平城京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平城京(へいぜいきょう、へいじょうきょう)は、かつての日本の首都。いわゆる「奈良の都」である。唐の都「長安」をモデルにつくられた。現在の奈良県奈良市および大和郡山市あたりにかけて建設された。
目次 |
[編集] 歴史
藤原京から平城京への遷都は707年に始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われる。740年、恭仁京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで都がおかれた。山城国に遷都してのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
810年9月6日、平城太上天皇によって平安京を廃し平城京へ遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城太上天皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への遷都は実現することはなかった。
[編集] 名称
平城京は現代においては音読みの「へいじょうきょう」と読むが、かつては「ならのみやこ」と訓読みした。では、なぜ「平城」を「なら」と読むのか?諸説あるが一番有力なのは「平坦な都」という意味である。現代においても起伏のある土地を平坦にすることを「土地をならす」というが、「なら」には平坦という意味があり、山がちな飛鳥から平坦な奈良盆地の真ん中に移った都という意味が込められているという説である。そのため「平」の字を使ったが、中国風に雅字(良い文字の意)二字で地名を表記するために、「城市」の意を込めた「城」の字との2文字で「平城」としたものである。また「奈良」や「寧楽」などは「なら」という発音の万葉仮名表記である。かつては朝鮮語の「ナラ(国という意味)」との関連性を指摘する学者もいたが、現在はほぼ否定されている。
かつては、「へいじょうきょう」と読まれていたが、現在では「へいぜいきょう」と読む事に統一されつつある。 主に、中学校、高等学校の指導要領には「へいぜいきょう」で統一されている。
[編集] 都市計画
[編集] 都市計画の概要
平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京が設けられている。東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。各大通りの間隔は約532m、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。
平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。
[編集] 平城京の建築物
平城宮(大内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物である大極殿は740年の遷都の際に取り壊され、後に旧位置の東側に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続するごく一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。
市街地の住宅は、高級貴族が占める4町のものを筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町の規模である。
寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して順次移転されたものである。東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって752年に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。
2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで作られていたのは確実であると発表した。道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことによる。この羅城は中国の都城のような土壁ではなく、簡単な瓦葺きの板塀ではないかとみられている。
[編集] 発掘・調査
棚田嘉十朗によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われた。1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続している。大内裏に相当する辺りは現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。
[編集] その他
「710(なんと)見事な平城京」の年号語呂合わせは有名。
[編集] 関連項目
先代: 藤原京 |
日本の首都 710年 - 740年 |
次代: 恭仁京 |
先代: 紫香楽宮 |
日本の首都 745年 - 784年 |
次代: 長岡京 |