京都市電
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京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。1895年に京都電気鉄道によって日本最初の電気鉄道として開業され、1912年の市営路線開設、1918年の全面市営化を経た後、1978年9月30日限りを以って全廃された。
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[編集] 概要
1895年(明治28年)、民間企業である京都電気鉄道により第1期区間が開業。日本最初の電車となった。京都に日本初の電車が開業した背景には、東京奠都に伴い天皇のお膝元としての地位が無くなり、このまま衰退してしまうのではないかという懸念を市民に抱かせたため、その反動で京都市民が進取の気を持ち、結果的に産業の振興が促されたことがあったのではないかといわれている。また日本初の水力発電が行われ、大量の電力を確保するのが容易だったことも理由にあげられる。なお産業振興を促す京都市民の中には、784年(延暦3年)に平城京から長岡京、794年(延暦13年)に長岡京から平安京に遷都したことで以後の奈良が衰退したことを挙げて、「第2の奈良になるな」といったスローガンを掲げた者もいたと言われる。
最初の路線は京都市南部の伏見から京都駅前付近までで、その後、京都駅前から鴨川東方の岡崎まで延長された。岡崎で開催予定の内国勧業博覧会への足として、大阪から淀川を船で来る客を見込んでのこととされる。ただし、開業当初は京都駅付近の軌道が繋がっておらず、乗客は踏み切りを渡って乗り換えなければならなかった。
その後、京都市によっても1912年(明治45年)の4路線7.7km開業を皮切りにして独自に路線建設がなされ、それと競合することになった京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、市へ1918年(大正7年)に買収された。
京都電気鉄道買収後、路線は戦後に至るまで延長され、最盛期は70km弱の路線となった。乗客も増え1963年(昭和38年)には一日60万人以上の利用があった。
しかしその後の自動車の普及により乗客の減少がつづき経営が困難となり順次廃止されていった。当時、モータリゼーションの進展、地下鉄の敷設こそが進歩の象徴、大都市の条件とする風潮があり、路面電車を故意に時代遅れのものに貶めるネガティヴキャンペーンのようなものがあった。定時性を確保し乗客離れを食い止めるためには、1960年代に解禁された自動車の併用軌道乗り入れを再び全面禁止すべきという声もあったが、市は一部の路線(外周線の18.3kmにつき1975年4月から)を除き実施しなかった。また実施された区間においてもそれが徹底されていたとはいえない面があった。定時性が保てない→運行ダイヤを停留所に提示できない→乗客離れが進むといった悪循環が、意図的に行われたという指摘もあった。なお、併用軌道乗り入れ禁止ができなかったばかりに廃止に追い込まれたケースは金沢、川崎など数多い。
1969年(昭和44年)、富井市長在籍時に京都市の新たな交通計画(十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網)が可決され、外周線を除く市電の撤去が定められた。この背景には、累積赤字で交通局が財政再建団体に指定され、自治省(当時)からの利子補填などの支援・監督を受けるに当たり、赤字事業の縮小として路面電車の撤去が求められるという事情もあった(これは京都に限らず当時の多くの公営路面電車が直面した)。市民による存続運動も行われたが、市は頑に無視。1976年(昭和51年)に全面撤去へと計画を変更したのち、地下鉄開業にそなえ1978年(昭和53年)に全面廃止された。なお地下鉄路線網は1969年(昭和44年)当時の計画から40年近く経とうとしている2006年(平成18年)になっても全て完成しておらず、交通局の赤字体質も改善されてはいない。
市電全盛期には市バスはこれを補完する役割を担い、御前通や七本松通など裏通りを走る路線も数多く見られたが、かつての市電路線網がバス転換化されると人口のドーナツ化現象も相まってそれらの矮小路線は殆ど廃止されてしまった。
[編集] 路線データ
- 標準軌路線(1969年8月18日時点)
- 路線距離(営業キロ):68.8km
- 軌間:1,435mm
- 駅数:163駅(うち、急行停車駅100箇所)
- 複線区間:全線
- 電化区間:全線電化(直流600V)
- 専用軌道区間:京都駅前電停、七条千本のアンダーパス、伏見線の一部、稲荷線のほぼ全線
- 狭軌路線(1961年8月1日廃止)
- 路線距離(営業キロ):6.3km
- 軌間:1,067mm
- 駅数:21駅(うち、標準軌路線との重複駅6箇所)
- 複線区間:全線
- 電化区間:全線電化(直流600V)
- 専用軌道区間:堀川中立売の橋
- 無軌条電車路線
- 京都市営トロリーバスを参照
[編集] 特徴
伏見・稲荷線を除くと京都市街の碁盤の目に沿った形で路線が建設され、網の目のような路線網を誇った。路線名は通りの名、電停名は交差する縦横の通りの名を組み合わせたものが多く付けられた(京都市内の通りを参照。なお伏見線は竹田街道沿いに建設された)。また京都らしく、寺社の名を冠した電停も多かった。すぐ近くにある場合は「前」、比較的距離がある場合は「道」の一字を加えた。
こうした路線の特徴を生かして循環系統が多数設定され、乗換が必要な区間をできるだけ少なくする工夫がなされていた。この点は、系統の独立性を尊重し、循環系統がまったくなかった東京都電とは対極といえる(最盛期において路線延長は都電の約1/3であったが、系統数は約半分であった)。また、平日朝のラッシュに対応するため、当時の日本の路面電車としては画期的な2両編成の連結運転や急行運転も行われた。
[編集] 三線軌条区間
京都電気鉄道は狭軌、一方の京都市が自ら建設した路線は標準軌(広軌)であった。市当局は京電の敷設した道路とは別に都市計画で拡張した道路に路線を建設したため、両者が重なることは少なかったが、それでも一部には重複する区間が生じ、三線軌条が敷設された。地元ではこれを「六線共用」とも呼んだ。
- 四条堀川~四条西洞院(1912年~1961年)四条線/堀川線
- 烏丸丸太町~寺町丸太町(1913年~1926年)丸太町線/中立売線
- 烏丸丸太町~烏丸下立売(1913年~1926年)烏丸線/中立売線
- 七条東洞院~七条河原町(1913年~1927年)七条線/木屋町線
[編集] 他路線との平面交差
全盛期には京阪電気鉄道とは4カ所(東山線・四条線・七条線・稲荷線)、京福電気鉄道嵐山線(嵐電)とは1カ所(西大路線、1958年9月15日までは京福北野線との間にもう1カ所)、京福電気鉄道叡山線(現・叡山電鉄叡山本線)とは1カ所(東山線)の合計6カ所も他の路線との平面交差があった。また、四条通では無軌条線が国鉄および、嵐電と平面交差していた。
また、伏見線と奈良鉄道(奈良線の前身)の旧線とも、奈良線のルートが変更される1921年まで平面交差していた。しかしその時代に衝突事故が続発したため、奈良線の旧路盤を使って奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)が建設されたときには高架線となった。
[編集] 他路線との立体交差
- 国鉄 - 伏見線・九条線・西大路線・大宮線・七条線・東山線
- 京阪電気鉄道 - 九条線
- 近鉄京都線 - 九条線・伏見線
[編集] 乗り入れ運転
1949年、上記の平面交差の一つである京福電気鉄道叡山線元田中駅との間に渡り線が設置され、叡山線の山端駅(現・宝ヶ池駅)までの乗り入れ運転が臨時で実施された。これは当時、宝ヶ池にあった市営競輪場への輸送のためであった。収容力がもっとも大きかった1000形が専用で使用され、叡山線内はノンストップで走った。山端駅には市電専用の低いホームが設置された。しかし、市電側の集電装置がトロリーポールからビューゲルに変更されたことに加え、市の競輪事業がかねてから公営でギャンブル事業を行うことに反対意見があったことや市の財政再建に目処がついたことで中止されたことから、1955年限りでこの乗り入れ運転は中止された(渡り線はその後も長い間残されていた)。
なお、このほかにも第二次世界大戦中に京阪電気鉄道京津線と東山線との間に連絡線が建設されたが、こちらは市内から排出される屎尿の輸送には使われたものの、旅客営業は実施されなかった。
[編集] 貨物輸送
第二次世界大戦中から戦後にかけて野菜輸送も行われた。北大路線高野橋と下鴨集荷場、伏見線棒鼻と深草集荷場、七条線七条千本と京都中央卸売市場の間に引込線を設け、散水車を改造した専用貨車で運搬していた。
[編集] 沿革
- 1895年2月1日 京都電気鉄道(以下、京電と略称)が伏見線を開業。
- 1912年6月11日 京都市も烏丸線などを開業。
- 1914年8月25日 伏見線全線開通。京電による最後の新線区間。
- 1918年7月1日 京都市が京電を買収。
- 1927年4月22日 京都駅前停留所改装(ループ線)。
- 1929年1月16日 河原町線京都駅前~七条河原町間開通。旧京電路線は堀川線(北野線)以外、すべて改軌ないし並行路線に置き換えられる。
- 1932年4月1日 市電の補助として、四条大宮~西大路四条間に無軌条電車線(トロリーバス)開業(京都市営トロリーバスも参照)。
- 1944年9月21日 深草・下鴨から中央卸売市場への野菜輸送開始。
- 1947年12月10日 600形電車にモーターをはずした1形を連結した「親子電車」の運行を開始。
- 1948年10月20日 親子電車の運行を終了。
- 1949年7月1日 貨物輸送休止。
- 1949年12月27日 京都駅前・四条大宮~京福宝ヶ池駅間の直通運転開始(競輪開催日のみ)。
- 1952年9月20日 京都駅前停留所改装(頭端式ターミナル)。
- 1955年9月1日 京福への直通運転廃止。
- 1958年9月16日 京福電気鉄道北野線に代わる形で今出川線北野紙屋川町~白梅町間開業。市電ネットワークが完成するとともに、京都市電の路線網が最長となる。
- 1958年12月1日 梅津線、トロリーバスに転換。
- 1961年8月1日 旧京電の狭軌路線として最後まで残っていた堀川線(通称:北野線)6.3km廃止。
- 1962年3月27日 平日朝7時~9時の急行運転を開始。
- 1962年5月1日 トロリーバス、梅津段町~松尾橋間開業。
- 1964年3月16日 ワンマン車両を導入開始。烏丸線で平日朝7時~9時の連結運転を開始。
- 1965年9月10日 北大路線・西大路線の全線および東山線の一部でも連結運転を開始。
- 1965年12月1日 併用軌道への自動車の乗り入れを全面開放。
- 1969年10月1日 京都市営トロリーバス廃止(5.2km)。
- 1970年1月16日 外周線での連結運転を休止。
- 1970年4月1日 日本最初の電車路線だった伏見線と稲荷線(計7.8km)廃止。
- 1971年4月1日 連結運転を全廃。
- 1972年1月23日 四条線・大宮線・千本線(計9.7km)廃止。
- 1974年4月1日 烏丸線(七条烏丸~烏丸車庫前間6.0km)廃止。
- 1975年3月30日 運行が全面的にワンマン運転になる。
- 1975年4月15日 外周線のうち18.3kmにつき併用軌道での自動車通行禁止を実施。
- 1976年4月1日 今出川線・白川線・丸太町線(計12.3km)廃止。この廃止により、1971年3月18日の東京都電の第六次撤去以来保ってきた「日本最大の路面電車」の地位を西鉄北九州線に譲り渡すことになる。
- 1977年10月1日 河原町線(七条河原町~洛北高校前間)・烏丸線(京都駅前~七条烏丸間)・七条線(西大路七条~七条河原町間)計9.4km廃止。外周線(東山線・北大路線・西大路線・九条線)と、東山七条から京都駅に通じる路線(七条線・河原町線の一部)のみが残される。
- 1978年10月1日 市電全面廃止(23.6km)。
[編集] 路線・停留所一覧
原則として1969年8月18日時点、それ以前に廃止された路線は廃止時点を基準とする。
()で囲んだ電停は、平日朝の急行運転時は全電車が通過した。
[編集] 当初より市営の路線
[編集] 東山線
- 東福寺 - 泉涌寺道 - (今熊野) - 東山七条 - 馬町 - (五条坂) - 清水道 - 東山安井 - 祇園 - 知恩院前 - 東山三条 - 東山仁王門 - (岡崎公園前) - 熊野神社前 - (近衛通) - 東一条 - 百万遍 - (飛鳥井町) - 叡電前 - (田中大久保町) - 高野
- 1912年12月25日 馬町~東山三条 開通。
- 1913年3月15日 東山三条~冷泉通 開通。
- 1913年4月5日 東山七条~馬町 開通。
- 1913年4月16日 徳成橋北詰~熊野神社前 開通。
- 1913年5月6日 冷泉通~徳成橋北詰 開通。
- 1928年1月13日 熊野神社前~百万遍 開通。
- 1928年11月8日 東福寺~東山七条 開通。
- 1943年7月10日 百万遍~高野 開通。
- 1978年10月1日 廃止。
[編集] 北大路線
- 高野 - (高野橋) - 下鴨高木町 - (下鴨東本町) - 洛北高校前 - (府立大学前) - 植物園前 - 烏丸車庫前 - 北大路新町 - (北大路堀川) - 大徳寺前 - (船岡公園前) - 千本北大路
- 1923年10月21日 北大路橋西詰〔植物園前〕~烏丸車庫前 開通。
- 1930年5月28日 大徳寺~千本北大路 開通。
- 1931年12月25日 烏丸車庫前~大徳寺 開通。
- 1934年10月1日 高野~北大路橋西詰 開通。
- 1978年10月1日 廃止。
[編集] 西大路線
- 千本北大路 - (金閣寺前) - わら天神前 - 白梅町 - (大将軍) - (西大路下立売) - 円町 - 太子道 - 西大路御池 - 西大路三条 - (西大路蛸薬師) - 西大路四条 - (西大路松原) - 西大路五条 - 西大路花屋町 - 西大路七条 - 西大路八条 - 西大路駅前 - 西大路九条
- 1928年11月5日 円町~西大路四条 開通。
- 1935年6月3日 西大路四条~西大路七条 開通。
- 1935年12月20日 千本北大路~わら天神前 開通。
- 1936年11月17日 わら天神前~白梅町 開通。
- 1938年9月16日 西大路駅前~西大路九条 開通。
- 1938年12月22日 西大路七条~西大路八条 開通。
- 1939年7月5日 西大路八条~西大路駅前 開通。
- 1943年10月1日 白梅町~円町 開通。
- 1978年10月1日 廃止。
[編集] 九条線
- 西大路九条 - (洛陽高校前) - 九条新千本 - (京阪国道口) - 九条大宮 - 九条近鉄前 - 九条車庫前 - 大石橋 - (九条河原町) - 東福寺
- 1933年8月5日 九条車庫前~大石橋 開通。
- 1937年5月7日 九条大宮~旧西大路〔西大路九条〕 開通。
- 1937年11月22日 九条油小路~九条車庫前、大石橋~東福寺 開通。
- 1939年2月21日 九条大宮~九条油小路 開通。
- 1978年10月1日 廃止。
[編集] 七条線
- 西大路七条 - (七条御前通) - 七条千本 - 七条壬生通 - 七条大宮 - 七条西洞院 - 七条烏丸 - 七条河原町 - 七条大橋 - (博物館三十三間堂前) - 東山七条
- 1912年11月21日 七条大宮~七条烏丸 開通。
- 1913年4月5日 七条河原町~東山七条 開通。
- 1913年8月5日 七条烏丸~七条河原町 開通。
- 1927年4月21日 山陰線踏切東~七条大宮 開通。
- 1928年11月21日 七条千本~山陰線踏切東 開通。
- 1934年10月11日 西大路七条~七条千本 開通。
- 1977年10月1日 西大路七条~七条河原町 廃止。
- 1978年10月1日 廃止。
[編集] 四条線
- 四条大宮 - 四条西洞院 - 四条烏丸 - (四条堺町) - 四条河原町新京極 - 四条京阪前 - 祇園
- 1912年6月11日 四条西洞院~四条小橋 開通。
- 1912年9月12日 四条大宮~四条堀川 開通。
- 1912年12月25日 四条堀川~四条西洞院、四条小橋~祇園 開通。
- 1972年1月23日 廃止。
[編集] 丸太町線
- 円町 - (丸太町御前通) - (丸太町七本松) - 千本丸太町 - (丸太町智恵光院) - 堀川丸太町 - 府庁前 - 烏丸丸太町 - (裁判所前) - 河原町丸太町 - (川端丸太町) - (丸太町新道) - 熊野神社前 - 岡崎通 - 天王町
- 1912年6月11日 千本丸太町~烏丸丸太町 開通。
- 1913年4月16日 烏丸丸太町~熊野神社前 開通。
- 1928年6月15日 円町~千本丸太町 開通。
- 1930年3月2日 熊野神社前~天王町 開通。
- 1976年4月1日 廃止。
[編集] 今出川線
- 白梅町 - (北野紙屋川町) - 北野 - (上七軒) - 千本今出川 - (今出川浄福寺) - 今出川大宮 - (今出川堀川) - 今出川新町 - 烏丸今出川 - (同志社前) - 河原町今出川 - 加茂大橋 - (関田町) - 百万遍 - (農学部前) - 北白川 - 銀閣寺道
- 1912年11月21日 千本今出川~今出川大宮 開通。
- 1912年12月25日 今出川大宮~烏丸今出川 開通。
- 1917年10月31日 烏丸今出川~寺町今出川 開通。
- 1924年10月1日 出町線 寺町今出川~河原町今出川を改軌。
- 1929年5月14日 百万編~銀閣寺道 開通。
- 1931年9月18日 河原町今出川~百万編 開通。
- 1957年4月3日 北野紙屋川町~千本今出川 開通。
- 1958年9月16日 白梅町~北野紙屋川町 開通。
- 1976年4月1日 廃止。
[編集] 白川線
- 銀閣寺道 - (浄土寺) - 錦林車庫前 - (真如堂道) - 天王町
- 1954年3月1日 全線開通。
- 1976年4月1日 廃止。
[編集] 大宮線
- 九条大宮 - 東寺前 - 七条大宮 - (島原口) - 大宮五条 - 大宮松原 - 四条大宮 - 壬生車庫前
- 1912年9月12日 四条大宮~壬生車庫前 開通。
- 1912年11月21日 七条大宮~四条大宮 開通。
- 1935年8月21日 旧九条~七条大宮 開通。
- 1937年5月7日 九条大宮~旧九条 開通。
- 1972年1月23日 廃止。
[編集] 千本線
- 壬生車庫前 - (千本三条) - 二条駅前 - 出世稲荷前 - 千本丸太町 - 千本出水 - 千本中立売 - (西陣京極) - 千本今出川 - (乾隆校前) - 千本鞍馬口 - (千本十二坊) - 千本北大路
- 1912年6月11日 壬生車庫前~千本丸太町 開通。
- 1912年9月12日 千本丸太町~千本今出川 開通。
- 1929年12月10日 今出川千本~千本北大路 開通。
- 1972年1月23日 廃止。
[編集] 烏丸線
- 京都駅前〔中央乗り場〕 - 七条烏丸 - (東本願寺前) - 烏丸五条 - (烏丸高辻) - 四条烏丸 - (烏丸三条) - 烏丸御池 - (烏丸二条) - 烏丸丸太町 - 烏丸出水 - 烏丸中立売 - 烏丸今出川 - (烏丸上立売) - 烏丸中学前 - 烏丸鞍馬口 - (下総町) - 烏丸車庫前
- 1912年6月11日 烏丸塩小路〔京都駅前〕~烏丸丸太町 開通
- 1913年5月26日 烏丸丸太町~烏丸今出川 開通。
- 1923年10月21日 烏丸今出川~烏丸車庫前 開通。
- 1927年4月22日 京都駅駅前広場に乗り入れる。
- 1974年4月1日 七条烏丸~烏丸車庫前 廃止。
- 1977年10月1日 廃止。
[編集] 河原町線
- 京都駅前〔東乗り場〕 - 塩小路高倉 -〔塩小路東入ル・河原町上ル〕- 七条河原町 - (河原町正面) - 河原町五条 - (河原町松原) - 四条河原町新京極 - 河原町三条 - 河原町二条 - 河原町丸太町 - 荒神口 - 府立病院前 - 河原町今出川 - (葵橋西詰) - (葵橋東詰) - 糺ノ森 - (下鴨神社前) - (一本松) - 洛北高校前
- 1924年10月1日 河原町丸太町~河原町今出川 開通。
- 1926年7月8日 四条河原町~河原町丸太町 開通。
- 1926年12月15日 四条河原町~河原町五条 開通。
- 1927年4月5日 平居町~四条河原町 開通。木屋町線 七条内浜〔七条河原町〕~平居町を改軌。
- 1929年1月16日 塩小路高倉~七条内浜 開通。伏見線 京都駅前~塩小路高倉を編入。
- 1955年10月12日 河原町今出川~洛北高校前 開通(この区間は下鴨線とも呼ばれる)。
- 1977年10月1日 七条河原町~洛北高校前 廃止。
- 1978年10月1日 廃止。
[編集] 梅津線
- 西大路四条 - 四条中学前 - 東貝川町 - 南広町 - 梅津
- 1945年2月2日 西大路四条~天神川 開通。
- 1945年8月3日 天神川~梅津 開通。
- 1958年12月1日 廃止(トロリーバスに転換)。
[編集] 蹴上線
- 東山仁王門~仁王門疎水~南禅寺前~蹴上
- 1926年8月7日 東山仁王門~仁王門疎水 開通。鴨東線 仁王門疎水~蹴上を改軌。蹴上線と改称。
- 1945年2月2日 休止。
- 1965年7月10日 廃止。
[編集] 京都電気鉄道によって敷設された路線
[編集] 伏見線
- 塩小路高倉 - 京都駅八条口 - 大石橋 - (札ノ辻) - 十条通 - 勧進橋 - (深草下川原町) - 竹田久保町 - (竹田出橋) - 七瀬川町 - (城南宮道) - 棒鼻 - 丹波橋 - (肥後町) - 大手筋 - (京橋) - 中書島
- 1895年2月1日 京電伏見線、七条停車場〔東洞院塩小路下ル〕~伏見下油掛 開通。
- 1901年4月12日 高倉陸橋開通、塩小路高倉経由に変更。
- 1914年3月31日 伏見下油掛~東浜〔京橋〕 開通。
- 1914年8月25日 東浜~中書島 開通。
- 1923年6月26日 全線改軌(一部に経路変更あり)。
- 1929年1月16日 京都駅前~塩小路高倉を河原町線に編入。
- 1970年4月1日 廃止。
[編集] 稲荷線
- 勧進橋 - 稲荷
- 1904年8月4日 全線開通。
- 1923年6月26日 全線改軌。
- 1970年4月1日 廃止。
[編集] 堀川線
- 通称:北野線、N電
- 京都駅前〔北野線乗り場〕 -〔塩小路西入ル・西洞院上ル〕- 七条西洞院 - 四条西洞院 - 四条堀川 - 二条城前 - 堀川丸太町 - 堀川中立売 - 千本中立売 - 下ノ森〔北野車庫前?〕 - 北野
- 1895年8月24日 堀川下立売~堀川中立売 中立売線として開通。
- 1900年5月7日 堀川中立売~下ノ森 開通。
- 1901年12月6日~1904年12月28日 堀川下立売から段階的に京都駅まで延伸。
- 1912年5月10日 下ノ森~北野 開通。
- 1957年3月19日 今出川線延伸工事のため、北野電停を今出川通の南側に移設。(それまでは北野天満宮境内横まで達していた)
- 1961年8月1日 廃止。
- 開業当初は堀川を渡る橋の手前でカーブするための敷地を確保出来ず、苦肉の策として転車台を設置していた。
- 京都市当局は大正時代に改軌の計画を立てていた(京都駅前~四条西洞院と堀川中立売~北野は廃止、堀川中立売~北大路堀川を延伸)が、不況による資金不足等により実現せず、最後まで狭軌のまま残ることとなった。
[編集] 木屋町線
- 七条停車場前〔東洞院塩小路下ル〕~新寺町上数珠屋町〔河原町正面付近?〕~平居町~木屋町五条~木屋町二条
- 1895年4月1日 全線開通。
- 1926年9月2日~1927年4月6日 河原町線の延長に伴い、段階的に廃止。七条内浜〔七条河原町〕~平居町は改軌されて河原町線に組み込まれる。
- 七条停車場前~新寺町上数珠屋町の経路は何度も変更された。のちの京都市電線と重複しない区間には以下のものがある。
- 塩小路東洞院~七条東洞院
- 開業時のルート。一旦廃止されたのち標準軌路線として再開。
- 1929年1月16日 河原町線〔河原町塩小路経由〕の延長に伴い休止、間もなく廃止。
- 七条間之町~間之町上数珠屋町~新寺町上数珠屋町
- 開業時のルート。
- 1901年1月21日 七条間之町~七条内浜~新寺町上数珠屋町の開通に伴い廃止。
- 塩小路高倉~七条高倉
- 1901年8月23日 開通。一旦廃止されたのち標準軌路線として再開。
- 1929年1月16日 河原町線の延長に伴い休止、翌年廃止。
- 塩小路東洞院~七条東洞院
[編集] 鴨東線
- 木屋町二条~二条疎水端~仁王門疎水~南禅寺前~蹴上
- 1895年4月1日 木屋町二条~南禅寺前 開通。
- 1907年8月8日 全線開通。
- 1926年8月7日 木屋町二条~仁王門疎水 休止(9月廃止)。仁王門疎水から東は改軌されて蹴上線と改称。
[編集] 中立売線
- 木屋町二条~寺町二条~寺町丸太町~丸太町富小路~烏丸丸太町~烏丸下立売~堀川下立売~堀川中立売
- 1895年7月1日 木屋町二条~丸太町富小路 開通。
- 1895年8月24日 全線開通。
- 1926年7月15日 廃止。堀川下立売~堀川中立売は堀川線として残存。
[編集] 出町線
- 寺町丸太町~寺町今出川~河原町今出川~青竜町〔出町〕
- 1901年3月11日 開通。
- 1924年4月9日 寺町今出川~青竜町 休止。
- 1924年10月1日 廃止。寺町今出川~河原町今出川は改軌されて今出川線に組み込まれる。
[編集] 城南線
- 堀川押小路~千本押小路~二条駅前
- 1902年2月10日 開通。
- 1912年5月30日 廃止。
[編集] 御池線
- 堀川御池~千本御池~二条駅前
- 1912年5月30日 開通。
- 1919年1月18日 廃止。
[編集] 未成線
戦後、いくつもの延伸計画があったが、廃止機運の方が高まり立ち消えとなっていった。
- 六地蔵~醍醐~山科 - 地下鉄東西線として実現
- 蹴上~天神川 - 高架線としての計画もあったが地下鉄東西線として実現
- 京都駅~堀川七条~北大路堀川 - 堀川線(北野線)の代替え路線として検討された
- 梅津段町~物集女街道~桂駅 - 無軌条路線として検討されていたがその構想は東西線延伸の元となった
[編集] 鉄道線との接続電停
事業者名は当時のもの。
- 京都駅前、京都駅八条口
- 西大路駅前
- 西大路駅(東海道本線)
- 二条駅前
- 二条駅(山陰本線)
- 東福寺
- 稲荷
- 中書島
- 七条河原町、七条大橋
- 七条駅(京阪本線)
- 河原町五条
- 五条駅(京阪本線)
- 四条河原町新京極、四条京阪前
- 河原町三条
- 東山三条
- 東山三条駅(京阪京津線)
- 九条近鉄前
- 東寺駅(近鉄京都線)
- 棒鼻
- 伏見駅(近鉄京都線)
- 四条烏丸
- 烏丸駅(阪急京都本線)
- 四条大宮
- 西大路四条
- 西院駅(阪急京都本線)、(京福嵐山本線)
- 西大路三条
- 三条口駅(京福嵐山本線)
- 白梅町
- 北野(1958年まで)
- 北野駅(京福北野線)
- 加茂大橋
- 叡電前
- 元田中駅(京福叡山本線)
[編集] 旧電停付近にある地下鉄駅
京都市営地下鉄は、烏丸線が烏丸通を、東西線が御池通(四条通と丸太町通の間)を通っている。
- 烏丸線
- 竹田駅:七瀬川町(少し離れている)
- くいな橋駅:竹田出橋(少し離れている)
- 九条駅:大石橋
- 京都駅:京都駅前
- 五条駅:烏丸五条
- 四条駅:四条烏丸
- 烏丸御池駅:烏丸御池
- 丸太町駅:烏丸丸太町
- 今出川駅:烏丸今出川
- 鞍馬口駅:烏丸鞍馬口
- 北大路駅:烏丸車庫前
- 東西線
- 西大路駅(2007年開業予定、仮称):西大路御池
- 二条駅:二条駅前
- 二条城前駅:京電千本押小路、千本御池(堀川御池と二条城前の中間)
- 烏丸御池駅
- 京都市役所前駅:京電寺町御池(河原町三条と河原町二条の中間)
- 東山駅:東山三条
- 蹴上駅:蹴上
[編集] 車庫
車庫は、広軌線には壬生、烏丸、九条、錦林の4ヶ所に設けられていたほか、狭軌線用の車庫として北野車庫が設けられていた。また、かつては三哲(現在の下京区総合庁舎)に狭軌線の車庫があったほか、四条御前、梅津に無軌条線(トロリーバス) の車庫が設けられていた。入庫する際には乗客に乗り換え券が渡された。2005年現在、北野車庫は京都こども文化会館、烏丸車庫は地下鉄北大路駅および大規模商業施設、他は市バスの車庫または操車場となっている。
- 壬生車庫
- 烏丸車庫
- 九条車庫
- 錦林車庫
- 北野車庫
[編集] 車両
1937年から製造された600形によって「京都市電スタイル」と呼ぶべきものが確立され、その後の車両にも受け継がれた(半流線型の前頭部、緑とクリームのツートンカラー、正面窓上の前照灯)。この車両・塗装の影響は大きく、他の路面電車にも似たものが見受けられた。
京都市電は旧6大都市の中で唯一PCCカー(およびそれに準じた車両)を製造しなかったが、1958年から製造された700形は、近代化された軽量車体で(一部は間接制御を装備)弾性車輪を履き、それらに匹敵する車両であった。
1960年代になると他の都市同様、京都市電もワンマン運転に対応した改造を行うこととなる。最初に改造された2600形は、その前に製造された2000形に準じたスタイルで、ラッシュ時には連結運転可能な仕様になっていたが、その後に改造された1600形・1800形・1900形は簡易な改造に止まった。
ワンマン化改造を行わなかった車両は1974年の烏丸線廃止と同時に運用からはずされた。ただし、労働組合との間での条件交渉が妥結しなかったため、その後約1年間、ワンマン化改造された車両の一部に一時的に車掌を乗務させる措置がとられた(車掌を乗務させる車両は、ワンマンカーの印である赤い帯と「ワンマンカー」の表示が取り外されていた)。
- 狭軌1形
- 1961年(昭和36年)に廃止された堀川線(北野線)の車両。1955年までは広軌1形との重複を避けるため車体番号に「N」をつけて区別されていた(「N電」という通称はこれに由来)。京電の買収当時はN1号~N133号の133両を引き継いだが、直後に33両を売却。以後次第に数を減らして堀川線廃止前年には28両が残っていた。この28両は1955年に改番を行い、1~28に番号が付け直されている。(すでに広軌1形が全廃された後だったため、それまで番号の前に付いていた「N」は省略された)廃止の年の3月末に6両が廃車となり、最後まで残ったのは22両だった。
- 広軌1形
- 1912年~1921年 171両(1号~171号)ラスト2両は貴賓車(無番)からの改造編入。
- 200形
- 1927年~1929年 93両(201号~293号)
- 300形
- 1925年~1927年 50両(301号~350号)
- 500形
- 1924年~1928年、40両(501号~540号)
- 600形
- 1937年~1947年、95両(601号~695号)
- 1000形
- 1949年、32両(1001号~1032号)
- 800形
- 1950年~1955年、90両(801号~890号)
- 900形
- 1955年~1957年、35両(901号~935号)
- 700形
- 1958年~1962年、48両(701号~748号)
- 2000形
- 1964年~1965年、6両(2001号~2006号)
- 2600形
- 1964年~1966年(600形から改造)、18両(2601号~2618号)
- 1600形
- 1966年~1968年(600形から改造)、63両(1605号~1667号)
- 1800形
- 1968年~1970年(800形から改造)、70両(1801号~1870号)
- 1900形
- 1970年(900形から改造)、16両(1916号~1931号)
[編集] 現在残っている元在籍車両
- 狭軌1形(1955年以降の番号で記載。旧番号が判明しているものは付記)
- 1800形(1869号)
- 1800形(1870号)
- 1900形(1916号~1921号、1923号~1931号)
- 2000形(2002号~2006号)
この他、京都市内や近畿一円の小学校・公園などで多数の車両が静態保存されたり、遊戯施設や倉庫として再利用された(古い車両の中には個人住宅になったものさえある)が、廃止から30年近く経って良好な状態で残るものは少ない。
[編集] かつて保存されていた元在籍車両
[編集] 存続運動(京都の市電をまもる会)
伏見・稲荷線廃止後の1971年、有識者や市民をメンバーとした「京都の市電をまもる会」が発足した。会長は建築家の西山夘三、事務局長は京大助手だった広原盛明(のち京都府立大学学長)が務めた。 全国の路面電車では初めての市民による本格的な存続運動であった。すでに自動車の排気ガス公害が社会問題化していたことや、古い寺社仏閣を抱える観光都市にふさわしい交通機関を残したいという意識が追い風となった。「そもそも中低速交通機関である市電は面機能に適し、高速交通機関である地下鉄は線機能に適した交通機関であり、取って代えられるものではなく併存が望ましい」などの主張を唱え、20万人以上の市民から存続を求める署名を得た。しかし、市議会では共産党が市電存続支持、その他の政党が市電撤去で固まっていたことから、まもる会が議会に提出した署名や請願はすべて否決されてしまう。さらに、交通局の労働組合が市当局の市電撤去の方針に異を唱えず、運動を進める上で大きな痛手となった。市当局による市電の存続の望みが絶たれた1978年1月、まもる会は電車設備のインフラを譲り受けて独自の運営を目指す「市電公社案」を市側に提出するが、道路管理者でもある市はこれを拒否し、存続運動は事実上終焉した。今日のようにNPO法人や別の事業者による鉄道運営が可能な環境であればこのプランにも実現性が生じたとも考えられ、時代を先取りしすぎた構想であったともいえる。
[編集] 京都市LRT構想
市電全廃から20年以上が経過した21世紀に入って、ライトレール(LRT)による市電の復活が複数の団体から提言され、2005年8月には京都市からLRT導入検討の報告書が公表された。ここでは7つのルートを挙げて建設費や収支予測などを検討しているが、そのルートの大半はかつての市電路線をなぞるものである。また、一部のルートは叡山電鉄や京福電気鉄道との直通運転を想定している。
[編集] 今出川線の具体化
このうち今出川線構想は特に具体化してきている。2006年11月には、「今出川通の交通まちづくりとLRT検討協議会」が設置されることが決まり、地元学区・商店街・国土交通省・叡山電鉄・京福電気鉄道・北野天満宮などの多数の関係者が参加することになっている。また2007年1月下旬には、電車の代わりにバスを使って実際に今出川通りの車線の一部を乗り入れ禁止にしての実験が行われる。なお今出川線通りは、もともと車線が狭い道路であることもあって、一部単線で走行させることも検討されている。
[編集] 検討されたルート
検討されたルートは次の通り(電停数・名称は未定)。
- 河原町線
- 京都駅~烏丸七条~七条河原町~河原町三条~東山三条
- 四条河原町~祇園
- 東大路線
- 京都駅~烏丸七条~東山七条~叡電元田中駅
- 熊野神社前~天王町~銀閣寺道
- 今出川線 - 叡山電鉄や京福電気鉄道との直通運転を想定しているため現在、実現可能な最有力路線とされている
- 京福北野白梅町駅~銀閣寺道
- 加茂大橋?~叡電出町柳駅
- 堀川線
- 京都駅~塩小路堀川~今出川堀川
- 大環状線
- 東福寺~高野~千本北大路~西大路九条~東福寺
- 中環状線
- 河原町御池(京都市役所前)~堀川御池(二条城前)~堀川五条~河原町五条~河原町御池
- 小環状線
- 京福四条大宮駅~四条河原町~河原町御池~烏丸御池~四条烏丸
[編集] 参考文献
- 『京都市電が走った街 今昔 -古都の路面電車 定点対比- 』(沖中忠順、福田静二/JTB)ISBN 4-533034217
- 『鉄道ピクトリアル』1978年12月臨時増刊号(京都市電訣別特集)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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