇場や消防署などの地下通路で生活し、ソ連軍が進攻するまでの時間を過ごした。ソ連軍によるウィーン進駐後は、コンサートマスターでロシア語の堪能なフリッツ・セドラックを楽団長として、オーストリア新政府やソ連軍と交渉しつつ、ウィーンにおける文化活動の再開、すなわち演奏会の再開に向けて始動した。オーストリア独立宣言の日(4月27日)に、やはりウィーンに残留していたクレメンス・クラウスの指揮の下、コンツェルトハウス大ホールにて解放記念コンサートを催したのである(曲目はベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番シューベルト交響曲第8番「未完成」、チャイコフスキーの交響曲第5番)。

しかし、戦後処理としてナチス党員の楽員の半分以上は退団となり、また本業のオペラの本拠地である国立歌劇場は空襲で焼けてしまい、フルトヴェングラーやクレメンス・クラウス、ハンス・クナッパーツブッシュ、カール・ベームなどの重要な指揮者たちはナチス協力疑惑のため連合国軍により数年間指揮活動を停止させられたことにより、ウィーン・フィルの活動は困難を極めた。幸いユダヤ系指揮者ヨーゼフ・クリップスなどの尽力により、徐々にそのペースを回復し、大指揮者たちがウィーンに再び戻ってきた1940年代の終わりから往年の栄光と輝きを取り戻したのである。

諸外国への演奏旅行も再開された。1947年にはエジンバラ音楽祭に出演(指揮は1938年以降共演が途絶えていたブルーノ・ワルター)、1956年にはカール・シューリヒトアンドレ・クリュイタンス(急逝したエーリッヒ・クライバーの代役)の同行でアメリカへの楽旅が実現し、大きな成功を収めている。1956年には初来日する。中編成の規模で指揮者は作曲家のパウル・ヒンデミット、東京宝塚劇場での公演であった。

1997年2月より、それまで長らく受け取ってきたオーストリア政府からの補助金を受け取らないことを決定している。

[編集] メンバーの活動

創立以来ウィーン・フィルのメンバーを中心として結成された室内楽グループは弦楽器、管楽器共に数多い。著名な団体を下記に列挙する。

  • ヘルメスベルガー弦楽四重奏団(コンサートマスターのヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世および2世が主宰)
  • ロゼー弦楽四重奏団(コンサートマスターのアルノルト・ロゼーが主宰)
  • プリル弦楽四重奏団(コンサートマスターのカール・プリルが主宰)
  • マイレッカー=ブックスバウム弦楽四重奏団(コンサートマスターのフランツ・マイレッカー、首席チェロ奏者のフリードリッヒ・ブックスバウムが主宰)
  • シュナイダーハン弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴォルフガング・シュナイダーハンが主宰)
  • バリリ弦楽四重奏団(コンサートマスターのワルター・バリリが主宰)
  • ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン奏者のアントン・カンパーが主宰)
  • セドラック=ヴィンクラー弦楽四重奏団(コンサートマスターのフリッツ・セドラックが主宰)
  • ウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴィリー・ボスコフスキーが主宰)
  • ヴェラー弦楽四重奏団(コンサートマスターのワルター・ヴェラーが主宰)
  • ウィーン弦楽四重奏団(コンサートマスターのウェルナー・ヒンクが主宰)
  • ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団(コンサートマスターのライナー・キュッヒルが主宰)
  • シュトイデ弦楽四重奏団(コンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデが主宰)
  • ザイフェルト弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン奏者のギュンター・ザイフェルトが主宰)
  • ウィーン・フィルハーモニア弦楽五重奏団(第2ヴァイオリン主席奏者のペーター・ヴェヒターが主宰)
  • ウィーン室内合奏団(コンサートマスターのゲルハルト・ヘッツェルが主宰)
  • ウィーン・フィルハーモニー管楽アンサンブル
  • ウィーン八重奏団
  • ウィーン・リング・アンサンブル
  • ウィーン・ヴィルトゥオーゼン
  • ウィーン管楽ゾリステン
  • ウィーン弦楽ゾリステン
  • アンサンブル・ウィーン
  • コルソ・ウィーン

[編集] 指揮者たち

現在までにウィーン・フィルの指揮台に登場した主な指揮者は、以下の通りである。

  • アルトゥール・ニキシュ
    • この伝説の大指揮者はウィーン・フィルのヴァイオリン奏者出身である。
  • リヒャルト・シュトラウス
    • 一時期ウィーン国立歌劇場の総監督を務めたこともあり(シャルクと共同統治)、作曲家、指揮者としてウィーン・フィルとの絆は極めて強かった。1944年ウィーン・フィルはシュトラウス80歳記念の祝賀行事を催している(この時のライヴ録音が全て現存している)。
    • ウィーン・フィルがシュトラウスの楽劇サロメを演奏・上演する際、ヨカナーンの首が斬られる時にコントラバス全員が足踏みをして音を鳴らすという伝統があり、今も行われている。
  • フランツ・シャルク
    • シュトラウスと同時期にウィーン国立歌劇場の総監督を長らく務め、楽員にとって厳しくも温かい師のような存在であった。戦前に初めて交響曲をウィーン・フィルでSP録音した指揮者でもある。死の床で後継者クレメンス・クラウスに「私のウィーン・フィルをよろしく頼む」という有名な言葉を遺してこの世を去った。
  • ハンス・プフィッツナー
    • シュトラウス同様、指揮者としてしばしばウィーン・フィルの指揮台に立った。晩年身寄りがなく生活苦に陥った老作曲家にウィーン・フィルは救いの手を差し伸べた。名誉会員に推挙し、年金を与えたのである。プフィッツナーは歌劇「パレストリーナ」の自筆譜を贈ることで感謝の意を表した。
  • アルトゥーロ・トスカニーニ
    • 1933年から1937年にかけて楽団長フーゴー・ブルクハウザーの招きで頻繁に共演した。戦前のザルツブルク音楽祭で指揮した「ファルスタッフ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「フィデリオ」などは現在でも語り草になるほどの伝説的名演であった。両者の関係は周囲の予想に反して概ね良好であったが、ある時ブダペストでの公演で、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲で自ら振り間違えたために演奏が大きな瑕が生じ、そのことに腹を立てた癇癪持ちのマエストロに、彼よりさらに年長のコンサートマスター、アルノルト・ロゼーが反発し、終演後の指揮者の起立の合図に従わないという事件があった。(トスカニーニはロゼーを大変尊敬しており、ロゼーの誕生日に花束を持ってリハーサルに登場したこともあったという)
  • ウィレム・メンゲルベルク
    • 共演回数は多くないが、その濃厚な芸風と楽員に対する独裁的な態度、リハーサルでの非常に長いお説教で楽員に強烈な印象を与えた。メンゲルベルクとのアムステルダム公演で、ベートーヴェンの「運命」をアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の所有するパート譜で演奏したとき、楽譜に「ここでジプシーの話が始まる」と記されており、実際練習中にメンゲルベルクはその箇所でジプシーの話を始めたという。また、名奏者レオポルト・ヴラッハの、休符の間にクラリネットを膝に立てて置く癖が気に入らず注意したが、「先生、私はあなたが指揮をなさらない時、指揮棒をどう持つべきかとやかく言うつもりはありません」とやり返されたという。
  • ハンス・クナッパーツブッシュ
    • 巨人の足取りを想わせる悠揚迫らぬ芸風、素朴で温かな人柄、大変な練習嫌いなどでウィーン・フィルに最も愛された巨匠の一人(ウィーン・フィルも練習嫌いなことで有名)。クナは楽員たちと個人的に親しく付き合い、練習の合間や演奏旅行の列車の中で楽員とカード遊びに興じたという。大病を患った後、晩年にウィーン・フィルを指揮した演奏会は、その度ごとに告別の雰囲気が漂ったというが、その演奏会のVTRが近年発掘されてDVDとなり、大きな話題を呼んだ。
  • オットー・クレンペラー
    • 共演回数は決して多くないが(ウィーン・フィルのギャランティーが他のオケより少ないことも理由の一つだったようだ)、晩年に近い1968年のウィーン芸術週間では連続して5回のコンサートを開き、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーなどで数々の名演を残した(その時の実況録音は全てCD化されている)。
    • クレンペラーは度重なる大病、怪我により晩年体が不自由になり、手がうまく動かせないため、アンサンブルはオケの自発性に任された。上記ウィーン芸術週間でのモーツァルトのセレナード第12番「ナハトムジーク」では、ファゴット奏者による客席には聴こえない程度の低音をアインザッツの合図とするよう木管奏者たちが申し合わせており、実際そうされたという(録音にも残っている)。
  • ブルーノ・ワルター
    • ウィーン・フィルとの多数の録音で知られるとおり、生涯を通じ音楽的にも精神的にもウィーン・フィルと深く結ばれた指揮者であった。1907年に初めて指揮し、ウィーン移住後の1930年代には頻繁に共演する。1938年にナチスの魔の手から逃れるためにアメリカへ亡命し、1947年エジンバラ音楽祭にて両者は感動的な再会を果たす。以後1960年師マーラーの生誕100周年記念演奏会で最後の指揮を執るまで、たびたびワルターはウィーンを訪れることとなる。ワルターの死後、遺言に従いウィーン・フィルはニューヨーク・フィルと共にワルターの遺産相続人となった。
  • カール・シューリヒト
    • 70歳代になってから定期演奏会の常連指揮者となる。クナッパーツブッシュ同様、楽員から「偉大な老紳士」として敬愛された。練習中あらかじめオケが危なくなりそうな(そして実際に危なくなる)箇所についてスコアの端を折っておき、チェックしながら練習をつけていくのを常とした。晩年リウマチに苦しみ、長時間かけて舞台の端から指揮台まで杖をつきながら歩いていったが、ひとたび指揮台に上がるとシューリヒト特有のカリスマ性、輝かしい生命力が溢れ出て、楽員たちを感動させたという。ウィーン・フィル初のアメリカ公演におけるブルックナーの交響曲第7番は、シューリヒト自身も後に語るように奇蹟的な名演と言われている。
  • ピエール・モントゥー
    • ワルターより1歳、シューリヒトより5歳年長の老巨匠だが、80歳を過ぎてからウィーン・フィルに招かれ、Deccaに多数の録音を残している。レコーディング中お昼を過ぎても練習を続けているので、オーケストラの幹部がメンバーは疲れているので休ませてもらえないかと頼んだところ、モントゥーは「もし誰かが疲れているとしたらそれは私だ。私は一番年寄りだからだ。そして私は疲れていないし、誰も私より年を取っていない」とフランス語で呟いたという。
  • エーリヒ・クライバー
    • エーリッヒ、カルロスと親子2代にわたりウィーン・フィルを指揮している。1954年にDeccaに録音したリヒャルト・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」はウィーン・フィル初のレコード大賞を受賞する。「ウィーン・フィルの初のアメリカ演奏旅行の同行指揮者だったが、クライバーが直前に急死したため、シューリヒトおよびクリュイタンスに代わった。
  • ヴィクトル・デ・サバタ
  • ルドルフ・モラルト
  • フォルクマール・アンドレーエ
  • アルトゥール・ロジンスキ
  • レオポルド・ストコフスキー
    • 1951年のザルツブルク音楽祭、1955年のウィーン芸術週間などで共演。ストコフスキー自身の編曲によるバッハの作品やムソルグスキーの「展覧会の絵」などを指揮し、楽員に強い印象を与えた。
  • エルネスト・アンセルメ
  • シャルル・ミュンシュ
    • 1955年のザルツブルク音楽祭でフルトヴェングラー記念演奏会を指揮している。
  • ポール・パレー
  • エトヴィン・フィッシャー
    • モーツァルトまたはハイドンの協奏曲2曲と交響曲1曲というプログラムで、指揮とピアノを担当するコンサートを度々行い、戦前から戦後にかけてザルツブルク音楽祭での恒例行事となった。
  • ジョン・バルビローリ
  • ユージン・オーマンディ
  • アラム・ハチャトゥリアン
    • 自作の交響曲第2番や「ガイーヌ」をDECCAに録音している。「ガイーヌ」のレコーディング・セッションで、ハチャトゥリアンがあまりにも長い時間注文をつけてはやり直しをさせていたので、夜のオペラ公演に間に合わなくなることを危惧した楽団幹部が、あと一回きり演奏することで終わりにするよう頼んだところ、セッション終了後「私はいつも指揮者は将軍でオーケストラは兵卒だと思っていたが、ここではオーケストラが将軍で指揮者が兵卒なんだね」と語ったという。
  • フリッツ・ライナー
  • カール・ベーム
  • オイゲン・ヨッフム
  • ヨーゼフ・カイルベルト
  • ハンス・シュミット=イッセルシュテット
    • ウィーン・フィルを指揮して初のベートーヴェンの交響曲全集をDECCAに録音する。シュミット=イッセルシュテットはウィーン・フィルの常連指揮者ではなかったが、プロデューサーで息子のエリック・スミスの力によりこの組み合わせが実現したと言われている。結果ウィーン・フィルの美感が十二分に発揮された名盤の誕生し、この長い名前(本名はハンス・シュミットで、ありふれた名前であった為、母方の姓イッセルシュテットを付け加えた)の指揮者が広く知られるようになった。
  • ディミトリ・ミトロプーロス
    • 驚異的な記憶力と強烈な人間的な魅力により楽員の絶大な支持を集め、指揮者として初めてニコライ記念メダルが贈られた。総譜の隅々まで写真のように精確に記憶しており楽員をたびたび驚かせたが、ザルツブルク音楽祭での「エレクトラ」の練習中に、中断して手を目の前に当てて物思いにふけるミトロプーロスを、ある奏者が「彼は今ページをめくっている」と言ったという。
  • ヨーゼフ・クリップス
    • 有名指揮者たちの陰に隠れがちだが、戦後の混乱期にウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場の再建に尽力した功績は大きい。しかし、たびたびクリップスは楽員たちの悪戯やからかいの対象にされたという。
  • アンドレ・クリュイタンス
    • 1955年の初共演以来、エレガントな物腰と紳士的な態度がウィーン・フィルから好かれ、度々客演する。アメリカツアーの際にブラームスの交響曲の練習で、クナッパーツブッシュがよくそうしたように「あなたがたはこの曲を知っていますね。私もよく知っています」と言って帰ってしまったという。その晩のブラームスの演奏が非常に美しいものであったことは言うまでもない。
  • コンスタンティン・シルヴェストリ
  • ダヴィッド・オイストラフ
    • 戦後すぐウィーン・フィルの演奏会にヴァイオリニストとして彗星のごとく登場し、後に指揮者としても迎えられる。
  • ルドルフ・ケンペ
  • ラファエル・クーベリック
    • 若い頃フルトヴェングラーの後継者と目され頻繁に共演していたが、やがて疎遠になる。
  • イーゴリ・マルケヴィッチ
    • 1950年代初頭に十八番のイーゴル・ストラヴィンスキーの「春の祭典」を引っさげて登場した。ウィーン・フィルが1920年代にシャルクの指揮で初めて同曲を演奏したときは、散々な出来栄えでスキャンダルになってしまったが、数年後にクレメンス・クラウスが指揮したときは、絶え間なく変化するリズムの効果を失わずに譜面の変拍子を単純な拍子に書き換えて演奏したため、成功したという。
  • ギュンター・ヴァント
    • 1960年代初頭にバックハウスとのシューマン協奏曲の録音で、ウィーン・フィルを指揮したが、練習中に付点音符のリズムについてオケに注意すると、コンサートマスターのヴィリー・ボスコフスキーに「我々は重箱の隅をほじくるのは好きじゃない」と言われたという。以降二度と両者が共演することはなかった。
  • カール・リヒター
  • フェレンツ・フリッチャイ
    • 1960年にミトロプーロスが急逝した後、その穴を埋める指揮者として重要視されたが、病により惜しまれつつ早世。
  • イシュトヴァン・ケルテス
  • ヘルベルト・フォン・カラヤン
    • 長年君臨したベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との仲が険悪になるにつれ、ウィーン・フィルとの共演を増やしていった。ベルリン辞任後の急逝がなかったら、膨大なレパートリーの大半をウィーン・フィルと再録音する予定だった。
  • ジョージ・セル
    • 非常に厳しいリハーサルで知られ、楽員からは必ずしも評判が良くなかったが、戦前、戦後に度々客演する。
  • レナード・バーンスタイン
    • 1966年のセンセーショナルな定期演奏会デビュー以来、相思相愛の関係で結ばれる。モーツァルトのピアノ協奏曲の練習で、楽員に「モーツァルトはあなたたちの国の人間です。あなたがたは私にモーツァルトの演奏法を教えてくださらなければなりません」と語っている。一方1970年代に集中的にマーラーの交響曲を取り上げ、マーラー嫌いで有名だったウィーン・フィルを開眼させた。
  • ゲオルク・ショルティ
    • ニーベルングの指環」の世界初録音で一躍有名になったコンビで、その後もオペラを中心に数多くの録音を残している。もっとも「レコード会社の関係で組んでいただけでカラヤンやベームのように親密だったわけではない」と言う楽員もいる。
  • カルロ・マリア・ジュリーニ
  • シャーンドル・ヴェーグ
  • ヴァーツラフ・ノイマン
  • カルロス・クライバー
    • この稀代の天才指揮者とウィーン・フィルは理想的な組み合わせと思われたが、クライバーの気難しさ、ガラスのような繊細さゆえに両者の関係は決して平坦なものではなく、有名な「テレーズ事件」によって共演がストップしてしまう時期もあった。1992年クライバー同行によるウィーン・フィル来日公演が企画されたが、クライバーの病気によりシノーポリに代わった。1994年にクライバーがウィーン国立歌劇場と来日した際は、ウィーン・フィル公演の方はなぜか指揮者がショルティであった。
  • ヴォルフガング・サヴァリッシュ
  • クラウス・テンシュテット
    • テンシュテットは唯一回ザルツブルク音楽祭でマーラーの交響曲第10番からアダージョと、ベートーヴェンの「英雄」を指揮した。このあくの強い両者はリハーサルで完全に対立し、以降の共演も予定されていたレコード録音も全て中止となった。
  • クラウディオ・アバド
  • リッカルド・ムーティ
  • ロリン・マゼール
  • ジョルジュ・プレートル
  • チャールズ・マッケラス
  • ホルスト・シュタイン
  • ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
  • 小澤征爾
  • 岩城宏之
    • ハイティンクの代役として日本人として初めて定期演奏会の指揮台に立った。その際、ウィーン・フィルの指揮の機会を得たことで、他のオケを振るときのギャラの提示額があがるぞとウィーン・フィルの楽員に言われ、実際にその通りになった、と自著で記している。
  • 小泉和裕
    • 1976年のザルツブルク音楽祭で指揮(ハイドン『オックスフォード』、チャイコフスキー交響曲第5番)
  • ピエール・ブーレーズ
  • ズービン・メータ
  • ニコラウス・アーノンクール
  • ロジャー・ノリントン
  • ジュゼッペ・シノーポリ
  • マイケル・ティルソン=トーマス
  • ヘルムート・リリング
  • ヴァレリー・ゲルギエフ
  • サイモン・ラトル
  • セミョン・ビシュコフ
  • チョン・ミョンフン
  • マリス・ヤンソンス
  • クリスティアン・ティーレマン
  • フランツ・ウェルザー=メスト
  • ダニエレ・ガッティ
  • ダニエル・ハーディング
  • シモーネ・ヤング

ヴィーン国立歌劇場の音楽監督に指揮者が就任すると、その指揮者との結びつきは強くなるとも言われる。また、レコーディングやザルツブルク音楽祭など指揮者の決定に彼らの意思が及ばない場合もある。

[編集] 実質的な首席指揮者

[編集] 首席指揮者

  • カール・エッケルト 1860年
  • オットー・デソフ 1860年-1875年
  • ハンス・リヒター 1875年-1882年
  • ヴィルヘルム・ヤーン 1882年-1883年
  • ハンス・リヒター 1883年-1898年
  • グスタフ・マーラー 1898年-1901年
  • ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世 1901年-1903年
    • ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世は、マルチタレントともいうべき音楽家で、優秀なヴァイオリニスト、そして宮廷歌劇場における有能なバレエ指揮者、およびオペレッタの作曲家であった。彼は宮廷歌劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の指揮者を練習なしで受け持った時、大した混乱もなく最後まで振り通すことができた。
    • しかし作曲家としてはその題材に無頓着な面があった。父ヘルメスベルガー1世がある人から「あなたの息子さんの最新のバレエ作品があまりにもモーツァルトと似ている」と指摘された時、ヘルメスベルガー1世は微笑みながら「あなた、彼が真似するにふさわしい作曲家が他にいるでしょうか」と答えたという。近年ヘルメスベルガー2世の作品がニューイヤーコンサートにおいて採り上げられるようになり、2002年に演奏された「悪魔の踊り」は大きな話題になった。
  • フェリックス・ヴァインガルトナー 1908年-1927年
  • ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 1927年-1930年
    • フルトヴェングラーはベルリンでの活動を主体にしていたとはいえ、客演指揮者制に移行した後も彼の死までウィーン・フィルの事実上の首席指揮者であった。
    • フルトヴェングラーの天才的な指揮に関して楽員から異論が唱えられることはほとんどなかったが、ヨハン・シュトラウスのワルツについては別であった。ある時、アンコールで演奏される皇帝円舞曲をフルトヴェングラー流の仰々しい演奏ではなく、ウィーン風に演奏しようと楽員で申し合わせ、実際そのとおりにしてしまった。後で良心の呵責を感じた楽員から感想を求められたフルトヴェングラーは「素晴らしい。いずれにせよ私は君たちが弾いたように指揮したのだから」と語った。
    • フルトヴェングラーはリハーサルでも常に全力投球で臨んだが、その姿勢はウィーン・フィルの楽員とは根本的に異なっていた。練習中の楽員たちのやる気のない態度(もちろん他の指揮者も悩まされる)に怒り狂い、しばしば練習場を飛び出してしまうことがあったが、幹部たちに宥められて戻ってきた時こう語ったという。「ベルリン・フィルは練習が最も良くて、ウィーン・フィルは本番が一番良い」
  • クレメンス・クラウス 1930年-1933年
    • ウィーン楽壇の寵児であるクラウスとウィーン・フィルの関係は決して相思相愛とは言えなかったが、第2次世界大戦の終局で空襲の激しいウィーンに残り、楽員と行動を共にした指揮者はクラウスのみであった。クラウスが1939年から始めたニューイヤーコンサートは現在最も世界的に有名なクラシックのコンサートとなっている。

[編集] 参考文献

  • アレクサンダー・ヴィテシュニク(福原信夫/吉野忠彦共訳)「ウィーン・フィルえぴそーど」立風書房、1975年。

[編集] 外部リンク

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