ロリン・マゼール
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ロリン・マゼール(Lorin Maazel, 1930年3月6日 - )はフランス・パリ近郊、ヌィイ・スル・セーヌ(Neuilly-sur-Seine)出身、アメリカ国籍の指揮者・ヴァイオリニスト・作曲家。ピッツバーグ大学卒業。
目次 |
[編集] 経歴
ユダヤ系ロシア人の父とハンガリーとロシアのハーフである母の家庭に生まれる。生後ほどなくしてアメリカに一家で移住し、5歳の頃からヴァイオリンを7歳の頃から指揮の勉強を始めるが、天才振りを発揮したのは主に指揮の方面であった。8歳の時にニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して指揮者デビューを飾り、以後9歳でレオポルド・ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管弦楽団を指揮、11歳でアルトゥーロ・トスカニーニに認められNBC交響楽団の夏季のコンサートを指揮した。10代半ばまでには全米のほとんどのメジャー・オーケストラの指揮台に上がっている。ピッツバーグ大学在学中はピッツバーグ交響楽団の一員として活躍する一方、弦楽四重奏団を結成したりもした。1952年、フルブライト奨学金の試験に合格したマゼールはイタリアに渡り、バロック音楽を研究する日々を送る事になる。その翌年カターニアでヨーロッパデビューを飾り、1960年にはバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー、フェルディナント・ライトナーと交代で「ローエングリン」を指揮した。1963年にはザルツブルク音楽祭にデビュー、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートでは、ヴァイオリンを弾きながら指揮をする「弾き振り」で話題となった(モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番)。1965年にはベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団(西ベルリン。現在はベルリン・ドイツ交響楽団)の音楽監督(どちらも早世したフェレンツ・フリッチャイの後任)に就任。1972年にはジョージ・セル死去後空席となっていたクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任した。1982年にはウィーン国立歌劇場の総監督に昇りつめ、またニューイヤーコンサートの指揮者を務めるなど(1986年まで。以後もたびたび出演)順調な指揮者人生を極めつつあった。
しかし、1984年にウィーンのポストをヨーロッパの歌劇場特有のゴタゴタ騒ぎで追われてからは、今までとは一転して少々苦難で挫折した指揮者人生を歩むこととなった。この時期の最大の挫折は、ヘルベルト・フォン・カラヤン辞任後の後任を探していたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督のポストを逃したことであった。マゼール自身ベルリンには馴染みがあり、「自分が間違いなく選ばれる」と思っていたこともあり、雰囲気的にも「新音楽監督はマゼール」というムードが広がっていたが、後任に選ばれたのはクラウディオ・アバドだった。マゼールの落ち込みようは凄まじく、以後1999年までベルリン・フィルの出演要請に応えなかったほどであった。しばらくの間はバイエルン放送交響楽団と古巣のピッツバーグ交響楽団の音楽監督を務める傍らで、1994年からはニューイヤーコンサートに復帰。またヴァイオリニストとしてのCDのリリースや、作曲活動の開始など落選の傷を癒すかのごとく活動の場を広げた。音楽活動の一方で、環境問題への提言や国際連合諸機関に対するチャリティー・コンサートに取り組むなど慈善活動も活発に行うようになり、国際連合からは「国連友好大使」の称号を、またフランス、ドイツ、イタリアなどからは各国の最高級の勲章を授与されている。
2002年に楽員の総意によりニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任。また2004年には団員が全員「団員」としてではなく「ソリスト」として契約しているトスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団の才能に以前から惚れ込んでいたこともあり、このオーケストラの音楽監督に就任した。2005年5月3日には、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に基づく自作のオペラ「1984年」がロンドンのロイヤルオペラで初演され、大喝采を浴びている。
日本には1963年のベルリン・ドイツ・オペラ初来日公演にカール・ベームらに同行し初来日(当時の表記は「ローリン・マーツェル」)。「トリスタンとイゾルデ」の日本初演を指揮した他、公演後に東京交響楽団に来演している。以後30回近く来日しており、音楽監督に就いたオーケストラとはすべて来日公演を行っている(ウィーン国立歌劇場のみ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)。他にはフィルハーモニア管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、さらには臨時編成のオーケストラ「スーパーワールドオーケストラ2001」などとも共演・来日公演を重ねている。
[編集] 主なポスト
- 1965年 - 1971年、ベルリン・ドイツ・オペラ音楽監督
- 1965年 - 1975年、ベルリン放送交響楽団(西ベルリン)音楽監督
- 1972年 - 1982年、クリーヴランド管弦楽団音楽監督
- 1982年 - 1984年、ウィーン国立歌劇場総監督
- 1988年 - 1996年、ピッツバーグ交響楽団音楽監督
- 1993年 - 2002年、バイエルン放送交響楽団音楽監督
- 2002年 - 現在、ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督
- 2004年 - 現在、トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督
[編集] 主な作品
- フルートと管弦楽のための音楽 Op.11(ジェームズ・ゴールウェイに献呈)
- ヴァイオリンと管弦楽のための音楽 Op.12
- チェロと管弦楽のための音楽
- ヴェイパーズ&ケイパーズ/アイルランドの9つの詩
- 真珠、少女(A Pearl,A Girl)
- 交響的断章「フェアウェル」(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の委嘱作品)
- オペラ「1984年」(2幕)
[編集] 外部リンク
先代: フリチャイ・フェレンツ |
ベルリン放送交響楽団首席指揮者 1964–1975 |
次代: リッカルド・シャイー |
先代: ピエール・ブーレーズ (音楽顧問) |
クリーヴランド管弦楽団音楽監督 1972–1982 |
次代: クリストフ・フォン・ドホナーニ |
先代: エゴン・ゼーフェルナー |
ウィーン国立歌劇場総監督 1982–1984 |
次代: エゴン・ゼーフェルナー |
先代: アンドレ・プレヴィン |
ピッツバーグ交響楽団音楽監督 1984–1996 |
次代: マリス・ヤンソンス |
先代: セルジュ・チェリビダッケ |
フランス国立管弦楽団首席指揮者 1987–1991 |
次代: シャルル・デュトワ |
先代: コリン・デイヴィス |
バイエルン放送交響楽団首席指揮者 1993–2002 |
次代: マリス・ヤンソンス |
先代: クルト・マズア |
ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督 2002– |
次代: - |
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