福田正博
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福田 正博(ふくだ まさひろ、1966年12月27日-)は、神奈川県横浜市出身の元サッカー選手である。血液型はAB型。現役時代のポジションは主にFW(フォワード)で、背番号は9番。Jリーグが開幕した1993年から引退する2002年まで浦和レッズの象徴的存在として活躍し、サポーターには「ミスター・レッズ」、「大将」と呼ばれた。現在はサッカー解説者、日本サッカー協会認定のJFAアンバサダーをつとめている。
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[編集] プレイスタイル
- 柔らかいボールタッチ、スピードに乗ったドリブルに強みを発揮し、ドリブル突破からのチャンスメイクや自らの得点で大いに観客を沸かせた。
- 鹿島時代のジーコをして「日本最高の天才プレーヤー」と言わしめ、「ドーハの悲劇」世代の日本代表選手の中では、三浦知良(カズ)に勝るとも劣らない潜在能力の持ち主ともいわれたが、自身のケガやチームの不調などのため、日本代表では100%その実力を発揮できたとはいえない。
- 現役時代、PKを確実に決めることから「PK職人」とも呼ばれていた。自分がファウルされて得たPKも多かった。
[編集] 略歴
[編集] 現役時代
横浜市立十日市場小学校、藤沢市立大庭中学校、相模工業大学(現在の湘南工科大学)附属高校、中央大学を経て、大学卒業後の1989年、父が勤めていたことから三菱重工業に入社。ルーキーながら36得点という圧倒的な力を見せ得点王に輝き、当時三菱重工業サッカー部は日本リーグ2部に降格していたが、それを1年で1部に復帰させる原動力となる。
1993年、Jリーグ発足とともに、三菱自工サッカー部は「浦和レッドダイヤモンズ」として初年度から新リーグに参加し、福田もレッズのエースストライカーとしてチームを牽引した。
Jリーグ発足後の浦和レッズは成績低迷に苦しんだが、1995年には日本人選手初のJリーグ年間得点王となり、ベストイレブンにも選ばれた。
日本リーグ時代から日本代表に選出され、とくにW杯アメリカ大会出場を目指す代表チームの主力選手として予選を戦い抜いたものの(代表でのポジションは主にMFだった)、同最終予選のイラク戦の結果が引き分けとなり、W杯初出場を逃した。福田もまた「ドーハの悲劇」で苦杯をなめた1人だった。
ながく浦和レッズの中心選手、キャプテンとしてサポーターから愛され、度重なるケガやチームの2部降格などの数々の苦難を乗り越えて選手生活を送ってきたが、2002年のシーズンを最後に、同じく「ドーハの悲劇」を経験したチームメイトであり、元日本代表主将でもあった井原正巳とともに現役を引退した。翌2003年には埼玉スタジアム2002で、5万人以上の観衆を集めて引退試合が行われた。その年に浦和レッズは初タイトルを獲得するのだが、福田はチームタイトルを獲ることができなかった。福田引退関連グッズだけで、1億円以上の売上を記録したといわれる。
[編集] 引退後
引退後は、サッカーの普及活動に協力する日本サッカー協会の「アンバサダー」に就任している。サッカー解説者としても、TBS、ニッポン放送のスポーツ番組などにたびたび出演している。また、2004年4月にはじまったニュースショー「報道STATION」(テレビ朝日)と、TBS「スーパーサッカー」(準レギュラー)では、サッカーコメンテーターをつとめている。
現在のサッカー解説者の中で一番多く複数のテレビ・ラジオ局と契約を交わしており、日本代表の海外遠征をはじめとする海外取材がほかの解説者と比較して際立って多い。そのため、「世界を股にかける男」とも呼ばれている。
[編集] 個人成績
[編集] JSLでの記録
- 出場試合数:33試合(1部)、26試合(2部)
- 得点数:14得点(1部)、36得点(2部)
- JSL杯記録:1試合0得点
- コニカ杯記録:5試合2得点
- 天皇杯記録:5試合2得点
[編集] Jリーグでの記録
[編集] Jリーグ年度別成績
年度 | チーム | J1/J2 | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 |
---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | 浦和 | ― | ― | ― | 9試合4得点 | 4試合2得点 |
1993年 | 浦和 | J | ― | 27試合4得点 | 0試合0得点 | 2試合3得点 |
1994年 | 浦和 | J | ― | 25試合6得点 | 0試合0得点 | 3試合2得点 |
1995年 | 浦和 | J | ― | 50試合32得点 | ― | 3試合2得点 |
1996年 | 浦和 | J | ― | 4試合3得点 | 7試合4得点 | 0試合0得点 |
1997年 | 浦和 | J | ― | 29試合21得点 | 8試合4得点 | 0試合0得点 |
1998年 | 浦和 | J | ― | 17試合7得点 | 0試合0得点 | 3試合4得点 |
1999年 | 浦和 | J1 | ― | 23試合13得点 | 4試合0得点 | 2試合1得点 |
2000年 | 浦和 | J2 | ― | 12試合2得点 | 0試合0得点 | 0試合0得点 |
2001年 | 浦和 | J1 | ― | 14試合2得点 | 3試合0得点 | 4試合0得点 |
2002年 | 浦和 | J1 | ― | 27試合3得点 | 9試合1得点 | 1試合0得点 |
J1通算 | ― | ― | ― | 216試合91得点 | 40試合13得点 | 22試合14得点 |
J2通算 | ― | ― | ― | 12試合2得点 | 0試合0得点 | 0試合0得点 |
[編集] 日本代表での記録
- 出場試合数:45試合
- 得点数:9得点
- 初出場:1990年7月27日 対韓国戦
- 初得点:1992年8月24日 対中国戦
[編集] 個人タイトル
[編集] 備考
- 日本代表に初めて選出した横山兼三監督は俊足のフォワードをウイングバックに起用する方針を採っており、福田はそういった選手のなかで比較的成功したうちの一人である。そのため、時折「元日本代表ディフェンダー」と紹介される場合もある。後にオフト監督下では攻撃的ミッドフィルダー、それ以降は主にフォワードとしてプレーした。
- Jリーグ発足初年度の1993年6月9日のカシマサッカースタジアムでの鹿島アントラーズ戦でJリーグでの自身初ゴールとなる先制ゴールを決めたが、福田のゴールにGK土田尚史以外の全選手が福田に集まって祝福したため、ポジションに戻ることを忘れてしまい、プレー再開後わずか8秒で相手FWの黒崎久志(当時比差支)に同点ゴールを許した。このことは、当時の浦和レッズの低迷期の象徴として、現在もテレビ番組などで紹介されることがある。さらに、これ以降浦和レッズ以外の各チームもゴールを祝福する時は、ディフェンス陣は祝福に参加しない、祝福の時間を長くしなくなったといわれている。ちなみに、2006年まで浦和レッズがカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦ではまだ2勝しか挙げていない。
- 日本代表対ブラジル代表の対戦史上、日本人として初めて、ブラジル相手にゴールを決めた選手である。(ちなみに、2002年ワールドカップ直前の練習試合でフランス代表相手に日本人初ゴールを決めている)
- 浦和レッズがJ2降格争いを演じた1999年シーズンの最終節、サンフレッチェ広島戦では、延長戦に入った時点でJ1残留の可能性が消えたことを知りつつもプレイを続けた。その延長戦で皮肉にも福田自身が延長Vゴールを決めたが、憮然として表情ひとつ変えず、チームの降格を知らなかった池田学がVゴールを喜んで抱きついてきたのも振り払って、厳しい表情をくずさなかった。その様子はテレビ中継でも伝えられた。今日でも、そのときのVゴールを「世界で一番悲しいVゴール」として振り返るサッカー・ファンは少なくない。
- 現役最終年である2002年シーズンの第2ステージ、対名古屋グランパスエイト戦勝利後のヒーローインタビューで「負けられないよ」と発言するつもりが「負けないよ」と言い間違えてしまった。その後、決勝まで進んでいたナビスコカップで鹿島アントラーズに敗戦、リーグ戦も連敗で優勝争いから脱落。公式戦12連敗13戦勝利無し(福田引退後の2003年にまで及ぶ)となり、浦和レッズサポーターは「負けないよ、の呪い」として忌み言葉としている。
- 引退した福田の背番号「9」を受け継いだのは永井雄一郎である。しかし、「9」の背番号に染み付いた「ゴールゲッター」「チームの象徴」のイメージがあまりにも強く、当初はFWの選手たちが背番号「9」を引き継ぐのをためらった、とも言われている。
- 現在でも浦和レッズのサポーターの間では根強い人気があり、なかには「将来は浦和の監督に」という声もある。公式HPによれば福田自身も将来浦和の監督になることを希望しており、2006年10月現在S級コーチライセンス取得を目指して講習を受講している。
- 浦和が2004年シーズンの第2ステージで優勝した時には、テレビ埼玉の解説者として中継席にいた福田に向かって、スタジアムの浦和サポーターから、大きなコールが沸き起こった。「GET GOAL FUKUDA !!」。現役当時の福田の応援コールだった。それは、クラブのステージ初制覇をともに喜び、そして、かつてクラブの苦難の時期をともに戦った「ミスター・レッズ」を称える声援でもあったのである。
- 今となっては想像もつかないが、少年時代は野球と柔道もやっていた(公式HPで少年時代は巨人ファンだったことを明かしている)。だが、柔道に関しては毎年冬に出てくるお汁粉が苦手だったため辞めてしまった。
- JSL時代にドイツへ留学しようとしたことがあったが、中止されてしまったことがある。
[編集] テレビコマーシャル
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Jリーグ得点王
- 1995
-
- 先代:
- フランク・オルデネビッツ
- 次代:
- 三浦知良