ブルーノ・ワルター
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ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)は、ドイツ生まれの指揮者・ピアニスト・作曲家。ドイツ語読みではヴァルターとなる。
20世紀を代表する偉大な指揮者の1人で、モーツァルトやマーラーを得意とした。日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニとブルーノ・ワルターを「三大巨匠」と呼ぶことが多かった。
あまり知られていないが、作曲家として2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残している。
目次 |
[編集] ワルターの生涯
[編集] 生誕から指揮者となるまで
ユダヤ人の父親とドイツ人の母親の間の子として、ベルリンに生まれる(ブルーノ本人はキリスト教徒)。本名は、ブルーノ・ヴァルター・シュレジンガー (Bruno Walter Schlesinger)。
ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後、ピアニストとしてデビューしたが、ハンス・フォン・ビューローの実演を目の当たりにして指揮者になることを決意し、1894年にケルン市立歌劇場でデビューした。
[編集] マーラーとの出会い
1896年にはハンブルク市立歌劇場へ移り、そこで当時の大指揮者・作曲家であったグスタフ・マーラーに認められ、彼の招きでヴィーンへ移住。マーラーの弟子、そして親友として交流を深めていった。また、名前からユダヤ系を示す「シュレジンガー」という姓を除き「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からである。
[編集] 人気指揮者へ
以後ヴィーン宮廷歌劇場(現在のヴィーン国立歌劇場)楽長、ミュンヘン宮廷歌劇場(現在のバイエルン国立歌劇場)音楽監督、ベルリン市立歌劇場音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長などを歴任。ヴィーン・フィルやベルリン・フィルといった一流オーケストラやザルツブルク音楽祭、さらにはアメリカのオーケストラにも度々招かれる人気指揮者として活躍した。ベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルター コンサート」という演奏会を持つほどの人気であった。
[編集] ナチスの台頭とアメリカ移住
しかし、1933年に、ナチス政権が成立すると、ユダヤ系であったワルターはナチスから迫害を受けるようになる。ナチス政権発足直後に演奏旅行から帰国してきたワルターは、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスらによる嫌がらせや殺人予告を受け、彼が指揮をする演奏会は中止に追い込まれた。このため、ワルターはドイツを追われてオーストリアのヴィーンへ移住せざるを得なくなってしまった。
移住先のヴィーンでは歓迎されてヴィーン国立歌劇場やヴィーン・フィルで、フルトヴェングラーなどと人気を争うほどの活躍をしたが、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されてしまうと、命に危険を感じてヴィーンを出てスイスのルガーノへ逃れた。この年創設されたルツェルン音楽祭にトスカニーニらと共に招かれたりしているが、パスポートもない状態でモナコなどに市民権の取得を働きかけたが不調におわり、やがてフランスから手をさしのべられフランスの国籍を取得する。こうしてフランスなどドイツとオーストリアの影響の及ばない地域を中心にブルーノ・ワルターは演奏活動を続けた。翌年もルツェルン音楽祭に招かれるが、チューリッヒで離婚調停中だった次女のグレーテルが夫に射殺され、その夫も自殺するという悲劇(著名なバス歌手エツィオ・ピンツァとグレーテルとの不倫関係が原因という)がワルターを襲う。(音楽祭はトスカニーニが自らのスケジュールをキャンセルして代役を務める)1939年9月に第二次世界大戦が勃発して欧州での戦火が激しくなると、ついにルガーノの家を出てアメリカへと逃れた。アメリカでは、カリフォルニア州ビバリーヒルズに居を構え、常任のポストには就かずにニューヨーク・フィルハーモニックやメトロポリタン歌劇場などを指揮した。
[編集] 戦後
戦後はヨーロッパの楽壇にも復帰し、1947年から1949年の間にニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めるなど、欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。その後もニューヨーク・フィルやヴィーン・フィルを指揮して数回演奏会を行なっている。1960年に師マーラーの生誕100周年記念祭のために最後のウィーン訪問を行いヴィーン・フィルを指揮する(曲目はマーラーの交響曲第4番、シューベルトの「未完成」など)。同年暮れにロスアンジェルス・フィルの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し(曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番、交響曲第1番)、演奏会から引退した。その後はCBSレコード(現在はソニー・クラシカル)が、ワルターの演奏のステレオ録音のために、ロスアンジェルス付近の音楽家により特別に結成したコロンビア交響楽団を指揮し、この組み合わせにより多くの録音が残された。
1962年2月17日、カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去。その波乱に満ちた生涯を閉じた。現在、遺体はスイスのルガーノに埋葬されている。
最晩年に、ルドルフ・シュタイナーが主宰する人智学協会に入会している。
[編集] ワルターの名演奏(録音)
[編集] レパートリーと演奏スタイル
ワルターは、19世紀生れの指揮者の中では珍しく録音を多く残しており、録音期間も1920年代のSPレコードから1960年代のステレオ録音に至るまでの長期間にわたっている。そのレパートリーも得意としていたマーラーやモーツァルトの他、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーなどのドイツ・オーストリア系音楽やベルリオーズ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、バーバーなど幅広い。録音には残されていないが、同時代の作曲家の作品も積極的に取り上げていた。
よくワルターの演奏は微笑に例えられ、夢のような幸福感に満ちた美しい演奏、感情を荒々しく出すことのない中庸な演奏をする指揮者として知られている。確かに、モーツァルトの交響曲やベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などの録音は非常に美しい演奏である。しかし、それは彼の一面を捉えたものでしかない。時にはニューヨーク・フィルとのベートーヴェン交響曲第7番や、ナチス・ドイツの脅威が迫り来る中で演奏された1938年のヴィーン・フィルとのマーラー交響曲第9番のように何かに憑かれたような熾烈な演奏をしている事例も多い。ワルター自身、自伝で自分の中にはアポロ的な部分とディオニュソス的な部分が両立している、と述べている。
全体的にテンポは速めだが(緩序楽章ではゆっくりと演奏することも多く、それが他の楽章と好対象となっている)、ところどころでテンポの変化を自然な形でつけ、オーケストラを豊かに響かせながらたっぷりと歌わせるのが特徴である。特に旋律を「歌わせる」ことに意を用いていたらしく、残されているリハーサル映像や音源でも、オーケストラに向って何度も"Sing!"(歌って!)と指示を出している。このため、当時の弦楽器奏者の水準の低さ(特にヴィオラ以降の低弦)からくる音程の怪しさも、ヴェーベルンのような他の指揮者ではいやというほど気になるが、ワルターの演奏ではさほど気にならない。
残されている映像を見ると、ワルターの指揮は、基本的にタクトを持った右手のみを使い、必要以上に体を動かすことも、左手を使うこともあまりしていない。それは、長いタクトを使って右手だけで優雅にオーケストラを操ってるように見える。また、リハーサルでは、文学的な解説や長い演説は余りせず、タクトを振りながら「歌って!」「ディミヌエンド!」「エスプレッシーボ!」といった指示を出すのみである。しかし、その指示だけでワルター独特の節回しやたっぷりした響き、そして歌うような演奏を実現しているのである。
彼は自伝に「自分は教育的指揮者だ」と残している。それは、つまりワルターが楽員達に繰り返し言って聞かせるうちに、いつの間にかオーケストラが自分たちの意思で行う演奏がワルターの意に沿った演奏になる、という出来そうで出来ない演奏を成し遂げることが出来た稀有な指揮者だったということなのだ。このことは、ワルターがトスカニーニやフルトヴェングラーのようにオーケストラに対して専制君主として振舞う強い指揮者ではなく、人間として弱い面を持っていたことを示すものでもあるのだが、その反面ワルターの大きな魅力とも言える。例えば、ヴィーン・フィルでのリハーサルでは悲しい顔をし「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と言い、団員達は「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ないよ。トスカニーニなどの怒りんぼう指揮者以上に困った指揮者だね」と、言ったという。
代表的な録音は下記の通り。
[編集] マーラーとモーツァルト
ワルターはグスタフ・マーラーの弟子・親友であり、マーラーの死後に交響曲第9番、『大地の歌』の初演を行うなど、その権威として知られていた。ワルターの死後レナード・バーンスタインやクラウス・テンシュテットなどによる名演奏が生れ、ワルターのマーラー演奏の地位は相対的に低下したが、それでも前述の1938年録音の交響曲第9番(ヴィーン・フィルとのライヴ録音)や1952年録音の『大地の歌』(ヴィーン・フィルとのスタジオ録音とライブ録音)、ステレオ録音の交響曲第1番『巨人』(コロンビア交響楽団)、第2番『復活』(ニューヨーク・フィル)などは今でも名演奏として知られている。『巨人』の録音では、当時バーンスタインもこの曲の録音が予定されており、場合によっては同じ『巨人』のレコードが同じCBSから同じ時期に発売される可能性もあった。しかし、「とりあえずバーンスタインにワルター盤を聴かせ、その感想で録音するかどうか決めよう」ということになり、バーンスタインにワルター盤を聴かせたところ大絶賛したため、バーンスタインによる録音はお預けとなった。
また、ワルターはモーツァルトを得意としており、楽屋でモーツァルトの霊と交信していたという噂さえ伝説として残っているほどだ。晩年のコロンビア交響楽団とのステレオ録音では交響曲第36番『リンツ』、第40番、またニューヨーク・フィルとのモノラル録音では第35番『ハフナー』、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』などが名演奏として知られている。また、戦前のヴィーン・フィルとの録音(『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など)や、1952年のヴィーン・フィルとの交響曲第40番のライヴ録音、ザルツブルク音楽祭での交響曲第25番、『レクイエム』のライヴ録音などは今でも名演奏と称えられている。オペラでは、メトロポリタン歌劇場での『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』の名演が有名である。
ワルターのモーツァルト演奏は、ミュンヘン歌劇場音楽監督時代に第3指揮者だったカール・ベームなどにも影響を与えている。
[編集] その他
マーラー・モーツァルト以外では下記の録音などが、世紀の名演奏として今でも揺ぎ無い地位を占めている。
[編集] モノラル録音
- ブラームス 交響曲第2番、交響曲第3番(ニューヨーク・フィル)
- ベートーヴェン 交響曲第3番『英雄』(シンフォニー・オブ・ジ・エアとのライヴ録音 注)
- ベートーヴェン 交響曲第6番『田園』(ヴィーン・フィルとのSP録音)
- ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(ヴィーン・フィルとのSP録音)
- シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ヴィーン・フィルとのSP録音)
注)トスカニーニの追悼演奏会。シンフォニー・オブ・ジ・エアはトスカニーニが指揮していたNBC交響楽団が改名したオーケストラである。
[編集] ステレオ録音
- ベートーヴェン 交響曲第2番、交響曲第6番『田園』(コロンビア交響楽団)
- ブラームス 交響曲第4番(コロンビア交響楽団)
- シューベルト 交響曲第5番、交響曲第8(9)番『ザ・グレート』(コロンビア交響楽団)
- シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ニューヨーク・フィル)
- ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(コロンビア交響楽団)
[編集] 他の指揮者との関係
[編集] マーラー
[編集] トスカニーニ
ワルターとトスカニーニは演奏スタイルには違いがあったが、親交を持っていた。トスカニーニはワルターの演奏を、感傷的に過ぎるように感じていたようだが、ワルターが指揮したモーツァルトの交響曲のレコードに関して自分よりも良いと述べている。いっぽうワルターはトスカニーニから音楽的に多大な影響を受け、自伝でもトスカニーニを賞賛している。ワルターが娘グレーテル殺害の報を受けたのはルツェルン音楽祭の楽屋であったが、ショックで指揮が出来なくなってしまったワルターに代わって指揮台に上がったのはトスカニーニだった。トスカニーニが90歳で没した際の追悼演奏会ではワルターが指揮台に上がり、ベートーヴェンの交響曲第3番の名演奏を残している。
[編集] フルトヴェングラー
ワルターとフルトヴェングラーは共にドイツを代表する大指揮者であったが、片やワルターはユダヤ人としてナチスに祖国を追われ、片やフルトヴェングラーはナチス政権下でドイツに留まって演奏活動を続けたことが二人の関係をぎくしゃくしたものにしてしまった。歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、自伝でフルトヴェングラーが、戦後の演奏会でワルターの指揮するブラームスの『ドイツ・レクイエム』を聞いて、テンポなどに否定的な見解を述べていたと書いている。また、フルトヴェングラーがシカゴ交響楽団の指揮者就任を在米ユダヤ人に反対された時にワルターはそれに賛同しなかったが、互いに交換された書簡ではワルターはフルトヴェングラーに対して厳しい意見を述べている。
[編集] クレンペラー
クレンペラーとワルターは共にユダヤ系で、マーラーの弟子だがその演奏スタイルは大きく違った。あるインタビューではクレンペラーが「ワルターは道徳者だ。だが、私は違う」[1]と述べた後に、道徳者では良い演奏は出来ないのだ、というニュアンスの発言をしてワルターを皮肉っている(ただし、ワルターの書簡集を見るとクレンペラーやその家族との間にも手紙が交わされていることが伺える)。
[編集] ベーム
[編集] 著書
- 自 伝『主題と変奏-1946年-』(白水社) <原著:Thema und Variationen/ドイツ語>
- 著 作『音楽と演奏-1957年-』(白水社) <原著:Von der Musik und vom Musizieren/ドイツ語>
- 書簡集『ブルーノ・ワルターの手紙-1969年-』(白水社)<ロッテ・ワルター・リント編>
[編集] 脚注
- ↑ ワルターしばしば温和なヒューマニスト、道徳者というイメージで伝えられているが、実際はそうではない一面もあったという説があり、これを以ってワルターを偽善者とする見方も有る。これについては、前述のようにワルター自身が自分の中に「アポロとデュオニソスが両立している」と残していることにも留意する必要があるだろう。
[編集] 映像作品
- DVD『ザ・マエストロ』(ジェネオン・エンタテインメント) - 1958年のカナダ・ヴァンクーバー祝祭管弦楽団とのブラームス『交響曲第2番』のリハーサル風景とインタビュー
先代: フェリックス・モットル |
バイエルン国立歌劇場音楽総監督 1913–1922 |
次代: ハンス・クナッパーツブッシュ |
先代: ヴィルヘルム・フルトヴェングラー |
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長 1929–1933 |
次代: ヘルマン・アーベントロート |
先代: アルトゥール・ロジンスキ |
ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 音楽顧問 1947–1949 |
次代: ディミトリ・ミトロプーロス |