アントン・ブルックナー
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アントン・ブルックナー(Anton Josef Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家。
目次 |
[編集] 人物
オルガン奏者を父としてオーストリアのアンスフェルデンで生まれる。ブルックナーは当時最も腕の立つオルガン奏者だった。ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、オットー・キッツラーに管弦楽法を学んだ。1863年ごろからリヒャルト・ヴァーグナーに傾倒、研究するようになる。
1868年には、ゼヒターの後任としてヴィーン音楽大学の教授に就任。この時以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。さらに1866年、ウィーンで聴いたベートーヴェンの交響曲第9番に強い影響を受ける。初期の作品には交響曲へ短調(1963年)、交響曲第0番(1969年)、交響曲第1番ハ短調(1866年)、交響曲第2番ハ短調(1872年)がある。
そのなかブルックナーは1973年にワーグナーと会見する機会を得た。この際に交響曲第3番ニ短調を献呈しワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、執拗な批判を浴びせられ続けることになる。交響曲第4番変ホ長調(1874年)、交響曲第5番変ロ長調(1876年)を作曲する。
その後1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席、「ニーベルングの指輪」の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる第1次改訂の波がある。このときに改訂で交響曲第1~5番全てが大幅な改訂を受ける。しかし1877年の交響曲第3番の初演は大失敗し、ブルックナーは激しく落胆する。またその頃、若きマーラーがウィーン大学でブルックナーの聴講に訪れている(この経験は、マーラーの交響曲に大きな影響を与えたとされる)。
1880年頃になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してくる。多くの教授職、さまざまな協会の名誉会員の仕により年間2000グルデン(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)の収入を得るようになる。この頃の代表作は交響曲第6番イ長調(1881年)、交響曲第7番ホ長調(1883年)、テ・デウム(1881年)、弦楽五重奏曲ヘ長調(1879年)がある。なかでも交響曲第7番とテ・デウムはブルックナーに莫大な成功と名声を与え一気にブルックナーの名を知れ渡すことになった。
1884年からは交響曲第8番]ハ短調の作曲に従事する。1887年年に一旦完成し、「芸術上の父」と尊敬していた指揮者ヘルマン・レヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が返ってくる。弟子達もこの作品を理解できずに、ブルックナーは激しく落胆し再び自らの作品を改訂する。いわゆる第2次改訂の波である。これにより交響曲1,2,3,4,8番が改訂される。
結局1890年の第8番の初演は大成功する。晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが、死の病に冒されていた。この時期には交響曲第9番ニ短調やヘルゴラント、詩篇150篇が作曲されている。ブルックナーは1896年10月11日、ヴィーンで72年の生涯を閉じた。生涯を通じて非常に信心深いローマ・カトリック教徒であった。また、晩年に至るまで多くの若い女性に求婚したが、結婚することはなかった。
[編集] 作品
ブルックナーの作品はWAB (Werkverzeichnis Anton Bruckner) 番号によって参照されることがある。また、作品カタログはレナート・グラスベルガーによって編集されている。音楽の傾向は、ベートーヴェンやワーグナーの影響を受けている。
[編集] 交響曲
- ヘ短調交響曲
- 交響曲第0番ニ短調
- 交響曲第1番ハ短調
- 交響曲第2番ハ短調
- 交響曲第3番ニ短調
- 交響曲第4番変ホ長調
- 交響曲第5番変ロ長調
- 交響曲第6番イ長調
- 交響曲第7番ホ長調
- 交響曲第8番ハ短調
- 交響曲第9番ニ短調
この他に管弦楽曲として『序曲ト短調』『3つの管弦楽小品』『行進曲ニ短調』がある。
オーケストラの編成はヘ短調~6番までの交響曲は一般的な2管編成を基本として書かれている。7番はこれに4本のワーグナー・チューバが入り、8番は交響曲の中で唯一ハープを用い、8本のホルン(このうち4本はワーグナー・チューバ持ち替え)を要する3管編成である。未完の9番においては残された草稿は3管編成を示しているがもし彼がこの曲の初演までに生きていたならば、いくばくかは拡大されていたであろう。ただし実際の演奏においては倍管や管楽器の第1奏者の増強(特に第1トランペット)が行われている。
[編集] 合唱曲
彼の残した宗教合唱曲には、3つのミサ曲や『テ・デウム』などの大規模なものも含まれ、とりわけ『テ・デウム』は古今の宗教音楽作品の中でも、傑作の1つとして高い評価を得ている。モテットには『アヴェ・マリア』、『これこそ大祭司なり』、『この場所は神が作り給いぬ』、『エサイの枝は芽を出し』、『王の御旗は翻る』などが残されている。他の宗教合唱曲は、『詩篇150篇』のような傑作もある。
またブルックナーは若い頃から、男声カルテットを組織するほどの男声合唱好きであり、晩年までに40曲ほどの男声重唱および合唱曲を残した。男声合唱と金管楽器のための『ゲルマン人の行進』は、彼にとっての最初の出版作品であり、また、最後の完成作品となった『ヘルゴラント』は、男声合唱とオーケストラのための作品である。
[編集] 室内楽
ブルックナーは、交響曲と合唱曲を除くジャンルの作品はあまり残さなかったが室内楽の分野では、弦楽五重奏曲ヘ長調が傑作として知られる。死後10年目には、習作曲としての弦楽四重奏曲ハ短調が発見された。
[編集] 特徴
- ブルックナー開始
- 第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2,4,7,8,9番に見られる。
- ブルックナー休止:楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止させ(ゲネラル・パウゼ)る手法である。
- ブルックナー・ユニゾン
- オーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる
- ブルックナー・リズム
- (2+3) によるリズム[サンプルmidiファイル] 。第4,6番で特徴的である。(3+2) [サンプルmidiファイル] になることもある。金子建志は、初期の稿では5連符として書かれているが、改訂稿ではブルックナー・リズムに替えられていることを指摘して、、演奏を容易にするための改変だったのではないかとしている。複付点音符と旗の多い短い音符の組み合わせで鋭いリズムを構成する方法(9番)などがある。
- ブルックナー・ゼクエンツ:ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り下げていく手法。いたるところに見られる。
- コーダと終止
- コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げる。
- 和声
- ブルックナーの和声法で、従来響きが濁るので多くの作曲家が避けた技法。例えば根音Gとした場合、根音Gに対して、属9の和音以上に現れる9の音のAbが半音違いで鳴ること、属11の和音においてBとCが半音違いで鳴ることや、13の和音においてDとEbが半音違いで鳴ること。もう一つは対位法の場面で現れ、対旋律や模倣が半音違いで鳴ること。従って和声学上の対斜とは意味が異なる
- またブルックナーにおいては、ワーグナーのトリスタン和音がそのまま使れていることがある。この和音の扱いは、ワーグナーより巧みである。和音の音色を明確にするため同一楽器に当てている例が多い。和音の機能をはっきりさせる為に密集配置がほとんどで、これが後期ロマン派の香りを引き立たせる大きな要因である。
[編集] 版問題について
ブルックナーは作品を完成させてからもさまざまな理由から手を入れることが多かった。加えて、長大すぎるために演奏機会に恵まれなかった師の作品を世に出そうと、弟子がカットを加えオーケストレーションの変更をした版が生前から存在した。これらのことからブルックナー作品の版・稿問題は複雑でありここで扱う。
[編集] 初版群
いわゆる改訂版がこれにあたる。ブルックナーのつくった稿を弟子のシャルク兄弟とフェルディナント・レーヴェなどが改訂したもの。 原典版論争の中で駆逐され現在でも改悪版との誤解を受けることが多い。 この改訂はブルックナーの同意を受けていたものがほとんどであり正当性も高い。現在ではほぼ絶版。学会では再評価の機運にある
[編集] ハース版
第1時全集版。ブルックナーの生前から弟子の手が入っているのは知られており、「ブルックナーの意思に反する」と非難され始め、国際ブルックナー協会が新たな版をロベルト・ハースなどの校訂で「原典版」として出版した。 ただしこのプロジェクトはナチス・ドイツの協力を受けていたことにより戦後頓挫。ハースが国際ブルックナー協会を追放される形となった。更にハースの主観的な校訂も問題だった。第2,4,8番などにおいては初版よりもブルックナーの自筆から遠いものだった。
[編集] ノヴァーク版
- 第2時全集版。第二次世界大戦後、国際ブルックナー協会はレオポルト・ノヴァークに校訂をさせた。ブルックナーの創作形態をすべて出版することを目指しており3,4,8番の初稿が出版され、ハース版の問題点も改善されている。 現在も続けられており近年ではキャラガン校訂による交響曲第2番の第1稿と第2稿、コールズ校訂による交響曲第9番、コースヴェット校訂による交響曲第4番が出版させられた。
冷戦時代西側だったオーケストラではノヴァーク版、東側ではハース版を使う傾向がある。ノヴァーク版はウィーン、ハース版はライプツィヒより出版され続けたためである。
[編集] ブルックナーの受容
古くはヴィルヘルム・フルトヴェングラーやハンス・クナッパーツブッシュなどが挙げられる。ロベルト・ハースによる旧全集の原典版が出版された後、「原典版」の第4番と第5番が、1936年にカール・ベームによって世界初録音された。
ブルックナーの作品は欧米、特に独墺圏では大変人気が高いので、若い指揮者が積極的に演奏会・録音に取り上げることが多い。また日本もブルックナー信奉者が多く、演奏機会には比較的めぐまれている。
ブルックナーの交響曲を「全集」としてまとめて録音したのは、国際ブルックナー協会の会長も務めたオイゲン・ヨッフムが最初だ。ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルグ・ショルティをはじめ、多くの指揮者が全集を完成させている。近年の指揮者のうち、ブルックナーの紹介に貢献したのは、ゲオルグ・ティントナー、ギュンター・ヴァント、セルジュ・チェリビダッケ、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、ベルナルド・ハイティンク、ヘルベルト・ブロムシュテット、エリアフ・インバル、ニコラウス・アーノンクール、ダニエル・バレンボイム、クリスティアン・ティーレマン、フランツ・ウェルザー=メストなどである。
全集録音を行った指揮者でも、第3、第4、及び第8の交響曲の第1稿に基づく版を世界初録音したエリアフ・インバルなど、版問題に視点を当てた人もいる。 ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(旧ソビエト連邦)はすべての版の網羅を目指した全集を録音していたが、ソビエト連邦崩壊のため完成のあと一歩手前で頓挫したのが惜しまれる。同じ曲でも複数の版を一人の指揮者・同一のオーケストラで聴くことができるが、結局第8番の第1稿などの一部の版が録音されなかった。“習作”交響曲は1992年にインバル指揮の盤がワールド・ワイドに発売されて容易に耳にすることが出来るようになったが、1980年代末頃にフランスのシャン・ドゥ・モンド・レーベルから1983年録音のロジェストヴェンスキー盤が第00番として第0番とともに2枚組みでCD化され、これが“習作”交響曲の初CDとなった。
日本においてはクラウス・プリングスハイムの指揮により東京音楽学校にて1936年2月15日に交響曲第9番の日本初演が行われており、これが日本におけるブルックナー受容史の第1ページとされているが一般的な受容には程遠い状態であったしかし、その後SPからLP、モノラルからステレオへとオーディオの発展とともに徐々に受容され始めた。日本人指揮者では朝比奈隆が1970年代にブルックナー交響曲全集を録音している。それは国内のブルックナー・ファンの拡大に大きく貢献した。
ブルックナーの交響曲を、彼と切り離せない楽器であるオルガンに編曲する試みなされている。
[編集] 外部リンク
Anton Bruckner Symphony Versins Discography - 自主制作盤や海賊盤なども含む、ほぼ完全なディスコグラフィが曲別、版別、稿別に掲載されている海外のサイト。
Bruckner Fan Homepage - ファンサイト。
ブルックナーの交響曲第4番の版について - アマチュア・オーケストラに参加する個人のサイト。第4番の各版の経緯と相違点について譜例・音源付きで紹介されている。